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ばいおろじぃ的な村の奇譚  作者: ノラ博士
52/62

其ノ五拾弐 肥沃な土壌が自慢の村

 奇妙な村だった。


 日本の木曽山脈に位置する、中腹の集落。その周りは深い森に囲まれているが、局所的に平らで陽当り良い南向きな領域であり、水利も悪くないため、昔から人が住んでいる場所であった。耕地は少ないものの盛んに農業が営まれており、今時期は雪の下にて野菜が甘く熟成されている。


「はいっと、こりょも美味いんだに!」


 ひょいと入った食事処のメニューには、そうした特産の野菜がたっぷり使われていた。シャキシャキ感が心地いい天ぷらの次は、体の温まりそうな野菜鍋だ。…うん、ホクホクした煮加減でこれもまた良い。ニンジン、キャベツ、ホウレンソウ、ダイコン。低温多湿な雪の下にて保たれたことで、糖類やアミノ酸が増えて甘味がとても増している。キャベツは芯まで、ホウレンソウは根も含めて楽しめる。

 県下のちょっといいレストランなどで御用達なこれらのブランド野菜は、味も食感も栄養価も、確かに一級品であると言えるだろう。


 しかし、我々の旧農学部門の調査によると、これは大変おかしい状況であるそうだ。この村では、田畑に肥料を使うことが全く無い上に、樹林に戻すなどしてゆっくり回復させることすら行わないという。

 それなのに豊かな実りをもたらし続けるのが村の自慢になっており、そうなると確かにおかしな話に思える。


 この辺りは、アロフェン質の黒ボク土に覆われている。保水性と透水性のどちらにも優れ、柔らかく軽いため耕しやすい、日本でよく見られるボクボクした質感の黒い土だ。火山灰に由来するアルミニウムの化合物が含まれていて、これと腐植酸の結合などにより黒さを呈するのだが、農作物にとって重要なリン酸とも強く結合し捉えてしまい、そこは難点となっている。また、酸性に傾きやすい性質もあるため、肥料や石灰などによるケアが本来は欠かせない。

 しかし、土壌サンプルを分析した結果によると、化学肥料はもちろんのこと、糞尿も草木灰も植物油の絞りカスさえも、使われてきた形跡は皆無だということだ。


 農学部門が生物学部門に編入された際の慌しさの中で塩漬けにされ、忘れ去られていた案件。それを、日本に寄るついでに見てくることにしたのが、今回の訪問である。


「ありがとー ございましたー」


 さて食事も終えたことだし、辺りを散策してみようか。右方に見える御嶽山おんたけさんを眺めながら、少し歩く。間もなくして、やや開けた場所にある農場に着いた。地面を覆う雪が夕陽に照らされて、紅くまぶしく輝いている。


 この雪の下で眠る土の謎について、何も解明されてないわけではない。通常なら肥料によって補われる成分の内、有機態の窒素化合物は、生やしたレンゲソウをそのまま土に混ぜ込むことで確保されている。つまりは緑肥であり、マメ科植物お得意の共生細菌が行う窒素固定のおかげで、空気中の窒素が土壌へと取り込まれている。

 リン酸・窒素と並んで重要なカリウムイオンに関しては、雲母(うんも)長石(ちょうせき)といった土壌中の鉱物からの供給が促進されている。これは、ちょっと珍しい微生物たちの働きによるもので、同様のケースは国内で他に3例が知られているらしい。


 しかし、リン酸については不明なのである。ソバなど一部の植物では、根の周囲に酸を分泌して土からリン酸を溶かし出すが、そういった作物はこの村だとむしろマイナーだ。そして、それらがメジャーであっても肥料が欲しいのには変わりない。

 また、黒ボク土なのに酸性でないことも不思議な点として残っている。通常なら、何もケアしていない黒ボク土は、水素イオンを優先的に吸着するため酸性に傾くし、生育に求められる金属イオンは少なくなってしまう。酸で溶け出したアルミニウムが根に悪さをしもするので、基本的には好ましくない状況である。しかし、この村の土は何故か適度に中和されているようで、pHは中性近くでいい感じに保たれている。


 カルシウムイオンの濃度が高めになっていることから、地下水による石灰岩の侵食に起因するのではと調べてあったが、地学部門からのコメント付きでそれは否定されている。まあ、地質的に炭酸カルシウムが豊富であろうと、pHの方は説明を出来てもリン酸に関しては出来ないわけで、他の要因も考える必要はあったのだが。


 それでは、私は少し違う観点から考えてみるとしよう。この村を散策して気付いたことが1つある。寺も神社もあるというのに、墓石がどこにも見当たらないのだ。小型のものが雪に埋もれているのかも知れないが。まあ、まずは出くわす村人たちに聞き込みをしていくとする。


「こっちゃー知らすかやい」


「ねーだ」


「分からすか。分からんずら」


「変わってっちゃったずらー」


「どっちもこっちも、あらすかい!」


 うーむ、有益な情報が得られないな。この村には墓が無いという言ではあるが、彼らからは、墓というものを知らないようにも、あるいは何かを隠しているようにも感じられる。日も落ちてきたことだし、認知症がそこそこ進行しているこの老人でラストになるか。


「……知らねかい? ()()()にしるわけだー」


 えわと…? いや、この辺りの発音を考慮して、いわと…岩戸のことだろうか。洞穴や古墳などの出入口を塞ぐ、岩製の扉。私の問いかけに対する回答になっているのなら、この村での葬法について参考になる情報だ。


「俺もえれるわけだわー」


 そう言い残して、老人は去っていった。ふーむ。これは、理学的なアプローチだけでは簡単じゃない案件だったのかも知れない。早速、考古学部門に照会をしておくか。


「……というかたちで、明治の初期には調査を終えています。…はい、はい。問題ありません。常識の範囲内であれば、はい。よろしくお願いします」


 少し問い合わせただけで、答えそのものに近い情報が共有されてきた。これはまた面白いケースであるようだ。やはり、部門を横断的にコミュニケーションをとるのは大事だな。


 考古学部門から聞いた通りのルートを通って、村の外れの斜面を登っていく。30分ほど歩いたところで、大きな切れ目のある、岩肌が露出したところに到着した。大きいと言っても、小柄な大人でどうにか歩けるくらいの細長さである。

 この切れ目の先に続く空間が目的地なわけだが、ここはおとなしく、我々の調査によって判明している別の入口へ向かうとしよう。今では村の誰も知らないはずの、秘密のルートだ。


 白雪の山中を更に歩き、トータルで1時間が経過したくらいのタイミングで、それは見えてきた。昇り始めの立待月(たちまちづき)に照らし出される、直径1メートル半と少しな岩製の扉。その表面には何かが放射状に彫られて見えるが、摩耗していてよく分からない。まあ、考古学部門のレポートでは示してあるはずだ。

 村人たちからは忘れ去られてるようだが、これが彼らの言う本来の「岩戸」なのだろうな。さて、扉を開こう。ヒジキゴケの()した部分に手を添えて、右へ転がすように動かしていく。そこそこ重たいが、1人でもどうにか大丈夫な程度ではある。


「ガコンッ」


 よし、開ききった。……なるほど、確かにこれは、自然に形成された洞穴ではないな。トンネルの様にほぼ均一な太さで長々と続いており、その内壁には原始的な道具で掘り進めたのだと理解される跡がびっしりと残っている。

 では、この先に向かうとしよう。ちょうど月明かりが差し込んできているので、暗くて困るということは特に無い。さくさくと歩いて進んでいく。


 そうして5分ほどで、半球状のホールの様に大きく広がった空間へと出た。うん、ここだな。途中で寄った岩肌の切れ目も、約15メートル上方に視認される。そして、その下には数百人分はあろう死体が乱雑に落ち重なっていた。

 つまり、ここは村の投げ込み墓になっているわけである。衣服などは(まと)わない状態での葬送らしく、その死体の多くは白骨化が進んだ様子を包み隠さず見せていた。比較的に新しいものには皮や肉などが残っており、辺りには軽く腐敗臭が漂っている。


 これも中々に面白くはあるのだが、更に興味深いのはそれら死体の山の下、というより私の足元も含めて底面に整然と敷き詰められている、ずっと古びた質感を呈した方の白骨である。

 敷き詰められて、という表現は不適当かも知れない。考古学部門から聞いた話によると、およそ2万人分にも及ぶ白骨が十重二十重(とえはたえ)に積み上げられた状態らしく、その厚みはこの空間の高さと同じくらいになるそうだ。それでいて立体的な幾何学模様を思わせる独特な配され方が、最下層まで続いているという。


 本来は何か特別な目的で作られたに違いないが、今や断片的な情報や理念が受け継がれるのみのようだ。投げ込み墓として流用されるようになったのは、時代的には中世からのことらしい。粗野なやり方だと言えばそうであるし、ここの村人たちとしてはあまり話したくなかったことだろう。

 村が、元々はこの場所の番人の里だったと仮定して、その伝統がいつ頃に廃れていったのかは、分かっていない。ただ、これ自体が縄文時代に作られたのは確かとのこと。白骨と白骨の隙間には貝殻がぎっしりと詰まっており、とりあえず貝塚ではあると認識されている。


 ふむ。貝の種類としてはハマグリが最も多く、他にもオキシジミ、アサリ、マガキなどが確認されるな。これらの貝殻の主成分である炭酸カルシウムが溶け込んだ地下水によって、この辺りの土は程よく中和されているのだと考えられる。

 通常なら酸性の土壌によって溶け失われていく骨もまた、そのpHの恩恵によって風化はしつつも形を残している。そして、少しずつは溶けていく中でリン酸を周囲にじんわり供給することで、あの豊穣なる土地を成立させたというわけだ。


 土壌中のカルシウムイオン濃度が高かったことも、貝殻の炭酸カルシウムと、人骨のリン酸カルシウムがこれだけ存在していると分かれば、当然な状況に思われる。

 …それにしても、この遺跡は一体どういった目的で作られたのだろうか。少し気になるので、後で考古学部門のデータベースにアクセスさせてもらおう。


 現時点での私の推理も、一応まとめておく。この貝塚で見られる貝殻は、どれも貝塚では珍しくない種類のものに思われるが、そのことが既に特異だと言える。例外なく海産の貝なわけだが、今も昔も、ここは日本で最も内陸だと言えるくらいに海岸から離れている。この辺りなら、川や湖で捕れる貝でないと生活の痕跡としては不自然であり、そこから何か特別な意図が感じられる。

 あれだけの量を確保するには海での漁獲が必要だったか、あるいは淡水性の貝では不都合があったのか。いずれにせよ、多くの炭酸カルシウムが求められたことが理由かも知れない。


 そう考えると、それによって人骨を酸性の土壌から守ること自体が、そもそもの仕様であった気もしてくる。あるいは土の肥沃化が目的だったのかも知れないが、それは意図せずの結果に過ぎないという線もあり得るはずだ。

 敷き詰められた骨をよく観察したところ、おそらく日本の各地から集められたと考えられるだけの、形態的な差異が見受けられた。このことは重要なヒントになりそうだ。少なくとも、この辺りにかつて住んでいた者たちの墓所ではない、という説を考える根拠になるだろう。


 その様に色々と思索してみながら、私はゆっくりと洞穴を引き返していった。もう外が近い。岩戸が開かれたままの丸い出入口から、朝の光が差し込んでいる。その輝きの中にぱっと飛び込み外に出て、扉を元の通りに重々しく閉ざした。

 ふと西の方を見ると、沈みかけの月と御嶽山が視界に入ってきた。次の目的地は、ちょうどこの延長線上になるか。考古学部門のデータベースにて当該のレポートを閲覧しながら、私は次の村へと歩みを進めた。

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