其ノ五拾壱 通婚し合わない隣る村
奇妙な村だった。
イタリア共和国のレッシニ山地に位置する、隣り合った2つの村。アルプス山脈の周縁部、山林の谷間に形成されたわずかな平地に人々が住まう。冬はそれなりに冷え込むようで、辺りは雪に白く覆われている。
特に目立った名所があるわけでもない田舎町だが、麓にある街の方は、ロミオとジュリエットの舞台として有名だ。そして、それに劣らぬ悲恋のエピソードが、この2つの村でも織り成されてきたのかも知れない。
私が今回の訪問を決めたのは、この地の州都であるヴェネツィアで食事をしていた時である。トマトとモッツァレラ・ディ・ブッファラ・カンパーナの前菜で口を慣らした後、イカ墨のうま味とコウイカの食感が舌を楽します黒いリゾットを堪能していた時、とも言える。
隣のテーブル席に座った男女が、やっと安心を出来るといった雰囲気を隠さずに話し始め、その内容に興味を引かれたからだった。
その男女は、どうやら駆け落ちをしてきたらしかった。なんでも、男が暮らしていた相対的に北の村と、女の方の南の村とでは、それぞれの村の出身者の間で結婚することが許されないそうだ。その禁を破ったなら、何らかの災いが生じるという話みたいだが、その具体的な内容までは知らないようだった。
この2人はどうにか結婚を認めてもらおうとして、村のしきたりに穴がないかを調べたものの、北の村の女と南の村の男とであれば大丈夫な時期が昔はあった、という情報がほぼ唯一の成果だったとのこと。それですら自分たちとは逆パターンの条件であり、望みを持てなくなった彼らは村を出る決意をしたようだ。
私は、トレッビアーノ種のブドウから作られた白ワインで食事を締めながら、男女が逆ならオーケーという条件が気になった。そこに幾分かの生物学的な怪しさを感じ取り、こうして調査に来たのである。
さて、まずは南の村から始めよう。あの2人の話などから推定して、ここで合っているはずだ。冬支度を終えたブドウ畑や、石とレンガで造られた家屋を見て回り、村の様子を観察する。まあ、印象としては平凡だなと感じられる。
観光客は1人も見当たらず、時折に遭遇するのは誰もがここの村人のようである。あいさつの声をかけすれ違いざまに、手袋の中指先に仕込んである麻酔薬を相手の肌に塗り付け、人差し指先の吸血針を刺していく。そうして50人から血液をサンプリングしたところで、続けて北の村へと向かった。
静寂に包まれた山際の小道を、しずしずと進む。針葉樹も広葉樹もすっかり雪が降り被さっており、大して距離も離れていないのに、麓の方とは冬の度合いが異なることが感じ取られた。
北の村には40分ほど歩くと到着した。ざっくり見た感じは、南の村とあまり変わらない。同様にして血液を採取していき、こちらも50人に達するまでそれを続けることにした。出歩いている人が少なくて時間はかかりそうだが、夕方前までには集まるだろう。
そうして計100人分のサンプルを、どうにか明るい内に集め終えられた。ゲノム解析を開始するとする。そして私は、その間に話を聞いておきたい人が居るはずの場所へと足を向けた。
その場所は古びた小さな教会であり、村の入口側に建っている。尖塔を備えた石造りの建物で、派手さは無いが積み重ねてきた歴史が伝わってくる。
「Buona sera, signore」
目的の相手は、ちょうど教会の前に立っていた。私が片言のイタリア語で話しかけると、落ち着いた笑みを浮かべながらあいさつを返してきた。ヴェネツィアへ駆け落ちした男女が、情報収集を行った人物。私も何かしらの情報が得られないかと、その神父とコンタクトをとりに来たのだ。
「La peste nera」
寒いからと教会の中で話を聞かせてもらったところ、南北の村の間で通婚が抑制されている事実はすんなりと教えてもらえた。どうやら、私のことを民俗学か何かの研究者だと勘違いしているらしい。
そして、なるほど。禁を破った時に起こる災いとは、黒死病…ペストのことだったのか。
「Che Dio vi benedica」
すっかり日が落ちて暗くなるまで、色々と話を聞かせてもらった。この村と、南の村とで災いたるペストが流行ったのは、教会の記録によると14世紀とのことだった。確かに、イタリアではその頃から罹患者が増えていったはずである。
しかし、本当にペスト菌が関わっているのだろうか? 関わる場合、結婚における男女の組み合わせは影響し得るだろうか? 私は、そうした何となくな疑念の答えが得られることを期待して、話をしている間に終わっていたゲノム解析の結果に目を移した。
……ほう。ふむ、ふむ。うん、勘でしかなかったが、やはりペストではなかったか。そして、これはレトロウイルスが関わっている? そう考えるのが妥当な感じであろうが、かなり特殊なケースなのは間違いない。宿主である村人たちのゲノムに、ウイルスのゲノムが2分割…あるいは3つに分かれてと言える状態で、奇妙な配置で組み込まれている。
その1つは細胞核のゲノム、7番染色体に位置していて、そこにはウイルスの殻を構成するキャプシドや、逆転写酵素にインテグラーゼといった酵素の遺伝子が並んでいる。本来はウイルスとして細胞間を移り渡り、細胞内でゲノム上を移動することも出来たはずだが、移動に必要なDNA配列であるLTRなどが失われ動けなくなった状態であろう。また、挿入されている位置は皆が同一であるため、遺伝によって伝搬してきた蓋然性が高い。
このウイルスゲノムの断片は、北と南、両方の村の住人たちで共通して見られた。保有している割合は、両村ともに4割弱といったところだ。その一方、残りの2つの部分については、各村の住人たちがそれぞれ片方だけを持っている。
駆け落ちした女性の方が暮らしていた南の村だと、それはミトコンドリアのゲノム上で確認された。レトロウイルスが細胞の核ではなくこの小器官にというのは珍しいが、調べた村人たちの多くで確認され、例外はたったの3人だけ。こちらも保有者の間で個人差はほぼ無く、ミトコンドリアが母親からのみ受け継がれることを考慮して、共通の祖先な女性に由来するウイルスDNAだと考えられる。
こちらのゲノム断片には、細胞の出入りに必要な膜タンパク質や、プロテアーゼなどの遺伝子が含まれていた。またLTRに挟まれており、条件さえ整えば宿主のゲノム内を移動することも出来るはずだ。
ただし、ゲノム内の移動にしろ、細胞間の移動にしろ、それらには7番染色体にコードされているタンパク質も必要となってくる。しかし、このウイルスのゲノム断片は、ミトコンドリアの中でRNAの状態にまではなれるものの、すぐ外の細胞質へと出るメカニズムを有していない。
ミトコンドリアから出られないのは、このRNAが設計図となっているウイルスのタンパク質についても同様だが、こちらについては、ミトコンドリアの独自性が故にそれ以前の問題である。そもそも作り始めるところからして上手くいかないし、アミノ酸の対応関係なども異なるため正しいタンパク質が作られようも無い。
つまり、7番染色体とミトコンドリアとに分断されたウイルスゲノムは、2つで1つと言える構成要素なのにも拘わらず、そのままでは互いに触れることも出来ないのだ。
そこで、男性の方が暮らしていた北の村で保有する遺伝子が要となってくる。それはY染色体上にあり、SSBP1遺伝子が重複して変異したものだと考えられる。調べた男性22人中の21人で確認された。なお、この村でXY女性の者は観察されていない。
この遺伝子の働きは面白い。コードするタンパク質は細胞質で合成された後、ミトコンドリアに移動してウイルスRNAと結合し、その構造変化を受けて細胞質へとUターンする。そうしてウイルスRNAを外に運び出すわけだが、機能はこれだけじゃない。結合していたRNAを放出した後、今度は細胞核に入っていき、7番染色体のウイルスゲノム断片に働きかけ、そこにある遺伝子の発現を活性化する……ということだったはずだ。
一旦、この過去の話を続ける。
この風変わりなウイルスが成立するのには、これら3つ全てが必要となる。南の村の中だけで、あるいは旅人と交わるくらいでは、生まれてくる子供は、7番染色体とミトコンドリアに含まれるゲノム断片を持つに留まる。ミトコンドリア内の要素は出てこられず、ウイルス粒子が作られても空っぽの膜なしとなってしまう。北の村については、ミトコンドリアから解放する能力付きのY染色体を持つ男の子が生まれても、出すべきゲノム断片の方が存在しない。
つまり、これら2つの村の間で男女が交わり、南の村からミトコンドリア、北の村からY染色体が受け継がれた男児が成されることで初めて、このウイルスは完成品になれるのだ。前者は宝箱、後者はその鍵に例えられるだろう。
さて、南北2つの村で結婚が許されない理由は、そうして生まれてくる男児が、致死性の高いウイルスの産生体になるからだと考えられる。
Y染色体に生じたSSBP1に由来する遺伝子は、発現する力が弱く、十分に効いてくるのは出生後になるようだ。その頃にはタンパク量が閾値に達し、ウイルスが赤子の全身で増殖、強力な出血毒であるプロテアーゼを産生する。それは多種類の細胞を破壊しつつ、フィブリンの分解により血液の凝固を阻害する。そうして赤黒く変色して死んでいく様子は、敗血症ペストに勘違いされたことだろう。また、その赤子は死ぬまでの間に盛んに飛沫感染を引き起こし、これは肺ペストと思われたはずだ。
赤子から感染するウイルスは、強力なプロテアーゼの遺伝子をゲノム断片に持っているので、感染者をほぼ必ず死に至らしめる。だが幸いなことに、ウイルスを複製するのに必要な遺伝子の多くは赤子の細胞から出てこれておらず、感染はそこでストップするのだ。
とは言えそれは、通婚を禁止するのに十分過ぎるほどの恐怖だったに違いない。保因者が現在より少し多い半数だったと仮定して、北の村の男と南の村の女との間に、8分の1の確率で黒死をもたらす男児が生まれる計算なのだから。…男女が逆なら確かに可能性は0%になるが、そのパターンは許されてた時期があるというのは驚きだ。経験則で組み合わせの妙を理解していたわけで、よくまあ見極められ、採用したものだと感心させられる。
話を現在に戻すが、実は、この村で特有のY染色体には例外なく、ミトコンドリアからウイルスRNAを持ち出すのに重要なDNA配列において、新たに変異が起きたと推測される部位が存在する。おそらく、両村の間で結婚をせず、600年以上の歳月が流れる過程で、壊れてしまったのだろう。
つまり、かつて起こった悲劇はあくまで過去の話でしかなく、今や禁婚のしきたりは意味を為さなくなっていると言えそうだ。
それにしても、極めて特殊なウイルスだな。感染では再生産されず、ゲノムの全要素を伝えるには宿主の子に受け継がれる必要がある。しかも、それには親子の性別による制限が加わる。
この様なウイルスが、一体どうやって生じたのか。おそらく、元はゲノムが分割されておらず、染色体上の1ヶ所に入り込むLTR型のレトロウイルスの一種だったのだと思われる。それが何かの拍子に分割してしまい、片方がミトコンドリア内に入って封印された。その1人の女性が、両方の村で共通な祖先であるはずだ。そして、後にY染色体に生じた遺伝子により珍しいかたちでの復活が可能となった。その1人の男性が、北の村の祖先ということではないか。
元のウイルスの構成要素が、7番染色体とミトコンドリアとで過不足なく分かれていることは、レトロウイルスベクターなど、人為的なものを想起させる。また、Y染色体に獲得された遺伝子の効果は、都合が良過ぎるようにも思える。
しかし、人智が及ばないというほどの事象ではない。そんなことが起こる確率は低くはあろうが、あり得る話の範疇ではある。
1日後、少し調査を依頼していたA級諜報員から、早速にレポートが届いた。うん、新しく入った彼女はやはり仕事が早いな。
ふむ。教会の近くにて発掘した集団墓地から、今回のウイルスで死んだ14〜15世紀の村人たちが発見されたか。思った通り、その当時はY染色体上のキーとなる遺伝子が、ミトコンドリアからウイルスRNAを解放する機能を有していたのだな。あとは、私がサンプリングしなかった村人のゲノム解析の結果は…特に解釈が変わるようなことは無いか。んー、駆け落ちした男性の父親がずっと前に死んでいたのは残念だ。
あの男性が保有しているY染色体、それがどんなタイプなのかは、この内容からだと分からない。もしも、彼が古くからのそれを受け継いでいたとしたら、あるいは再獲得していたならば……などと考えながら、私は次の村へと歩みを進めた。




