其ノ四拾八 アンチ優生学を試す村
奇妙な村だった。
サウジアラビア王国のアカバ湾沿岸に位置する、直線的に配された未来的な都市。高さ500メートルに達する平行な2壁が長大なラインを大地に描き、それらが挟む細長い空間に、縦方向へとコンパクトにまとめられた区画が延々と連なっている。それらは1つ1つが日常生活を完結させる町であり、買い物をする店舗や娯楽施設に病院など、大抵のニーズには分単位の徒歩でアクセス可能に設定されている。
各区画は地下鉄で接続されていて、相互に行き来することも可能である。しかし、その内の1つにはある程度の制限が設けられており、ライン上の点として村的な様相を呈していた。
この区画が特別扱いになっている理由は、特殊な医療体制の恩恵を供する場所だからで、やや煩雑な手続きは必要なものの、世界中から希望者を受け入れている。
私は、見学という名目で正規の申請を済ませておいた。空港に最寄りの区画から入境し、公共交通機関を利用して、目的地の地上部にちょうど到着したところだ。
そこは、中々に特異な見た目であった。それぞれ南北に面する巨壁は垂直にそびえ立つメガストラクチャーに他ならず、青々とした空を狭く直線的な開放部へと限定する。
人の営みで移り変わる従来の都市とは違い、細部も最終形も全てが計画・造成されたこの場所は、不自然の極みとも言える果てしない整然さを感じさせてくる。デザイン性は高く、内壁はキューブを複雑に積み重ねたような構造を基調とする目新しさ。見渡し見上げる至るところに生える木々や草花も、完璧な調和のコーディネートだと感じられる。森に還りつつある遺跡とはまた異なった、人工物と植物の奇妙なコンビネーションだ。
そして、見かけられる人々は実に多様な人種で構成されている。貧しい国の出身者がやや多そうではあるが、世界が千人の村だったらと縮図を考えたなら、これに近しい割合かと思える程度には万遍ないグローバルさだろう。
この区画を訪れる人々の目的は、大きく分けて2つとなるが、それは、どちらも子供を健康に生み育てることである。
まず挙げられるのは、胎児の遺伝子や染色体に病的な異常が見出された場合の対応としてだ。出生前の診断によってリスクを認識はしたが、堕胎は望まないという者は少なくない。そういった欲求に対して、生まれてくる子供の病状を和らげる一般的には最高峰の医療が、この区画で受けられる。
外科的な手術や食事・運動などの最適化もレヴェルは高いのだが、最も注目されるのは遺伝子治療となっている。四半世紀ほど前に流行った、出生後の投薬によるアプローチではなく、妊娠中、特に初期〜中期の胎児に行うものである。
特定の臓器にのみ正常な遺伝子を導入することを基本としており、フェニルケトン尿症なら肝臓、道化師様魚鱗癬なら皮膚、デュシェンヌ型筋ジストロフィーなら筋肉といった具合に、ゲノムに変更を加える対象は厳密に定められている。これは、新薬の開発において副作用などを調べるのに都合がいいだけでなく、生殖細胞にまで影響を与えることを防ぐための方針らしい。そのため全身性の遺伝子治療は行われていないが、そんな制約がある中で、多くの病について治療法が開発されてきた。
そうした治療を受けた子供の継続的な経過観察を条件に、両親ごと住人になって補助金を得る制度があり、この区画の定住者は年々増えているそうだ。
1つの遺伝子の変異による病であれば、妊娠中の1回だけの投薬で完治するケースも今や数多い。しかし、染色体の異常によるものは複数の遺伝子が関わり、全身的な影響を及ぼすことが珍しくなく、その難易度から、遺伝子治療する病状をシビアなものに限っている例もある。
その代表的なものは、ダウン症候群であろう。そこを歩いている青年がそうであるように、肉体的な外観は典型的な症状を示しており、特に処置は施されていないように見える。心臓の中隔の欠損や、消化管の閉塞などは、必要に応じて手術で対応してあるだろうが。他にも、昔ながらの投薬などによる対処…例えば糖尿病であれば、食事制限やインスリン注射が為されているはずだ。
彼はその所作から判断して、DYRK1A遺伝子などの発現を低下させるマイクロRNAを脳に導入する治療を受けたのだと考えられる。それにより、神経細胞が通常に近い数に保たれることで、知能の低下が抑えられるし、アルツハイマー型認知症になるリスクは大幅に下がることになる。
私からすると、余剰な21番染色体を丸ごと、全身の細胞で不活性化すればいいのにと思ってしまうが、そこは世界的に禁忌となっているから、まあ仕方ないだろう。
まだ動物実験の段階みたいだが、生殖細胞は対象としない制約は守りつつ、全ての体細胞に対する遺伝子治療の開発も進められてはいるそうで、それらはもう少し面白そうだ。より大規模な遺伝子の抑制によって、パトウ症候群やエドワーズ症候群の治療が目指されているし、部分モノソミーには不足する遺伝子の大量導入、ハッチンソン・ギルフォード・プロジェリア症候群では変異した箇所の置換による手法で、研究中だと聞いている。
世界中を見渡しても、一般の施設でこれほどの遺伝子治療を受けられる場所は他に無い。治験中のものを含めれば、その度合いは更に跳ね上がる。実績は豊富であり、最初期の定住者たちの間に設けられた子への遺伝子治療も行われ始めている。
…病的な変異を無秩序に蓄積していくやり方に、私としても危惧する点はある。突然変異は進化の原動力となるわけだし、折角なので溜めたくなる気持ちも分かりはするが、死ぬ個体は死んで、環境に適した変異が選択されてこそ進化は進むのだから。とは言え、ダウン症候群が天才へと繋がる道もあったりするので、この特殊な環境で何が起こるのか、注意深く観察しておきたく思う。
ただ、この区画に関しては強めの懸念点もある。自然には受精・妊娠が起こらない場合の対応である。具体的には、運動性の低い精子、卵子との融合が出来ない精子、その逆パターンなどにおける顕微授精や、精子・卵子の生産に問題があってiPS細胞から人為的に作るケースである。
一旦これを行い始めると、次世代を男女の力のみで産する能力が損なわれた遺伝情報が子に伝わってしまい、世代を重ねて続けるほど、同様の治療を受けなければ子を残すのが難しくなっていく。時が経てば新たな変異も生じてくるわけで、最終的には、生殖に科学技術が必須となってしまう未来が待っているはずだ。
我々の施設では男から卵子、女から精子を作るサービスを提供しているが、それらは独力で生殖細胞を作れる子を成すという意味で、ここでの対応とは全く異なる。
生殖細胞の時点で人の手が加わるアプローチでは、それを課した病的な変異を取り除くことが望ましい。一方で、何をもって病的とするかは恣意的になり兼ねず、病的なものの生存に有利に働くケースを考慮すべきでもある。また、この区画でのように、通常の生殖能力が損なわれていく状態にて世代を重ねることで、何か面白い変化が生じる可能性も意識していいだろう。…中々にチャレンジングな試みではあるが。
これら2種類の、劣性学的な実験とでも言えようことを実施したく考える研究員は、我々の組織には居なさそうに思われる。折角なので観察はしておこうくらいに改めて考えながら、私は次の村へと歩みを進めた。
 




