其ノ四 妖怪が人間の娘を孕ます村
奇妙な村だった。
中華人民共和国の四川省、邛崍山脈に位置する、辺境の土地。山中の少しばかり開けた緩やかな斜面に沿って、石造りの家屋が幾つも建ち並ぶ。険しい高低差の岩肌に囲まれたその村は、天然の要塞の様でもある。もう目と鼻の先の距離だというのに、谷と崖を迂回する推奨ルートでは小一時間は歩くことになりそうだ。
「来たアルか。付いて来るヨロシ」
気配も無く眼前に現れたのは、今回のガイドを頼んだ知り合いの符咒師、つまり妖怪の専門家である。こうして話しているにも拘わらず、その気配は霞の様に朧気なままだ。それと、私の仕込んだ中国人キャラに特有な語尾がよく似合っている。
「こっちヨ。すぐ其処ネ」
誘われるまま、村に続く道からは外れて進んでいく。ほどなくして、ちょっとした原生林が見えてきた。20メートル以上の高木が立ち並び、太さ1メートル超えのメタセコイアが散見されるなど、標高を考えると異質な雰囲気を漂わせている。それでも、常に一定の速度で歩みを進める彼女に遅れまいと、その森に足を踏み入れた。
「居たアル。あれが猳国ネ」
そう言って指差す方向に目をやると、人影らしきものが見えてきた。しかし、よく目を凝らして見たところ、それは明らかに人間ではない。
人の様に2本の足で立ってはいるが、その体は全身が青黒い毛で覆われており、イメージとしては猿人に近い。人間はチンパンジーに近い種類のサルから進化したが、ニホンザルが人間の様に進化したならこういった形になるのではないか、と思える姿だ。いや、この辺に生息するサルで考えると、ニホンザルと近縁なアカゲザルが元だろうか。
「玃猿とも言うアル。若い娘をさらって、10年かけて、身も心も猳国に変えるヨ。そうやって数を増やす妖怪アルね」
こうして観察する限りには、サルの遺伝子を改変させて中国に伝わる野人を再現したようにも見える。
そう思っていると、こちらに向かって猳国が走り出してきた。スピードは平均的な人間より少し速いくらいと、動物として常識の範囲内だ。
「バシィィィイッッ!!」
私たちの前方1メートルくらいで小型の雷を思わせるほどの発光が生じ、空気を裂くような音が響き渡った。
猳国が見えない壁にぶつかり、それによって発生したものらしい。
「結界ネ。猳国では破れない強さアルし、この中に封じてる限り、普通の人にも見ること出来るヨ」
周囲の木に目を向けると、数本に1本くらいの割合で、黄紙に朱色で漢字の書かれた道教の符が貼り巡らされている。この符によって囲まれた空間が、結界の内部というわけだ。
結界とは、異なる2つの空間の境界である。これは防壁の様に互いを隔てると同時に、互いを繋ぎ合わせる働きもする。
例えるなら、お店の入口にかけられた暖簾みたいなものだと言える。暖簾があることで、その場所、つまり店の中が、外とは隔てられた別の空間であることが示される。その一方で、暖簾があるからこそ、そこは出入口となって内と外とが繋げられる。
今回の場合で言うと、結界は猳国に対しては防壁として機能し、外へ出ることを禁じている。しかし、猳国の存在する妖の領域と人間の生きる世界が繋がれ、重ね合わさることで、私みたいな人間にも妖怪である猳国をこの目で見ることが出来ている。
「もういいネ? 滅すヨ」
私が一通りの観察を終えたことを察し、彼女はそう言った。そして次の瞬間には、猳国は数十の肉片へと成り果てていた。北斗七星の意匠が施された、道教で用いられる七星剣によって細切れにされたのだ。
その肉片が黒いモヤの様な、ススの様なものに変わりながら、空に散り消えていく。どれだけ動物みたいな姿かたちをしていても、やはりあれは妖怪だったのだ。
「村まで案内するアルよ。こっち近道ネ」
そう言うや否や、辺りの景色が歪み、遠近感や方向感覚が狂わされる。気が付くと背の高い木は消え失せており、草と低木が生えるだけの岩地に立っていた。後ろを向くと崖の真下である。結界が解かれたということなのだろう。
「行くヨ。じっとしてるヨロシ」
そう言って私の手を握ると、垂直な岩壁の上を走るかの様に跳び上がっていく。私の重さなど意に介さず、右足の一跳びで数メートルも上昇し、左足の一跳びで更に高く舞い上がる。例えるなら、目に見えない翼で上向きの突風に乗っているかの如く、とても軽やかな所作である。
そういえば、彼女の戦闘スタイルはそうだった。氣の力によって、自分自身と己に触れるものの重さを限りなくゼロにすることで得られる、神速の体捌き。その動きから繰り出される七星剣による斬撃の速度は、ほとんどの人間にとって不可視の域に達する。
つまり、男1人を運びながら崖を駆け上がることなど、彼女にとっては散歩と同じくらいの労力なのだ。
「着いたネ。娘が居るのは、すぐ其処の家ヨ」
崖の直下から、ものの数秒で上まで到着した。当然だが正規のルートではないので、村の入口からは少し離れている。家畜の放牧スペースらしき草地をぐるっと回り込み、数分ほど歩いたところで村人たちに出くわした。
様々な年代の女性が7人と、男は子供が1人。女性たちは皆、鮮やかな刺繍が施された衣服を身に纏っている。ここらの伝統的な衣装なのだろう。
「この家アルよ。娘だけ楊を名乗ってるネ」
私がこの村に来たのは、妖怪を見物するためではない。目的はあくまで生物学的なものだ。ここにはその調べる対象が住んでいる。
猳国は、さらった女を自分と同じ存在に変えてしまう妖怪だ。しかし、さらわれた女性が人間のまま無事に人里へ戻る方法がある。それは、猳国の子を生むことである。そうして生まれた子は、妖怪ではなく、通常の人間と全く変わらないというのが非常に興味深い点だ。生物であれば、自分の子孫を残さない不合理な行為となるが、その不合理さが妖怪というものなのかも知れない。
子は母親と共に人里まで運ばれて、普通に育てられる。そうしないと母親は呪い殺されてしまうからだ。ただし、子は父親の姓にするのがこの国の慣習だが、猳国の姓など名乗れはしないので楊という名字にするそうだ。
「話はつけたネ。一晩、泊めてくれるヨ」
どうやら、妖怪退治のお礼として食事と寝床を提供してくれるということらしい。私は見ていただけなのだがと思いつつ、調査に都合もいいのでありがたくお供させてもらう。…と思ったら、風がヒュワっと吹くのと同時に彼女の姿は消え失せていた。この家には私1人でお世話になるようだ。
出迎えてくれたのは、胡さんという女性だった。この人が猳国の子を生んだのだとは聞いている。若くて美人でスタイルも良さそうだ。家の中へ私を案内しようと後ろを向いた隙に、さっと血液サンプルを採取しておく。
この家は石造りの3階建てで、1階は家畜小屋になっている。小型で脚が細めの黒豚が16匹。高地に適応した藏猪というやつだろうか。美味だと話に聞くので、今晩の料理が楽しみである。
2階に上がると他の家人がこちらに寄ってきて、あいさつらしき言葉を発している。聞こえたままに真似をしたが、どうやら通じているようだ。
胡の姓で名乗るのは翁が1人と、若い女性が1人…出迎えてくれた胡さんの妹だろうか。こちらも、かなりの美女だ。他に居るのは、楊の姓で名乗る4歳くらいの女の子。この幼女が猳国の子だと思われる。
女の子からは、先ほど脚にしがみ付かれた時に血液の採取を出来ている。早速、ハプロタイプ解析と組み合わせて染色体解析を始めるとするか。私の予想だと、今回はゲノム解析の結果まで見なくてもこのレヴェルの解析で、ある程度のことが分かるはずだ。さっと解析して結果を見てみよう。
それまでの間は思考を巡らせているつもりだったが、女の子がとても活発で、私をよじ登って遊んでいる。観察に切り替えるとしよう。その体は確かに、特に変わったところの無い人間のものに思える。
そうして過ごしていると、机に夕食が運ばれてきた。主食はジャガイモを茹でたもので、メインディッシュは藏猪とキクラゲの炒め物だ。皆で机を囲んで食事を始める。
まずはジャガイモだ。うん、素朴な味だが、ホクホクしてて美味しい。そして、メインの炒め物は…美味い!! 藏猪は肉も脂も、他の豚肉では味わえない豊かな風味があり、それがベーコンの様に燻製されることで素晴らしく引き立てられている。この味わい深い肉に、キクラゲの野性的な香りと食感が絶妙にマッチしている。これぞまさに、山界の絶品と言えよう。
さて、美味しい食事を存分に楽しみ、解析も既に終わっているところで、まずは、猳国の子が生まれるプロセスについて仮説を整理しておこう。女の子が食後休みで寝ている今がチャンスである。
猳国の子が人間であるということは、その遺伝情報は全て母親に由来すると考えられる。つまり、猳国との性交は、単為発生を引き起こすと推測される。
単為発生とは、母親だけで子供を生み出す現象であり、人間でこそ普通は起こるものでないが、昆虫などでは普段から行うものがいる。また、魚類、両生類、爬虫類、鳥類でも、これを行う生物種が知られている。
遺伝子と、遺伝子をコントロールする情報、凄まじい数のそれらの総体をゲノムと呼ぶ。ゲノムとは、染色体という本にDNAという文字列で書かれた、生命の設計図に例えることが出来る。人間ではこの本が23種類あり、それぞれについて両親から(微妙に中身の違う)1冊ずつが受け継がれる。つまり、23種類の本が父親と母親から渡されて2冊ずつ、合計で46冊となる。
精子や卵子といった細胞では、融合した時にこの冊数を合わせるために、23種類の本から1冊ずつだけ選んで数を半分にしている。そして、受精卵になった時には46冊に戻るというわけだ。
単為発生では、この辺のシステムが通常とは異なってくる。大まかに3パターンが存在するので、猳国の子についても1つずつ考えていきたい。
まず第一に、母親と同じクローンとして生まれるパターンだ。染色体の数が半分である卵子を作ることなく、自分自身のコピーをただそのまま作り出す方法である。
これはアブラムシなどで見られるが、猳国のケースでは違うだろう。理由は単純に、この家の母と子の肉体的な差が外見上でも明らかだからだ。
第二に、染色体の数が半分になった卵子が、それだけで発生するパターンだ。半分になったのに精子と融合しないので、染色体の数は半分のままとなる。ゲノムも半分、遺伝子の数も半分となる。
これはハチのオスなどで見られるが、猳国のケースではやはり考えにくい。人間の場合、X染色体の数が少ないだけでも大きな変化が生じるが、あの女の子にはそれが見られないからだ。
そして最後、第三に考えられるのが、卵子が、卵子になる時に分裂した片割れの細胞、第二極体と融合することに代表されるパターンだ。
卵子は、2回の連続した細胞分裂によって作られる。1回目の分裂で染色体の数を半分にし、2回目の分裂では卵子のコピーの様な細胞を放出するのだが、これを第二極体と呼ぶ。精子でこそないが、同じく染色体が半分の細胞なので、卵子と融合することで染色体は元の46本に戻る。
融合する細胞の組み合わせは他にもあるが、いずれにせよ染色体が半数になった後のことになるので、2本ずつ異なる染色体のセットがあった元の状態からは変わってしまう。遺伝的には、一卵性双生児の男女が交配して生まれてくる女の子にやや近い。
これは脊椎動物でも見られるものだが、哺乳類では知られていない。父親から渡されたゲノムであることを示すメモ書きみたいな情報、父性のゲノムインプリンティングが必要なためだが、猳国との性交によってこの問題が解決されるのでは、というのが私の仮説である。
これらの3パターンでは、染色体の数や組み合わせが大きく異なるので、それらのどれかを見分けるのは比較的スピーディーに出来る解析だ。仮説を整理し直す前には済んでいたその結果を確認したところ、それは私の考えを支持するものであった。
染色体の数は46本であるが、母親の1ペア2本な各種の染色体から片方だけを受け継いだものを、通常の倍の2本ずつ持っている。また、一部が交換された染色体が確認されており、その程度から第二極体が融合したのだと判断される。あとは、父性のゲノムインプリンティングを確認するため、エピジェネティクス解析をやっておくとしよう。
2階の客間には簡素なベッドがあり、その上に布団が敷かれている。解析結果について考えを巡らせながら横になっていると、胡さん妹が、艶かしく肌を露出させた装いでこちらに迫ってきた。ロウソクの火が照らすだけの薄暗い部屋であったが、それでもその端正な顔と、女性らしい体の曲線はくっきりと見て取れる。
外部との交流が乏しい村では、血が濃くなる、つまり遺伝的な多様性が失われるのを避けるために、旅人と子を作る慣習の続くとこもあると聞く。これは、そういうことだろうか。さて、どうしたものか。
翌朝、パンの様なものだけ朝食として頂いてから、私は胡さんの家を後にした。当然、感謝の言葉は忘れない。
エピジェネティクス解析は、当然に寝ている間で終わっている。その結果は、精子に特有なDNAのメチル化やヒストン修飾が確認されるものだった。やはり、猳国は性交によって、第二極体を精子の様なエピジェネティック状態に変化させることで、人間の女性に単為発生をさせるのだと推察される。
これの確証を得るには、猳国と性交した直後の女性に対して非常に入念な観察をする必要があり、流石に大変そうである。今回のところは状況証拠までにするとしよう。必要となれば、また彼女の助けを借りればいい。
珍しい結果に満足したところで、足早に村の出口へと向かう。その途中で気付いたのだが、この村は明らかに女性が多い。より正確には、美しい女性が人口の半数は占めている。将来が有望な子供を含めれば、もっと多くなるはずだ。
つまり、この村は猳国によってさらわれた美しい女と、その娘、その子孫がメインで構成されている、ということなのだろう。
まず猳国が、美しい女を近隣からさらっては、この村で解き放つとする。女性はY染色体を持たないので、単為発生で生まれるのは女の子だけ。その子は母親からしか遺伝子を受け継いでいない。女性率の高さは、こうした猳国の子供たちがこの村に多く居ることを示すはずである。
そういった状況にて繁殖が進んいくことで、美女の持つ遺伝子が選択されていき、ここまで美女の割合の高い村になったと予想される。
おそらくは、女性が村から出ようとしても猳国にさらわれてしまうのだろう。しかし、男は逃げ出せる。そして、村に残らざるを得ない女性たちは、たまに来訪する旅人と交わることで、男の子を生むチャンスを得ていたのではなかろうか。そうやって集落を保つ生活を、数百年、いや千年以上も続けてきたのかも知れない。
千年を生きる仙人なら、そういった歴史も知っているだろうか。そんなことを考えながら、私は次の村へと歩みを進めた。