其ノ拾 乳飲み子が健やかに育つ村
奇妙な村だった。
日本の紀伊山地に位置する、川沿いの集落。蛇行する川と山の斜面を覆う棚田の間にぽつぽつと民家が連なる。これは5キロメートルほども続いていて、非常に細長い領域に300人近い村人が暮らしていた。
「はしりやーーい!」
6人の子供たちが、あぜ道を元気に走り回っている。まだ寒さの残る時期だというのに、動きやすさ重視なのか皆そこそこ薄着に見える。
この村の特異な点は、乳幼児の死亡率が異常に低いことである。ここ150年分の記録からは、出産後すぐに亡くなった2例が確認されるのみだ。
村の健康診断に乗じて実施した我々の検査では、ほとんどの村人から様々な病原体や毒素に対する抗体が検出されている。抗体は免疫細胞であるB細胞が産生する免疫グロブリンというタンパク質から成るが、個々のB細胞がその遺伝子に別々の突然変異を引き起こすことで、多様な抗体を作り出す。
この変異をレパトア解析によって詳細に調べたところ、日本では100年以上も確認されていないペストや、世界から根絶されている天然痘に対するものも多く見付かっている。あまりに不自然で、非常に興味深い。
なお、この村の外から移住してきた者が例外となっていて、一般的な日本人が持つ抗体しか保有していない。そのため、この村で生まれ育つことに何らかの関わりがある事象だと考えられた。
子供が異常に健やかに育つこと、その主な原因が多様で有益な抗体にあることは、ほぼ間違いない。問題は、そんな免疫力をどの様にして獲得したのか、ということである。
私は、村の少し外れにある小山の頂へと続く石段を上りながら、どうやって更に調べようかと思案していた。
870段を上りきると、大きな石造りの鳥居と相当に古びた神社の拝殿が目に入ってきた。まずは手水舎で身を清める。その時、この神社の謂れが書いてあるらしい説明板を見付けたので、まずはそれを読んでみることにした。
『――鏡神社 縁起録――
鏡神社は鎌倉時代に建立された由緒ある神社である。
御社名の由来たる御神体は浅い丸屋根状の神鏡であり、形が珍しいばかりでなく、大変霊験あらたかな鏡とされる。
病にて死した村人の遺体をこの神鏡に映し、拝殿に安置しておくと、一夜の後には髪を残して消えている。これ以降に生まれる赤子はその病に罹ることなく、すくすくと育つと謂われている。』
祀られている神が何者か気になるものの、存外に参考になりそうな説明だ。とりあえず、本殿に置いてあるだろう鏡を見てみたい。神鏡には平らな銅鏡が多いと思うが、ここのは凸面鏡らしいことも興味をそそる。
拝殿前の賽銭箱に5枚の五円玉を放り込み、二礼二拍手一礼をする。これだけやっておけば、御神体をちょろっと見てもバチは当たらないだろう。裏手の本殿に回り込み、覗き穴でもないか探してみる。
「みくさんな!」
この神社の神主らしき翁が怒鳴ってきた。貴重な情報源になりそうな人だが、怒りと方言でそれどころではない。私は自白剤を辺りに噴霧して、神主が受け答え出来るようになるまで待つことにした。
「そおじゃ、そおじゃ、そのほおがいいじゃろおのおら」
1分ほど経つと薬が効いてきたようで、私の雑談に応じ始めた。手始めにこの辺りの地形や自然の恵みについて聞いてみる。なるほど、春は山菜、夏はアユが美味しいらしい。また別の時期に訪ねたいですねと返しつつ、説明板に書いてあった内容に話題を移すと、神主の表情がピンとこわばった。どうやら若い時に1回だけ、あの神事に携わったことがあるようだ。
「……しぼおたどおきん、はしいたような……」
細切れの言葉を再構成すると、一昔前にパンデミックで世界を騒がせた感染症、これを友人が患い亡くなった時の話だった。友人の遺体に先代から伝えられた通りの作法で儀式を行ったところ、翌朝には確かに遺体が消失していたらしい。
そして、雑巾を絞った形のまま乾燥させたような、奇妙な状態で束になった髪だけが残されていたとのことだ。焚き上げで供養されていて、物証は無い。
参考になる話が聞けて良かったが、今のところは参考になるだけだ。宿へと戻って、夕食を食べてから今後の方針について考えよう。
昼間に荷物だけ置いてきた民宿は、県道と繋がる村の中心部に位置している。夕暮れで紅く照らされる山野を見ながら散歩して、ゆっくりと向かう。
「おかえりなさいませ。もうすぐ夕飯の準備も出来ますからね」
出迎えてくれた女将は、3週前に子供を生んだとは思えない働きぶりだ。先週までは休んでいたそうだが、今は少しずつ仕事を再開している。同居している義理の両親が赤ん坊を見てくれるとは言え、大変だろうに。
ここを宿に選んだ理由は、他に選択肢が無いというだけでなく、生まれたばかりの赤ちゃんが居ることが大きい。
女将と新生児の血中の成分分析とレパトア解析は、既に済んでいる。これによると、女将は多様な抗体、免疫グロブリンGが血中から検出され、それらに対応した遺伝子変異も確認されている。一方の赤ちゃんでは、免疫グロブリンGを持っているだけである。この状況は、母親から胎盤を通じて抗体をプレゼントされるという通常の現象しか、まだ起こっていないことを意味する。
つまり、私が知りたい何らかのメカニズムが作用するのは、これからということになる。
「はい、お召し上がり下さい。ぜ~んぶ、この村で採れたものなんですよ」
女将が部屋まで運んでくれた夕食は、以前は都会で板前をやっていた旦那さんが料理しているそうだ。どれも美味しいが、秋刀魚のなれずしは絶品だ。この秋に捕れたサンマがいい感じに発酵していて、絶妙なバランスで酸味と旨味と脂味がぎゅっと詰まっている。あと、ワラビの漬物も中々のものだ。白米がどんどん消えていく。
この村の幸を堪能し終えて食休みしていると、たまたま窓の外に、女将と旦那が赤ちゃんを連れて外出する様子が見えた。これは何かのイベントがあるかも知れないと思い、私は尾行することにした。
車で村中を移動しているのを走って追いかけるのは大変だったが、どうにかなった。おそらく村の全ての民家にあいさつに回ったのだろう。最後の家は昼間の神主が住んでいるところだった。
「じゃーがいだ。せーになる」
特に重要なことは話していないようだ。赤ちゃんを抱いたまま2分ほど会話した後、女将と旦那は小山の麓の方にある神社まで歩いて移動して、そのまま拝殿の中へと入っていった。
小さな神社だが、新しく建てられたものなのか電気が通っている。中からはLEDの灯りが漏れているし、空調の室外機が動いていて暖かそうだ。鳥居には鏡神社と書いてある。昼間の神社とは山宮と里宮の関係にあるのだろう。
周囲が真っ暗な朔夜の中、境内に植えられた枝垂れ梅の香りを楽しみながら周囲を観察していると、旦那と女将の2人だけが出てきた。そして、歩いてきた道を引き返していった。
赤ちゃんは置き去りにされたことに気付いていないのか、静かなものだ。と思っていると、眠りから覚めたらしく急に泣き始めた。
「ホンギャア~ホンギャア~」
入口の扉の隙間から赤ちゃんを見ると、小さな布団の上で力の限り泣き叫んでいた。そして、3分ほど経ったその時、部屋の電灯が唐突に消えた。
更なる泣き叫びが起こるのかと思った刹那、赤ちゃんはぴたっと泣き止んだ。状況を確認しようと目を凝らしたところ、
「ババババン!! バシュン!!」
懐に忍ばせておいた霊符の束が、一斉に焼き切れた。私はとっさに目を離し、バクバクと鳴る心臓を落ち着けるよう深く息を吸い、ゆっくりと吐いた。
この件には、かなり強力な妖怪か、中位かそれを上回る格の神が関わっていたらしい。
神主は御神体を「みくさんな」、つまり「見るな」と言っていた。そして今この中は、灯りが消えて視界はゼロだ。おそらくは村中にあいさつに回っていたのも、決して覗きに行くなという案内だったのだろう。
「視る」ことが禁忌とされているのだと思われる。
私は暗闇でそもそも少ない視覚情報を、しっかりと目を閉じて念入りに遮断した。五感の1つを絶ったことで、ウメの香りと顔を撫でる風の感触が先ほどよりも鮮明に感じられる。また、木の床の上をすりすりと移動しているような音もわずかに知覚された。
それは、拝殿の中から聞こえるものだった。どうやら「聴く」ことは許されているらしい。
「カカ…メ…サ、ネブ…レェ……」
頭の芯からゾッとする響きで、しかし同時に安心も与える印象で、女の声色をしたそれは聞こえてきた。カカメ……? ネブレ……舐れ…、何かを舐めろと言っているのか。
少しすると、ちゅぱちゅぱと音がし始めた。赤ちゃんが何かをしゃぶっているのだろう。……真っ暗な中、見ず知らずの存在から?
15分くらい経ったと思う。赤ちゃんの発する音だけが絶え間なく聞こえていたのが、急に止んだ。それと同時に背後が明るくなる。照明が再び灯ったらしい。
…遠くから、人の足音が聞こえてきた。離れて様子をうかがっていた女将と旦那が戻ってくるのだろう。陰に隠れることにする。
境内から拝殿へ2人が駆け足で入っていく。それから少しして、女将が赤ちゃんを抱いて外に出てきた。初めての通過儀礼を乗り越えたということなのだろうか。親たちは非常に嬉しそうな顔で、とても安心したという表情で、もう眠そうになっている赤ちゃんを見つめてしゃべっている。
私は観察をしやすい位置に移動しようとしたのだが、瞬間的に、魂を気圧されるような空気に包まれるのを感じた。どうやら、私は目を付けられてしまったようだ。これ以上あの赤ちゃんを調べることは控えざるを得ない。
それでも、赤ちゃんの口と鼻の穴に白っぽい液体が付着していることに、私は気が付けた。これもヒントの1つにはなるだろう。
翌朝、鮎の塩辛をおかずに白米を2回おかわりしてから、民宿をチェックアウトした。旦那が見送ってくれる後ろで、赤ちゃんを抱いた女将も会釈してくれている。すやすやと眠っている赤ちゃんの顔を見ながら、調べる意思を持たずに近付くのは許容されるのかも知れないと、考えはした。
しかし、わざわざ赤ちゃんに接触する危険を冒さなくても出来ることはある。私は、既に体から離れたものなら問題ないだろうと仮定して、赤ちゃんの糞便をゲットしていた。免疫グロブリンAの検出と解析を行うためである。
免疫グロブリンGが体内に入った病原体などに対処する一方で、免疫グロブリンAは消化管や呼吸器などの粘膜上でガードするよう働く抗体だ。免疫グロブリンAは出産後の数日間だけ出る初乳に特に多く含まれていて、まだ自力では抗体を作れていない赤ちゃんにバフをかけてくれる。
しかし、今回調べた赤ちゃんの糞便からは、母親が持っていないレパートリーの抗体も確認されている。これは、母親ではない供給源もあったことを意味するはずだ。
ここからは推論の割合が高くなってしまうが、昨夜に行われていた儀式では、この地で祀られている存在が「母乳の様なもの」を新生児に飲ませていたのだと想像する。
その特製ドリンクには、この地でこれまでに死人を出してきた病に対する抗体、免疫グロブリンAが含まれているのではなかろうか。また、抗体を飲んだだけでは一時的な効果しか得られないので、ワクチンとして作用する物質も含まれていると予想される。
村人のレパトア解析の結果にはゲノム配列に個人差が見られることも、ワクチン仮説と調和的である。
赤ちゃんの口と鼻の穴に見られた白いものがそれだとすると、経口・経鼻ワクチンとして接種するものと考えられる。あの液体を調べられていれば、抗体やワクチンについての貴重な情報に加えて、例えばそれらの効力を長くする物質や、健康な成長に役立つその他の物質が発見されたかも知れないが……。
3日後、今回の私のレポートを閲覧した上級研究員1人が姿を消した。
同日に彼の研究室にて、7人分の衣服や装飾品、そして髪を中心とした体毛の混ざった塊が発見されている。その塊からは細胞やDNAなどは全く検出されなかったが、体毛の構造から推定された幾つかの遺伝情報と衣服などの所有情報から、以下の7名のものと判断された。
上級研究員1名。鏡神社についての調査依頼を最後に失踪。
研究員3名。上記の上級研究員の部下。同じく失踪。
諜報員2名。上記の上級研究員より調査依頼を受けた後、当該の村にて失踪。
祈祷師1名。同調査依頼に伴い、外部より派遣。同じく失踪。
服と毛の塊を画像データで見たところ、ヘビの糞に似ているという感想を抱いた。肉も骨も残さず消化しているのに、毛などの繊維はそのまま残っていると考えれば、そっくりに思える。
あの村で祀られているのは蛇神であり、神罰として喰われたということだろう。山頂の神社で遺体が消える現象についても、蛇神が食べて糞をした結果だと言えそうだ。そうやって、抗体やワクチンを作るのに必要となる生物学的な情報を得ていたのだと考えられる。
私は、蛇神について追加で理解が得られることを期待して、民俗学に明るい後輩に断片的な情報だけ伝えて、コメントをもらうことにした。
「先輩が聞いたというカカメは、鏡の語源とされています。カカは蛇の古語で、直訳すると蛇の目になるんですよ。輝くイメージがしませんか?」
なるほど、「ヘビの目を舐めろ」と言っていたのか。母の目なのかと思っていた。
「そうすると、蛇女房の説話を想起させますねえ。異類婚姻譚の1つで、わりかし全国的に伝わっている話です」
東北から九州まで幾つもの地で伝わっていて、内容は少しずつ違ったり、大きく分けて2パターンあったりするそうだ。
「蛇の化身が嫁いできて、男との間に子宝に恵まれるけれど、産屋で蛇の姿をしているとこを見られてしまい、夫と子を残して去ることになる。この辺は鶴の恩返しや雪女の話に似てますよね。でも、乳の代わりになる目玉を置いていくってのが、このパターンの面白いとこです!」
私の知りたいとこを要約すれば以上となる。母乳キャンディーとでも言えばいいのだろうか。そんな2個しか作れない飴玉を舐めて、蛇女房の子供はすくすくと育ったという話であるそうだ。
あの村の「母乳の様なもの」を調べられれば、世界中の子供たちが健やかに育つことが可能になるのかも知れない。また、ワクチン開発にもさぞかし貢献することだろう。
しかし、あれはあの村で生まれ育つから、あの神を祀るからこそ得られる恩恵であり、外部の者が気軽に手を出していいものではない。祀らないなら触らないという教訓を実感し直しながら、私は次の村へと歩みを進めた。




