1 受けて立とう!
見切り発車です。どうしてもやってみたくて、思いつきで投稿してしまいました。諸事情により鈍足更新になってしまいますが、楽しんで頂けたら嬉しいです。
すぐ手の届くところに憧れの世界が広がっているのに、決してそこに行けないと言うのは、あまりにも悲しいことだとは思わないだろうか。
望んでいるのは、それほど大層なものではない。
ただ、日々食べるものに事欠くことなく、清潔な衣服があり、冬に凍死の危険に怯えない暮らしがしたい。
さらに言うならば、身分の存在するこの国で、同じ身分で同じ年頃の女性なら享受出来ている、その中でも最低限の生活が欲しい。
これは、そこまで度を越した願いだろうか?
私、クラリス・エスター・ロッドフォードは貴族階級に生まれた身であるのに、日々使用人と変わらない暮らしを送らなければならない状況に追い込まれている。
いや、雇い主の貴族によっては使用人の方が良い暮らしをしている可能性だって否定できない。
毎日毎日、他の貴族令嬢がやれドレスのレースだ生地だ模様だデザインだの話をしている時、私は指をうっかりぶっ刺して痛いと騒ぎ、自分の裁縫技術の拙さと痛みに涙しながら、ほつれた自分の服を繕っている。
生地が足りなくて、子ども時代の服から布地を切り出して継いだり、家中にある布地を何とか服に転用できないかと考えたりもする。
でも自分の能力でそれは不可能と判断してため息をついている。
服だけではない。
他の令嬢が舞踏会に行って踊っている時、私はキッチンに出現したGを追いかけまわしてステップを踏んでいる。
時折足首を捻って埃だらけの床に転倒して悲鳴をあげることもある。
他の令嬢が窓越しに訪ねて来た人物を品定めしている時、私は曇りきった窓から、借金取りが来ないか見張り、来たならすぐに樽や古びた壺、その他、身をひそめられる場所を探し始める。
他の令嬢が優雅にお茶を飲んでいる時、お茶が手に入らないため、私はただ一人の使用人であるミセス・アンナマリーが入れた謎の草を煮出した汁を飲むか飲むまいかで迷い、悩んだ末に飲んであまりの苦さと青臭さに悶絶している。
ちなみに、自分でもハーブを栽培しようと試みたけれど、全て枯れた。
それ以来、植物の育成に自信が持てないでいる。
それだけではない。
他の令嬢が王都や観光地へ出かけている時、私は市場の野菜や肉、魚売り場を巡っては捨てられているまだまだイケそうな食品があれば素早く拾って手提げに隠し、なおかつ買う場合はいちゃもんをつけては値切り合戦を繰り広げている。
他の令嬢が……、いや、もういいだろう、わかって頂けたはずだ。
こういう状況に置かれた人間が、例えそれがどれほど自分の将来を破格で売り飛ばす行為だと知っていても、悪魔の囁きだとわかっていても、この状況から抜け出せる契約を持ちかけられれば、結んでしまうだろうということも。まさにそれこそが、今私が置かれた状況なのである。
今の今まで一度も入った事さえない喫茶店。
目の前には未知の飲み物、珈琲が置かれている。
当然、私にとっては高価な代物だが、今、対面に座ってこちらをじっと見ている男性にとっては日常の飲み物なのだろう。
その横には、これまた高価そうなケーキ。
ケーキなどまだ子どもだった時に口にしただけで、ここ数年は全く口にしたことがない。そもそも、お菓子自体が数年ぶりだ。
こんな悪魔の食べ物を口にしたら、いつもの暮らしに戻れないのではないかと思うほど、それは香しい匂いを放っている。
それらを見るにつけ、自分のみすぼらしい服装が気にかかる。
喫茶店で穏やかに談笑しているのは、どれも一等の生地を使った流行のシンプルなデザインの服を身に纏う紳士淑女の皆様方。
私はと言えば、安い生地を使った使用人が着るようなドレスで、髪もろくに手入れしていない。
容姿は着飾ればまあ見栄えする程度には良い方だという自覚はある。
しかし、今まで特に褒められたこともないので、良いのか悪いのかちょっと良くわからない。
艶のある黒髪に、やや冷たい印象を与える菫色の瞳。
身体つきは多分悪くはないのだろうが、痩せているのでまあ貧相だ。少し太ればましになるのかもしれない。
全体としては、ちゃんとすればちゃんとするはずだ。
ただし、目の前に座って優雅に珈琲を飲んでいる紳士と並べば、宝石とその辺の小石くらいの差はあるのだろうが。
何より、目の前の紳士はこの国の紳士の中でも極めて美男子なのだ。
黒褐色で、短めに整えられた清潔感のある髪。真摯な光を湛えた灰色の瞳。通った鼻筋。背も高く、程よく筋肉のついた身体つき。上質な生地で仕立てられた黒灰色の服は、流行こそ取り入れていないが、品が良い。
例えるなら誠実さの塊のように見える人物だ。
そんな人物に持ち掛けられた提案は、完全にこの見た目とは真逆の内容だった。私はとりあえず、問うた。
「ええと、本気なのですか?」
そう聞き返したくもなる。
それほどまでに、この誠実さの塊のような男性から提示された提案は、突拍子もないものだった。
「当然だ。本気でもないなら、こんな話を持ち掛けたりはしない。それに、貴女にとっては悪い話ではないはずだ。
失礼だと思うが、どうやら食事も足りていない様子。それにその服……貴族の令嬢が着るようなものではないはずだが」
「ええまあ、それは、その通りです」
「だとしたら、私は君に全てを与えてやれる。栄養のある美味い食事も、綺麗な服も、そして住む家も……君はただ、嫁いできてくれればいい」
「それは聞きました。実際、私にとってはありがたい話です」
そう、つまり彼の提案とは、結婚しないかというものだった。
彼はろくに知りもしない私に、突然求婚して来たのだ。
今日、今、ここで。
だが、私の方はこうなった理由を知っている。
彼がなぜ私のような者に目をつけ、求婚してきたのかを。それは、私のような切羽詰まった令嬢でもない限り、彼の求婚を受け入れる上流階級の女性はいないということだ。
なぜなら彼、ブライアン・フィランダー・オーティス伯爵子息は、現在この国の王子殿下の婚約者である令嬢に対して、婚約破棄を行った過去があるのだ。
つまり、目の前の、端正な美貌の伯爵子息は、未来の王妃様に無礼を働いたのである。当然、宮廷にも社交界にも出入り禁止。
なので、結婚相手を探そうにも、小さいパーティにしか呼ばれない。
それだけではない。
そういうパーティでも、彼の噂が広まっていて、行き遅れの令嬢達からすら事故物件として忌避されている始末。
このままでは一生結婚出来ず、爵位を譲られても自分の子孫に残せないまま終わりという悲しい人生を送る羽目に陥っている訳だ。
それはまあ、この男の自業自得なのだから仕方がない。
そして私は、そんな事故物件と結婚するかしないかの選択を今、突き付けられている真っ最中という訳である。
ブライアンは至極真剣な様子で私を見つめてくる。
彼にとっても、人生を掛けた話だろうからだ。
「なら、返事を聞かせてくれないか。可能な限り、君の要望も受け入れるつもりがある。どんなささいな事でも、叶えよう。
必要なら書面にまとめても良い。
私には君が必要なのだ。
お願いだ、この話を受けてはくれないだろうか?」
さて、どうしたものか。
当然、本音は断固拒否だ。
だが、先ほど彼が提示したように、結婚を許諾さえすれば贅沢な衣食住が手に入る。
ただし、あの事故物件の妻、という、名誉が奈落まで落ちる肩書が死んでからもついてまわることを受け入れればの話だ。
――何という二択……こんなに突然、人生を選ばないといけない日が訪れるとか、ありえない。
呻き声を出してテーブルに突っ伏したいくらいだ。
しかし、こんな紳士淑女が優雅に過ごす空間で、そんな無様なことはさすがにできない。
こらえにこらえ、わたしは歯を食いしばる。
導き出した結論はひとつ。
それを口にすれば全てが変わる。
しかし、答えなければなるまい。
わたしは不退転の覚悟で、口を開いた。
「わかりました。このお話、お受けしましょう」
ああ、言った、言ってしまった。
これで私の人生が決定したのだ。しかし、ここからが重要なのだ。先ほど彼が口にした「可能な限り要望は叶える」というセリフを、早速実行してもらう必要がある。
私は口端を上げ、切り出した。
「ただし、幾つか条件がございます」