03
それから僕達は、以前にも増して言葉を交わすようになった。
彼女の表情も、出会った頃に比べてずいぶん柔らかくなった気がする。
そして、僕は彼女の事がどんどん好きになっていった。
好きだという気持ちの力は絶大だ。
こんなにも僕の心を躍らせる。
でもそれは、目を背けたい部分を隠す力もあった。
忘れたわけではない。
むしろそのことが僕達を繋いでいる。
そう、水川さんが短命であるという事実が。
水川さんの病気を知ってから一週間ほど経った頃。
彼女は学校に来なくなった。
先生によると体調が良くないとのことだ。
僕はそれを聞いて理解する。
それは風邪ではないこと。
そしてきっと自宅ではなく、病院にいるのだろうということを。
水川さんが無理を承知で学校に来ていたのは知っている。
でも、その無理も限度がある。
その限度を超えてしまったのだろう。
不安になった僕は、彼女に電話した。
連絡先を交換するくらいには仲良くなっていたことに、僕は安堵しつつ電波を飛ばした。
「もしもし?」
「あの、宮永零ですけど」
「どうしてフルネーム?」
「いや、電話するの初めてだし」
「もしかして緊張してるの? ふふ、宮永君らしい」
澄んだ彼女の声が聞こえる。
良かった、少なくとも彼女は……。
最悪な状況を思い浮かべかけて、すぐ僕はそれを振り払う。
「学校を休んでいるから心配してたんだ」
「ありがとう。どうやらこのわがままな身体は、私の言うことを聞いてくれないらしい。これが俗に言うわがままボディというやつだね」
「あはは、違うんじゃないかな」
「良かった」
「何?」
「宮永君が元気そうで」
こんな時だというのに、彼女は僕の心配をしていたのか?
「僕は元気だよ」
「そう? 君は考えすぎるから、私を心配して元気を失ったりしそうだもん」
「どうかな」
参ったな。
事実、電話で声を聞いて喜んでいるのは、僕の方なのかもしれない。
「会いたいな」
「僕もだよ」
まるで恋人同士のような会話。
「病院は退屈なんだ」
「やっぱり病院にいるんだ。その、体調はどう?」
「今は落ち着いているけど、かなり危険な状態だって。こんな風にお喋りできるのに、不思議ね」
「無理はしない方がいいよ」
「うん、君の言うとおりにする」
「待ってるから、また学校で会おう」
「うん、学校で」
僕達は信じた。
また会って、いつものように会話をする。
希望にすがりながら、懸命に生きる日々が来ることを。
それから時は流れた。
それはもう、予想していた以上に流れた。
出会った春はとうに過ぎ、夏が来て秋が来て、冬に突入した。
それでも彼女は学校には現れなかった。
冬休みも終わり、寒さは一層厳しくなる。
そして二月に入ってやっと、彼女からの電話がやって来た。
「もしもし、宮永だけど」
意気揚々と電話に出た僕の耳に聞こえてきたのは、聞き慣れない声だった。
「あなたが宮永君?」
「そうですけど」
電話の主は水川さんのお母さんだった。
「あの、水川さん……水川沙世さんは……」
「こっちに来てもらえないかしら?」
「こっちというのは?」
それは、水川さんのいる病院のことだった。
水川さんは決して入院している病院を教えてはくれなかった。
そもそも、僕の電話にも出てくれなかったし。
しかし、その彼女が来て欲しいと言っているらしい。
僕は彼女のお母さんから場所を聞き、急いで病院へ向かった。
外は雪が降り、風も強い。
それでも危険と言うほどではないし、何が何でも彼女の所へ行かなくてはならないと思った。
幸い病院の場所は知っている所だったし、自宅からもそう遠くはなかった。
こんなにも近い病院にいたのに、今まで会えなかったことは少し寂しいけど、これから会えることを考えると大した問題ではない。
速く、速く。
心の焦りを追いかけるように足を進める。
僕は病院に到着すると、カウンターで彼女の病室を教えてもらい、急いで向かった。
――――水川沙世。
そのネームプレートを見つけると同時にその扉は開き、一人の女性が出てきた。
「宮永零君?」
「はい、そうです」
「沙世は中にいるわ。話をしたがっているから、気の済むまで話してあげて」
そう言われ、僕は病室の中に入った。
病室は個室で、中に一つのベッドがあり、そこに一人の女の子が横になっていた。
彼女の腕には点滴が繋げられ、ベッドサイドのモニターにはいくつかの波形が波打っている。
「来てくれないかと思った」
「まさか」
「雪がすごいから」
「僕の家はこの近くなんだ」
「本当に? 私は君の家も知らないから」
元々色白な彼女の顔は一層白かった。
それでも、会話のテンポは少しゆっくりなだけだった。
懐かしい彼女の声は、記憶通りだ。
「会えて良かったよ」
「そうね。でも、学校でって言うのは守れそうにない」
「構わないよ、贅沢な約束だったんだ」
彼女が僕を呼んだ理由。
今、彼女がどういう状態なのか。
直接聞かなくても分かった。
「外、寒かったでしょ?」
「そうだね。でも、走ってきたから今はちょっと暑いくらい」
「ふふ、顔真っ赤だね」
「そう?」
「うん。私は真っ白でしょ? きっと外の雪の色が移ったのよ」
他愛もない会話。
それがたまらなく楽しい。
でも、だからこそ僕は会話を続けられなかった。
しばらく沈黙して、外の雪を彼女と見つめた。
楽しい時間が、意図せず終わることに恐怖して。
そんな中、勇気を出して声を出したのは彼女の方だった。
「ねぇ、宮永君」
「何かな?」
「宮永君って、彼女とかいるの?」
思いがけない質問だった。
「いないの知ってるでしょ?」
「会ってない間にできている可能性もあるでしょ?」
「でも、本当にいないんだ」
「そっか」
宮永さんは僕の答えを聞くと、少し考える素振りを見せ、また話し始めた。
「私の初めての友達は宮永君」
「そう言っていたね」
「それでね、できればその……友達じゃなくて」
彼女が何を思い、何を言おうとしているのか、僕にも察しがついた。
「友達じゃなくて……えっと。えっとね、私、宮永君の事が……」
それは彼女の勇気を振り絞った選択なのだろう。
しかし、それを僕は拒んだ。
だって、彼女が迷っているのは明白だったから。
僕がそれを受け入れることで生じる事を、危惧しているはずだから。
だから僕は彼女の選択を否定し、僕の選択を押しつけた。
「僕は水川さんのことが好きだ!」
早口で押しつける好意に、水川さんは目を見開いて驚いていた。
「宮永君?」
「君のことが、水川沙世という存在が、僕は大好きなんだ。受け入れられなくてもいい! 返事もいらない! でも、僕が君のことを好きだということを、知っていて欲しい」
「私は……」
「返事はいらないって」
「でも……」
「だったら、僕は今失恋したことにする。僕は後悔しない! 君が好きだったことを、誇りに思う。だから水川さんは何も気にしないでいい」
これでいいんだ。
この気持ちは、ここで綺麗さっぱり終わりにする。
「ずるい」
「ずるくない!」
「いいや、宮永君はずるい! 自分で何もかも背負った気でいて、私にだけ、こんな素敵な気持ちを抱えたまま死なせるなんて」
「僕がそれを望んでいるんだ」
「そんな、そんなだから。君がそんなだから、私は宮永君の事が……もうっ」
これが、僕達の最初で最後の喧嘩だった。
あまりにも不器用で、あまりにも穏やかな喧嘩だった。
「君がどう思おうと、僕は君のことを忘れない。きっと忘れようとしても忘れられないから」
「絶対後悔する。でも、宮永君はそういう人だ」
「分かってるじゃないか」
「ふふ」
僕達は病室で喧嘩をし、そして笑い合った。
「宮永君、そろそろ」
それが何を意味するのか、僕は知っている。
だから僕は答える。
「そうだね」
ベッド横の椅子から離れ、僕は歩き出す。
「楽しいお話ありがとう、宮永君」
そう言った彼女の表情は、本当に楽しそうだった。
僕は病室を出る前に、一言彼女に言葉を残した。
考えに考えて、何とか絞り出した言葉は、他人からすれば変な言葉だったかもしれない。
「もし……。もし仮に、水川さんが消しゴムを落としたとしても…………僕は拾うよ」
「私の消しゴムは弾力があるし、丸いから移動範囲が広いよ?」
苦笑しながら水川さんは問いかける。
「それでも、どこまでも追いかけて拾うよ」
僕は笑顔でそう答えた。
これが、僕達の最後の会話だった。
本当に、最後の会話だったんだ。