02
ある日の放課後。
水川さんは僕を誘い、屋上へ出る扉の前に連れてきた。
「どうしたの? 水川さん」
「話があるの」
「話?」
「そう、大切な話。宮永君にはしておこうと思って」
改まってなんなのだろう。
いつも以上に積極的な水川さんを前に、僕は少し緊張する。
僕が話を聞く体勢に入ったのを確認し、彼女は言葉を発した。
「私はもうすぐ死ぬと思う」
「え?」
一体何の話なのだろうかと、僕は困惑した。
誰が死ぬって?
彼女の言葉は耳に入っているはずなのに、それを脳が拒む感覚。
きっと脳が認識したとしても、それを心が拒むだろう感覚。
心を支配しているのは脳ではないのか?
では心にそれだけの力はないのではないだろうか?
いや、そうではない。
そういうことじゃなくて。
「えっと……ん?」
ただひたすらに疑問に思うことしかできない。
言葉通りの意味だとしても、その解説を彼女に委ねる。
勝手な憶測など無意味だから。
しかし、彼女はこう返した。
「言葉通りの意味。私の命は少ないんだって」
内容とは裏腹に、彼女はいつも通りの冷静さを保っている。
だから僕もできる限り冷静を保つことにした。
「いつもと変わらず元気そうに見えるけど」
「本当にそう思う? 私って、元々元気を表に出して表現するタイプではないけれど」
「そうだね、でも僕には分かるんだ」
「それは、宮永君が私に詳しくなったから? それとも願望かな?」
「それは……」
「ごめん、ちょっとからかってみただけ」
そう言って宮永さんは微笑んだ。
彼女が笑う事なんて数少ないから、僕はその表情にドキリとする。
「私の外側はかろうじてその機能を保っているけど、その中身はダメみたいなんだ」
「どこか悪いの?」
「うん、この辺とか」
宮永さんは胸の辺りに手を当てる。
「心臓?」
「それだけじゃないの。他にも色々」
僕は医学には詳しくないけれど、それでも彼女の病状が深刻なのは理解できた。
「ここに、学校に来ている場合ではないんじゃないの?」
「そうとも言えるし、そうでないとも言える」
「それって?」
「命が短いと分かっている患者にはいくつかの選択が与えられるの。そのまま治療を続行し、できるだけ長く生きる。もしくは、治療を止めて好きなように生きる。こんな選択がね」
彼女は後者を選んだのか。
それは簡単な選択ではなかったはずだ。
でも、彼女は何故こんなことを僕に伝えたんだろう?
「私がここにいるのはある種の奇跡。こうあるべき状態にないのに、こうありたいと願ってここにいる」
その言葉は、彼女が命をぶり絞って紡ぐ言葉だ。
「そして、それは宮永君がここにいたから」
夕日に照らされた彼女は、右手を僕の方へ広げてそう言った。
「僕が?」
「君だ!」
僕が何をした?
彼女に何をしてあげられた?
全く見当がつかない。
でも、彼女はそう言ったんだ。
「面白い顔をしているね。これは単なる偶然で、それでいて奇跡なんだよ」
ただ彼女の顔を見つめて話を聞く。
ああ、今の僕はどんな顔をしているのだろう。
「無理を言って高校に入学した私には、一つの決心をした。それは、とても私らしくないものだったけど、こんな状態だからこそ、できた決心だったんだと思う」
「どんな決心を?」
「ふふっ」
彼女はまた笑う。
「隣の席になった子と、友達になろうって」
「だから僕と……」
「そう」
たまたまだ。
たまたま僕がそこにいたから。
彼女は僕と友達になろうとした。
それが奇跡だと彼女は言うけど、単なる偶然ではないのか?
少しだけ、僕の心が軋む。
でも、彼女の表情は儚くも希望に満ちているように思う。
そのギャップに僕は戸惑っていた。
「宮永君は私の初めての友達で、君はとてもいい人だ。それは私にとっては奇跡のような幸運なんだよ」
「初めての友達?」
「ずっと入院してたからね。ここに入学するのも大変だったよ。でも君に会って報われた」
そんなことを彼女は言う。
でも……。
「僕は何もしていないよ? ただ君とお話をして……、それは僕がただ僕として生きていただけだ。君のように生きることに懸命でもなかった。生きるのが当たり前だと思っていた。まるで空気のように、生命は続くものだって……」
何も特別な事はしていない。
人は失って初めてそれを理解する。
なんて言われたりするけど、まさしく今の僕がそうだ。
目の前に彼女のような人が現れて、初めてそれを意識する。
彼女の眩しさと、自分の愚かさに恐怖する。
だけど彼女はそれを咎めることはなかった。
「そう、宮永君は宮永君だった。それでいいんだ。それだから私は救われた。私って、こんなだから。学校での集団生活には慣れてないし、みんなとどこか違ってしまう。そんな私に、普通に接してくれたから、私は安心したんだ」
「僕で良かったの? 本当に?」
「違うよ、宮永君が良かったんだ」
その言葉に、僕は安心した。
そして、急に視界が揺らいだ。
「ちょっと、泣くことはないだろう?」
「え? 僕、泣いてるの?」
どうやらそうらしい。
これも全部奇跡のせいだ。
「ひとまず、このことを宮永君に伝えておきたかったんだ。別れることになっても、私が幸せだったと知っておいて欲しいから」
「うん。でも、出来る事なら長く……いや、わがままかな?」
「大丈夫。私だって生きることを諦めているわけではないから」
「うん」
この日、僕達の間には新しい関係性が芽生えた気がした。
悲しみを抱えてもなお、抱きつつけることのできる希望を得たのだと思う。
儚いから輝くものもある。
そして、それを手放したくないと僕は思ったんだ。