01
僕にとって水川沙世という存在が、忘れられないものであるのは何故だろう。
そもそも、忘れ去っていい人間などという存在自体、あまりないとは思うのだけど。
その中でも彼女は特別だ。
僕達は恋人同士と呼ぶにはあまりにも離れた存在だったけど、それでも特別な感情を抱いていたのは間違いない。
彼女の方はどうだったか、それは僕の想像でしかないけど、少なくとも僕はそういった感情を持っていた。
彼女もそれを自然と受け入れていたように思う。
間接的な好意。
それが僕達の間にあったものだろう。
直接好きだと言ったことはないけれど。
そこに心地よさと安心を感じていた。
心にあるものをそのまま押しとどめておくことに、ある種の快感を抱いていたのかもしれない。
この好きだという気持ちを――――――――。
高校に入学して間もない頃だった。
僕は窓際の一番後ろ、一つ隣の席に座っていた。
それはたまたまくじ引きでその席を引き当てたからに過ぎない。
でもその結果、彼女との接点を得たのだった。
「ペンを……」
ある日の放課後。
最後の授業が終わったすぐ後に、僕の隣の人物はそう呟いた。
その声が耳に入ってきた瞬間は、それが自分に対する言葉だとは分からなかったけど、僕以外に話しかけているとも思えなかったので、僕は応答した。
「なにかな?」
「もし、ペンを私が落としたら、その時は君が拾うことになるんだろうね」
一番端の席に座った彼女は、うつむき加減のままそう言った。
「きっとそうなるだろうね。もし仮に消しゴムを落としたとしても……」
「いや」
「えっ?」
「消しゴムは分からないよ。私の使っている消しゴムは弾力があるし、丸いから移動範囲が広いの」
「そっか」
これが森野真琴という生徒との初めての会話だった。
もちろん彼女の存在は知っていた。
彼女自身は大人しい性格だけど、妙に浮いている感じがあって、それが彼女を静かに目立たせていた。
でも話すきっかけはなかったし、特別その必要性も感じてはいなかった。
だからどんな人なのか詳しくは知らないままで、ずっとそんな感じだと思っていたのだけど。
思わぬきっかけで、僕は彼女を知った。
そもそもきっかけらしいきっかけはなかったのかもしれない。
まったくもって唐突に話しかけてきたのだから。
それでも、その奇妙な言動も相まって、僕は彼女のことが少し気になった。
単に静かな子ではないと知ったから。
結局、その日はそれ以上言葉を交わすことはなかった。
僕に社交性がないというのも理由かもしれないけど、今思えばあれは、彼女なりの自己紹介だったのかもしれない。
それから以降。
彼女は時折僕に話しかけるようになった。
相変わらずうつむき加減だけど。
その独り言のような彼女の言葉に、僕は僕なりに答えていった。
「給食があった頃はデザートがあって良かった。お弁当にもデザートをつける習慣が広まって欲しい」
「保存が難しいからかな? 果物をデザートとカウントすれば結構広まってるとも言えるけど」
彼女の弁当箱には、イチゴが入っていた。
「果物はテンションが上がりにくい」
「お菓子は血糖値が上がりやすい」
「む。私達はまだ若いから、そういうのは気にしない」
「そっか」
他愛もない会話。
それでも、彼女の少し変わった視点から繰り出される言葉は、僕を楽しませた。
それが高校生になった僕に新たに加わった日常で、当たり前のものとなっていたんだ。
だから、それを失う日がすぐそこまで迫っているなんて、僕には想像できなかった。
でも、それは訪れる。
忍び足で、でも突然に。