02
そのノートの一ページ目は白紙だった。
罫線が引かれただけのページ。
始まりは二ページ目からだった。
これは前に水川さんから聞いたことがある。
ノートを使う時は二ページから使うのだと。
そうすることで見開き二ページ分を一区切りとして扱えるからだ。
ページを跨いで内容が続くのが気に食わないのだと。
予期せぬ余白が生じたり、それを勿体なく感じたりはしないのかと訊ねたことがあるけれど、彼女はこう答えた。
『その余白に、後で色々書き足せるじゃない』
とにかく、それが彼女なりのノートとの関わり方だった。
今では僕もその方法を導入している。
というわけで、この日記として使われているノートも同様だった訳だけど。
日記というのは、その日あったことを書き綴っていく物だ。
過去の奇跡が文字として残される。
後で読み返す人もいるだろうし、書くことに何らかの意味を見いだしている人もいるかもしれない。
ただ、この目の前にある日記帳は、その一般的形式から外れていた。
「日付が書いてない」
年・月・日。
それらを記入する場所はある。
見開き二ページにつき一つ、存在する。
しかし、どのページにも記入されていないのだ。
「そうなんだよね。書き忘れたってことかな? 書く習慣がないとか?」
「水川さんならその辺はちゃんと記入しそうだけど」
その日記は、日付はなくとも日記としての内容は何かしら書いてあった。
それらは一般的な日記のように、その日あったことの感想を書いたものではなく、何をしたかを箇条書きにしたようなものだった。
「いや、違うのか?」
「れーくん?」
「これは……」
箇条書きにされた内容をよく見ると、僕の名前もよく出てくる。
しかし、僕と水川さんが恋人という関係だった時間はそう長くはない。
それなのにかなり多くの出来事が、書かれているのだ。
僕と○○に行った、○○をして過ごしたなど多岐にわたる。
その多くが、僕の記憶にない内容だった。
虚偽。
いや、そう考えるのは早計だ。
そもそもありもしないことを書く必要性が分からない。
未確定な日付、覚えのない出来事の記述。
「何か分かったの? れーくん」
心配そうな真琴に僕は結論を述べる。
「これは過去の出来事を記した日記じゃない。未来への日記だ」
「未来への? 沙世ちゃんって予知とか出来ちゃう子だったの?」
「ううん、違うよ。これは多分推測だけど、水川さんの希望を綴ったものじゃないかな。それを僕達に託したんだ」
「えっと、要するに~」
「彼女のやりたかったこと、願望が込められてるんだ」
「未練があるってことかな? もしかして、今この辺に幽霊としていたりする? 私霊感ないから分からないけど」
そわそわしながら周りを気にする真琴。
面白いからしばらく見ていたくもあったけど、一旦落ち着かせる。
「そういうのではないと思うよ。僕も霊感ないから、可能性がゼロだとは断言できないけど。水川さんは自分の希望を他人に押しつけたりする人じゃないよ。これは一つの選択として提示されたに過ぎない」
「私はこんな希望や願望を持って死にますが、よろしければ引き継いで叶えてみたりしませんかって」
「そんな感じだろうね」
これは彼女からの最初で最後のプレゼントのようなものだろう。
僕が水川さんのことを忘れられないことを、彼女自身が気づいていた。
そこで考えた彼女なりのプランだ。
「ねぇ、真琴。さっきの秘密の遺書。今更細かい内容を聞くつもりはないけど、そこに真琴は何を感じた? 水川さんのメッセージというか、何かヒントのようなものはなかった?」
「ヒントかぁ」
少し考えて、真琴は答えた。
「多分なんだけどね、あの遺書は結局の所私達の為に残されたものだと思う。やっぱり沙世ちゃんは優しいよ。私達が今後も幸せに生きていけるように。そう言う願いを込めた指南書のようなものなんだと思う。れーくんについての解説書でもあるけど」
「ああ、うん。本当に何が書いてあるのか不安でもあるんだけど、やっぱりそういう意図だよね。水川さんという存在を介して、僕達の関係性をより良いものにしようと考えたんだろう」
「沙世ちゃんはれーくんのことよく分かってるね」
「ダメなところもね」
それにしても用意周到だ。
僕に新しい彼女が出来た後のことまで考えるなんて。
「うーん」
「どうした?」
真琴が何か唸っているので、その理由を聞いてみる。
「沙世ちゃんは、呪いを生きる希望に変えて欲しいんだね」
「どういうこと?」
珍しく真剣味を帯びた表情の真琴が言葉を続ける。
「やっぱりれーくんは、沙世ちゃんのことが好きなわけじゃない? 亡くなってもこうやって気にしてるわけだし」
「そうだね」
「それって一種の呪いだと思うの。亡くなった人とは一生イチャイチャ出来ないわけで、でも心はその死者の方向を向いている。そういう呪い」
そうかもしれない。
「もちろんそれでれーくんは悩むわけだけど、そうなることを分かっていた沙世ちゃんも辛いよね? だからこんなノートを残したんだと思う」
真琴の言うことはなんとなく理解できた。
しかし、それだと……。
「ノートを残すってことは、水川さんとの繋がりをより意識させるんじゃないかな? その辺りが分からない。例えば、私のことはきっぱり忘れてくださいとか、そういう手紙を残すのなら分かるけど」
「それはれーくん」
人差し指を僕の方へ突き出して、真琴は言う。
「れーくんがれーくんだからでしょ?」
「何? 哲学?」
「ちっが~う! きっぱり忘れてなんて思ってたんなら、生前に伝えてるでしょ? でもそうじゃなかったでしょ?」
「うん」
「沙世ちゃんはれーくんのことよく分かってるから、だからこのノートを残したの。だってれーくん、忘れてって言われて忘れられる?」
「無理です」
「そういうこと」
そう。
自分でも分かっていた。
忘れられるはずもない。
彼女のことも、彼女を好きであることも。
それによって生じる苦しみは確かに呪いなのだろう。
それを生きる希望にか。
悲観に暮れるな、前を向いて生きろ。
そのノートはそう僕に訴えているようだった。
「このノートと向き合って、その過程で色々折り合いをつけていきなさいってことかな?」
「そうそう。ラッキーなことに、私は沙世ちゃんのことが今でも好きなれーくんを、まるごと好きでいられる度量があるからね。じっくり向き合おうよ」
「向き合うか。それってつまり、この日記に書かれた願望を実現させていくってこと?」
「そうなるんじゃない? というかそうしよう」
こうして、僕は真琴が水川さんの実家から引き取ってきたこのノートに従い、行動を起こすことになった。
これによって僕の心がどう変わっていくのか。
それは分からないが、何かしら行動を起こさなくてはならなかったんだ。
だから良い機会だと思うし、真琴には感謝している。
「ありがとう真琴」
「どういたしまして。その代わり、沙世ちゃんのこと色々教えてね。私は沙世ちゃんマニアになるのだ!」
入店当初の泣き顔はすっかり晴れ、元気を取り戻した真琴の顔に苦笑し、それから僕はコーヒーを飲み干した。
さあ明日は日曜日。
早速僕達は動き出すのだろう。