9話 Little Smile
「ハァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァ!!!!」
金属と金属がぶつかり合う音が響き渡る。
桐山の先制攻撃をなんなく薙ぎ払い、俺はひたすら縦攻撃をしかける。右払い、左払い、右払い、左払いを永遠に続ける。
桐山は持ち前の盾を正面に持ち替え、俺の攻撃を痛くも痒くもない表情で受け止め続けている。
ー 余裕とはこのことか...
戦闘前に威勢の良い言葉を放った割には戦況は芳しくない。押してはいるものの、俺の体力が尽きて剣の動きが止まった瞬間、桐山はきっとこれまでになく速い斬撃で俺を倒すだろう。
ナイトブレスで召喚されるオブジェクトは空気中の様々な原子や分子を使って生成している。剣を中心とする金属系オブジェクトは、金属系であるだけで元は金属でもなんでもないのだ。主体になっている化学物質は窒素である。液体窒素ならぬ固体窒素を作り出し、特殊な電気を帯びさせることで指定したオブジェクトを生成できるのだ。
そして、攻撃エフェクトに関しては、あれはただの空気中に投影した擬似の演出であって実際に火傷をしたり、カマイタチにあったりはしないのだ。だが、これは覚醒者の俺たちは除かれる。
つまり、ナイトブレスは化学物質の合成による新物質を作ったものを召喚するだけで、科学的な現象を起こすことはできないのだ。
だが、オブジェクトは物理的法則は成立するのだ。
もし、桐山の剣が俺の肩を掠めたら防具が守ってくれるものの、防具が破れてしまえば俺は怪我をしてしまう。掠めるのではなく、切られてしまったらそのときは本当に終わりなのだ。
肩を金属片でえぐられ、血しぶきが飛ぶのを想像すると、繰り返される攻撃が止まってしまいそうだった。
桐山は不敵な笑みを保ち続け、俺の体力が消耗するのを待っている。
堪らなく悔しい。
自分の攻撃パターンがもうこれしかないのがバレているし、俺もそれに気づいている。
ー 変えなければ...
盾と剣がぶつかり合い、火花が散る。灼熱の閃光が肌を掠める。だが、それは熱くも痛くもない。だが、それを生み出す剣と殺意は、俺の命を奪ってゆくことになる。
目を逸らすと恵美の姿が見える。後方には相澤藤五郎がいて、訝しそうな顔をしてこちらを見ている。
一方的な無駄な連撃に飽き飽きしたのか、藤五郎はため息混じりに桐山に命じた。
「もう茶番はいい。早く怪我でもさせて追い出せ」
ー なんて酷ぇやつだ。それでも上級管理局部長か?いや、実際のところそうやつがこういう職を与えられるのかもしれないな。
桐山の目がキリッと光る。
「では...」
生命の危機を感じる。
ー 来る!
桐山はこれまで前面に構えていた盾を俺の剣撃に合わせて前に押し返した。
反動で俺はこれまでのペースを乱し、わずかな隙を作ってしまった。
桐山はそれを逃さずして、右手に持っていた長剣を大きく振り上げ、空いた俺の右肩をめがけて一直線に下ろしてきた。
「させるかぁぁぁぁ!!!」
咄嗟に剣を逆手に持ち替え、右袈裟に刀身を這わせる。左手を剣の切っ先に添え、ガードを固める。
桐山の長剣は愛剣スカイソードの鍔に引っかかり、俺の胴を切り裂くことはできかった。
だが、あくまで切れなかっただけで、垂直に斬り下ろす剣と逆手に持ち替えた剣の鍔競り合いはそう長くは持たない。スカイソードがきしきしと歯ぎしりをしている。
戦況の大逆転は防げたものの、このあとのことなど全く考えていなかった。
右手にかかる負荷が激しい。防具の装備効果でスカイソードの重さは軽減できているが、それでも桐山の大きな長剣と桐山からかかる体重で腕が今にも折れそうだ。
ふと桐山が鍔競り合いの最中、口を開いた。
「あなた、穂村 仁と言いましたね?」
まさかの質問に驚きを隠せないまま俺は物騒に答えた。
「そうだが。それがどうした?」
俺が答えた途端、桐山はぶつくさと意味のわからない言葉を呟き始め、今がチャンスと思ったが、なぜか思うように体が動かなかった。
ようやく謎の呪文のようなものを言い終えた桐山はそっと俺の方を見ると、
「これで10人目です」
本当に意味がわからない。まるで会話が成立していないようだった。
「どういう意味だ?それは」
俺の今にも擦れそうな声を聞き取るまでもなく、
「あなたには関係のないことです」
そうとだけ呟き、桐山はこれまでにない力で剣を押し付けてきた。
ここまで来れば、もうそれは鍔競り合いではない。あまりの体重に右膝を床についてしまった俺を
真上から押し込むような剣の入れ方。それを両手で必死に受け止める俺。
いつのまにか体勢までもが逆転されていた。
ー 負けちまう...
心の中でそう勝手に呟いてしまう俺に喝を入れるように、遠くから声が聞こえた。
「ねぇ、なんであなたがそこまでしてくれるの?ねぇ、なんで?」
いつしか同じような言葉を聞いた。あれは誰が言ったんだろうか?俺は、弱い自分にもうならない為に戦っている。そして、重圧に押しつぶされそうになっても、それでも抗うことを放棄してしまいそうになっている誰かを助ける為にこの剣を抜いた。
「ねぇ、答えてよ。...あたしは、まだ...あなたに...」
擦れた泣き声が聞こえてくる。
ー 誰だ?この声の主は?
死を直感し、何かを達成できないという虚無感を覚え、朦朧する意識の中でその声だけが俺を何か違うものへと変化させていった。
ー なんでって。それは、あれだろ...ほら...あれじゃないか。お前が...
「お前が...何も言わずに一人で苦しんでるからだろーがぁぁぁ!」
桐山の直剣の切っ先がついに俺の肩に達しかけたそのとき、俺の意識は2ヶ月前のあの夜の時のように激しい音を立てて弾け飛んだ。
地の底から湧いてくるような力を全力で振り絞り、力任せに直剣を押し返した。
予期せぬ反動に桐山の体勢は崩れ、後方に後ずさりした。
俺はその隙に右側に前転で退散した。
息が今にも途切れて気を失いそうだった。それでも、後ろにいる誰かが泣きじゃくるように必死にこちらに呼びかけているのを感じることはできた。
後ろを振り向くと、涙で濡れた目を大きく開け、唇を小刻み震わせている少女がいた。口元で両手を合わせ、こぼれ落ちる涙も拭かずにただひたすら俺を見つめ、泣いている少女がいた。
一瞬の沈黙の後、彼女が俺に向かって言った。
「一つだけ、お願いを聞いてほしいの...」
そのか細い声に俺まで心を奪われそうになる。一昨日の口調とは全く違う、無垢で、正直で、優しい、そんな一人の少女の声で彼女は叫んだ。
「私を...私を...」
いつしか部屋は彼女の声しか聞こえなくなっていた。
状況を元に戻されたことにかなりの驚きがあったのか、桐山も今は様子を見ている。
父親である相澤藤五郎は突然の展開に驚きを隠せず、恐れるかのように娘の言葉に耳を傾ける。
俯いて涙をぽろぽろ流しながら、ひたすら泣きじゃくる彼女のか細い声が聞こえる。
俺はその言葉を今でも忘れない。
「私を...私を...助けて...」
彼女の声は擦れてほとんど聞こえなかった。聞こえない「助けて」を彼女の涙に何度も感じた。
これまでずっと自分の殻に閉じこもり、父親の呪縛に縛り続けられていた彼女が初めて誰かに助けを求めた。
それは決して情けないことではない。恥ずかしいことではない。なぜなら、たとえ自分が弱くたって、そこに強い意志さえあれば、その想いは形にすることができる。殻に閉じこもって強がるよりも、それはもっと難しいことなのだと、俺は知っている。
あの夏の日、一人の少女を失ってから俺は自分自身を弱いと思い続けてきた。自分には何もできない。でも、そんな俺に守ってやりたい人ができた。こんなに弱っちいのに、何故?とも考えた。
でも、そこには俺の強い意志が働いていた。罪滅ぼしとは思ってはいない。でも、過去のことを引きづり、今目の前にあることに目を背けるのは間違っている。
ー 助けて ー
俺にはその言葉だけで十分だった。それだけで、俺は前に進める気がした。
だから、俺はここまで戦ってこれた。誰かの為に、剣を抜けたのだ。
「あぁ、わかった。今助けてやる。待ってろ、今、俺が、お前を、助けてやる」
左手に持ち替えた愛剣スカイソードを右手のナイトブレスに重ねる。
スキルを発動する条件は二つ。使用するオブジェクトをナイトブレスに近づけ、頭の中で技名を叫ぶ。
右腕に平行に保たれた剣がそっとナイトブレスに触れながら、両手が左右に引き剥がされてゆく。
右手に添えられた愛剣スカイソードの刀身は青空を真紅に染まる夕焼け空に姿を変え、ほのかに熱を帯びてゆく。
大きく広げられた両腕を頭上に上げ、柄を両手で持ちなおす。
眩い炎の閃光が俯いた恵美の顔を照らし出す。
咄嗟に前を向いた彼女の濡れた瞳には、黒衣に身を纏った勇者の姿が映っていた。
「さぁ、反撃といかせてもらうぞ、桐山!それと、そこにいるクソジジイもな!」
剣をまっすぐ下ろし、正中線に構える。
「いいでしょう。返り討ちにしてあげましょう」
未だ不敵な笑みは消えないが、俺を見る視線にはさっきとは違い、緊張の色が見え隠れしていた。
「行くぞ!!」
二人の騎士はまたもや後ろ足で床を蹴り、真正面から突撃した。
『ハァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァ!!!!』
二刀が激しい音を立ててぶつかり合う。火花を撒き散らし、これまでにない閃光が部屋を駆け抜ける。
長剣と炎に包まれた剣がぎしぎしと音を立てる。再度鍔競り合いが始まる...
ー なんてことはさせない!
俺は剣にかける力を急速に抜いた。剣は手前に倒れ、手から柄が離れてゆく。
だが、俺はその隙を逃さずして左にステップを踏み、倒れる剣を半身で避けた。水平に倒れた剣を再度両手で持ち直し、桐山の長剣に垂直なった刃を全速力で切りつけながら前に駆け出す。
体勢を崩した桐山は咄嗟に後ろを向いたが、間髪を入れず回転しながら左右横薙ぎに剣を振るう俺の攻撃を左手で受けるだけになった。
左回転する力の流動に身を任せ、片手で左袈裟斬りを繰り出す。連続して右に袈裟にもう一度斬り下ろす。最後に左中段斬りをしかける。
続く左からの斬撃でついに桐山の盾が俺の攻撃を制止させた。
桐山の盾はやはり頑丈で簡単には弾けなかった。問題はこいつの盾だとはっきりわかった。見たこともない盾は、推測するだけでもDEF(防御力)が高く、きっと攻撃を続けても一回で与えられるダメージは1くらいだろう。
右目に表示されているドーナツ型のHPバーはなるものは防具に付与されているDEFとレベルによるHPボーナスと呼ばれるものの合計値が100%で表示される。そして、ドーナツ型のHPバーの内側には心拍数と心臓の鼓動が表示されている。これが0になり、絶え間なく動き続けるメーターが一直線になったとき、それは本物の死を意味する。
すでに俺のHPバーは半分をきっている。さっきの戦いが影響しているのだろう。
対して桐山のHPバーは未だに半分をきっていない。1/3は減っているようだが、形勢逆転をされれば勝ち目はない。
いつしか桐山の不敵な笑みは消え去り、殺意しか感じられない。
歯をくいしばる俺に桐山が余裕の表情を見せる。
だが...
「舐めプはいけないぜ」
俺は体重をかけて盾を押した。
すると、弾き返さんばかりの力で桐山は押し返してきた。
あまりの力強さに俺の剣は弾き返されるどころか、俺の手から離れ、宙を舞ってしまった。
ー しまった...
と、思ったのは俺ではなく、桐山だった。
俺は最初から剣を弾き返されることを想定し、焦点を剣を持つ右手に集中させていた。
剣が弾き返されるや否や、俺は空いていた右手で桐山の胴体をすり抜け、長剣を掴む右手首を握った。そして、桐山の手の内を上に向け、握っていた剣を軽く持ち上げ、自分の手の中にしまい込んだ。
「何っ?!」
意識を俺の剣に集中させていた桐山が自分の剣を奪われることに気づいたのは俺がすでに剣を手の内にしまい込んだ後だった。
俺は何の躊躇いもなく剣を右に振り切る。
桐山の黒いタキシードは一瞬のうちに切り裂かれ、間一髪でかわしたものの、見え隠れする肌には血の滲んだ切り傷が入っている。
やはり俺には重すぎたのか、桐山に操られていたときとは違い、奪った長剣は俺の手を振りほどき、部屋の壁に突き刺さった。
それでも俺は恐れない。今や両者とも武器はない。
ー 強いてあるとするならば...
狂気に満ちた目をした桐山は頑丈な盾を武器に俺に向かってきた。
必死の体捌きで紙一重で盾を交わす。盾といっても、頑丈な金属だから当たれば致命傷になりかねない。
だが、ついに桐山の盾は俺の頭上に振り下ろされた。
同時に俺は両腕で体をかばう姿勢に入った。
「ゴン...!」
金属が人間の体にぶつかる鈍い音がした。
こんな音を聞くのは初めてだし、想像するだけで気が遠のく。
私の決断は間違っていたのか。自分の為に戦ってくれる男が一人いた。彼は私を助ける為に戦地に向かい、死んだ。そんな結末は嫌だ。
初めて「助けて」と誰かに言った。自分の情けなさを痛感した。助けてもらうとは、自分一人では成し遂げられないときに言う言葉だ。これまで一人で何事も完璧にこなしてきた私にとって、それは最大の敗北だった。
負けてはいけない。そんな言葉が頭の中をぐるぐると回り、いつしか私自身の心や体まで蝕んでいた。
でも、あの時、あの瞬間。「助けて」の一言にどれだけ心を救われたか。自分で放った言葉なのに、どうしてこんなに心が救われたのだろう?もし、あの時ここに彼がいなかったらどうなっていただろうか。言えただろうか。仲間と呼べる者に、助けを求めることができただろうか?
きっと彼じゃなくても、私を救ってくれる人はきっと何人もいたはずだった。でも、私はそれを無視してきた。わざとじゃない。そうでもしなければ、私はきっと私でなくなってしまう気がしてならなかった。
でも、そんな私まで気にかけ、「助けてやる」と私に言ってくれた彼を私は忘れない。
そして、そんな彼を、失いたくない。
わがままで、自分勝手で、一方的な考え方だってことは自分でもわかっている。
それでも、私は私でありたい。本当の自分でありたい。何かに縛り付けられ、完璧でい続ける自分にはなりたくない。
ー 弱くたっていい
彼はそう言った。完璧じゃなくてもいい。自分の意志がそれを望むならそうでありつづけ、そうでないならそうでなくなる。決してそれは完璧への苦痛と試練への逃避ではない。
それは、これまで自分の道をたった1本道にしてきた私への解放の言葉だった。そして、本当の意味で強くなるまじないの言葉だった。
願った。もし、私の意志が、想いが形になるのなら、私は願う。
ー 彼を、穂村 仁を助けたい!
なぜそうなったかはよくわからない。ただ、後ろから投げられてきた投擲が一瞬桐山の盾の動きを止めた。
そしてその隙に俺の構えた右手は、盾ではなく、盾を持つ桐山の右手首に当たった。
「ゴン...!」
鈍い音がした。力いっぱいに振り下ろした桐山の右手と俺の右手の拳がぶつかった音だった。
ー 今だ!今しかない。俺がこいつに勝てる一瞬、最後の攻撃、彼女の微笑みを取り戻すためのラストチャンス!
無意識に右手を大きく真上に上げ、桐山の右手を直上に弾き飛ばした。同時に桐山の右手からついには盾までもが剥がれ落ち、無防備な桐山はただただ体勢を崩したままになった。
俺の鼓動に合わせ、右足に炎が纏わりつく。左足で地面を蹴り、炎を宿した右足が桐山の肩を蹴りつける。
それではまだ終わらず、上段蹴りの勢いを殺さずに、体の回転に身をまかせ、続けて左足の外側側面で次は顔面を蹴りつける。
「これで、終わりだぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
すでに地についた右足をもう一度床から突き放し、三連撃目の右上段蹴り下ろしを桐山にくらわせる。
両足に纏った炎は宙を自在に飛びまわり、流星の如く俺の蹴りと同時に桐山に激突する。
両足が同時に地に着く。バランスを取るための左手は大きく横に広げられ、右手は体側に平行に収まった。膝は適度に曲げられ、俯く顔には汗がびっしりついていた。
後方で桐山がぶっ飛ばされ、床に叩きつけられる音がする。
ー 勝った。
一度は恐怖を覚え、足がすくみ、頭が真っ白になってしまった相手に勝つことができた。
相澤藤五郎が怯えた表情でこちらを見つめる。
「バカな!そんなはずはない。桐山が負けるだと?そんなのは聞いていない。確かに、確かに...」
続く言葉など聞い入れもせずに、俺は床に落ちたままだった剣を拾い上げ、その切っ先を奴に向けた。
「これ以上、恵美を操り人形のように扱うな。これ以上へんな真似をしたら、次はお前をぶっ飛ばす!」
その時、殺意があったのかはわからない。
だが、引きつった顔が一向に治らない藤五郎はぼそぼそと何かを呟いていると、ふと我に返ったかように元の表情に戻ると、途端に立ち上がり、桐山を取り残し、慌てて部屋を出ていった。
それからしばらくし、また静寂が戻ったことに気づいた。桐山はまだ気絶している。
恵美の方向を見る。
安堵の表情でこちらを見つめる彼女の目にはまだ涙が滲んでいた。
「大丈夫か?」
そっと手を差し伸べる。
「ええ」
手で涙を拭いながら彼女はそう答えた。そして、続けて、
「...ありがとう」
ぼそっとぼやくような、初めてその言葉を話したような口調だった。
ー なんとも質素な感謝だこと。
でも、それが聞けただけでも安心した。十分だった。
しかし、この後のことはもちろん考えていなかったので、下手したらクビになってしまうのではと今更ながらに考える。
「場所を移動しましょ。もうすぐ警備員とか他の人が来るわ。それまでにどこかに行きましょう」
これだけでは今から二人で逃避行してこれからランデブーするにしか聞こえない。
「どこにだ?」
俺の思考を少し察したのか、?茲を赤く染めて「屋上よ」と強い声で答えた。
「わかった」
そう言って俺は、まるでこれから二人で逃避行してランデブーするかのような勢いで彼女の手を握って、急いで部屋を出た。
長く、綺麗に梳かされた黒い髪からシャンプーのいい匂いがした。廊下に差し込む夕日が、ほんわかに優しく走る俺たちを包んでいった。
もうすぐ夕日が沈む。
超高層円柱状のビルのレイズ本部の屋上からの眺めは壮大なものだった。遠くから吹いてくる風が体をすりぬけてゆく。疲弊した体が一気に回復していくようだった。
目の前にいる一人の女性は俺なんかを見ず、ただひたすら徐々に青みを帯びてゆく夕焼け空を眺めていた。その姿は美しく、凛としていて、花があって、芯が強いことを象徴していた。
まるでさっきのことが嘘だったみたいな表情で空を眺める彼女の顔を俺はただただ見つめていた。
「なぁ、これからどうするんだ?」
一言聞いてみた。
「何よそれ?あなたがぶち壊したのでしょ。あなたがどうにかしなさいよ」
もとに戻った彼女は冷徹であったことを忘れていた。
「そ、それはぁ...まぁ、おいおい考えていくさ」
どう答えてよいのかもわからずに困惑してしまった。
「ふふっ。何よそれ」
そのとき気づいた。そして、次はこっちの瞳がぼやけた。
ー 笑った。今、笑った。
ずっと考えていた。遠い夏の日、どうして彼女は俺の昆虫採取についてきたのか?もしあのときついて来なければ、彼女は死なずに済んだはずだった。自分のせいで死んでしまったことをずっと後悔していた。そして、それは今も変わらない。
でも、一つ言えることがあるとするならば、彼女は俺に笑顔でいてほしかったのかもしれない。
俺の記憶が正しいかはわからないが、両親が死んで、あの家に引き取られて以降、俺は笑うことを忘れていた。だからか、俺はいつも無表情だった。突然訪れた孤独感。馴染めない空気。どんなに親切にされたところで、それが消えることはなかった。
だが、あの日、俺は久しぶりに笑った気がした。今となってはなんで笑ったかは思い出せないが、あれは彼女のおかげだったのだろうか。いや、そうに違いない。
そう、今の俺はあの時の少女と同じなのだ。白いワンピースに金色の麦わら帽子。もうこの世界に戻ることのできない8歳の少女。
あのとき、彼女の優しさ触れたからこそ、彼女を失ったとき、悲しみを知り、心の痛みに気づき、自分の弱さを知った。
だからこそ今の自分がいる。
ー あの子はずっとずっと前に、俺の笑顔を取り戻してくれてたんだな。
涙が溢れてくる。拭うことができない。
俺の涙を見た恵美は困惑した表情でこちらを見つめる。
「な、なんで泣いてるのよ。どうしたのよ?」
聞かれるがままに答える。
「ごめん、ちょっと昔のことを思い出しちゃってさ」
やっと涙を拭い始めることに成功した。
「昔のこと?」
俺は淡々と話し始めた。
「俺は、小さい頃に事故で両親を亡くして、親戚の家に引き取られたんだ。でも、そこで俺はずっと一人だった。そんなとき、同じ家に住んでいた義理の妹が一緒に昆虫採取に行こうって言ったんだ。ずっと孤独だった俺にとって、その日は夢みたいな一時だった。でも、その帰り、俺は崖に落ちてしまったんだ。でも、彼女が俺の手を掴んで引っ張りあげてくれたんだ。...代わりに自分の体を崖から飛び出して」
恵美の表情が険しくなる。
「俺は自分を呪った。なんで俺は助かったのかって。孤独で誰とも喋らず、ひとりぼっちだった俺ではなく、本物の家族がいて、みんなに優しくて、明るい彼女が、どうして死ななければいけなかったのか。そんな運命みたいなことは俺にはどうしようもないのはわかっていた。でも、どうしてもそれを受け入れられない自分がここにいた。でもな、」
心配そうに見つめる恵美と目が合う。
「俺はさっき思ったんだ。たとえ彼女が死ぬ運命で、俺が生きる運命が変わらなかったとしても、彼女は俺にたった一つのものをあの日くれていたんだ」
「何なの?」
深呼吸をしてゆっくり答える。
「笑顔だ。生きることへの希望。孤独で悲しみに暮れていた俺に、彼女は笑顔をくれたんだ。だから、今度は俺が誰かに笑顔を与える番なのだと、そう思えた」
俺は彼女に向かって微笑みかける。
恵美は俺の言葉を聞いて驚きもしなかった。ただ、こう一言だけ言った。
「仁。ありがとう」
涙で滲んだ瞳には、希望という名の光が射し、彼女の顔には笑みが戻っていた。
夕日が沈み、急に視界が暗くなる。
でも、俺の瞼の裏には夕日を背に笑顔でこちらを向く彼女の姿が焼き付いたまま、それは決して消えようとはしなかった。
そして、それから俺たちは半年間共にレイズ第一機動隊の一員として日々、世のため人のため、誰かの笑顔のために戦った。
だが、そのときはまだ知らなかった。あの日、屋上で影を作っていたのは俺たちの他にもう一人いたこと。そして、レイズの正体。そして、この世界の本当の姿を。
2028年 12月23日 第一機動隊奇襲事件
2029年 1月16日 レイズ本部爆破事件発生
そして、2030年、ある夏の日。ついに、バラバラに砕け散った羽が集まり始める。
『NITE -傷だらけの翼- 過去編 -始まりの時-』 完結
9話 Little Smile を読んで頂き誠にありがとうございます。
最長の話にお付き合い頂きまして、感謝感激狂気乱舞です!8,9話はもともと同じ話にする予定だったのですが、結果的に分けないとえげつない量になってしまいましたので、分けさせていただきました。
そして、これにて第一章、完結となります。
仁の最後の必殺キックを言葉で表すのはとても難しかったです。ほとんどうまく伝わっていないとは思っていますが、なんか凄いなこの蹴り、と思っていただければ幸いです。
次話、10話 始まりの日 以降は3日にわたって更新していきます。(その1、その2、その3という感じで...)
2/3にその1、 2/4にその2、2/5にその3としていきます。文章量はこれまでの1/3となります。(面倒臭いとかそういうのではないですよw決して!)
次回から、『NITE -傷だらけの翼- 現在編-悲劇の産物-』がスタートします!
次話以降もよろしくお願いします。