19話 悪夢の始まり
あれから数日が経った。
何気なく始まった日常は終わりを告げることを忘れたように、穏やかで、静かに時を刻んでいた。
しかし、心残りなこと、ずっと疑問に思っていたことがあった。
機械の触手を持つ謎の怪物は一体何者だったのか?これまで見たこともないモンスターだったことは確かだった。
うねる触手、人ならざる発声、それでいて人間のような思考回路を持ち、怒りや悲しみの感情を持ち合わせている。
最初は新しい人工知能を搭載したモンスターなのかとも考えた。だが、それにしてはバグが多過ぎる。実際問題、人に危害を加えている段階で新しいも何も失敗ではないのか?
そして、時折見せた生々しい目つき、引きちぎれる人肉が恐ろしく、人間であることの証明にもなっているようだった。
それが俺の戦意を喪失させた理由の1つでもあったことに、俺はいつしか戸惑いを覚えていた。
そして、何事もなく繰り返されるはずだった日常は、ついにその影を落とし始めた。
その足音はどこからともなく現れ、門の前で静かになった。
最初は誰もその気配に気づくことができなかった。だが、増してゆく不安に駆られ、俺は廊下に出た。
そこにいたのはよれよれのロン毛を頭の後ろで軽く結び、ニヤニヤと髪を掻いている男だった。その顔は無精髭が目立ち、バンダナをつけている頭には老化によるシワができていた。いかにも弱そうな体にはそれ相応のよれよれの紺色の服が着せられていた。いかにも筋肉が剥げている脚には破れかけのジーンズを着用していた。
突然ノックも無しに他人の家に勝手に入り込んできたやからには不審と警戒を覚えるはずが、穏やかで呑気そうな表情に、不思議と敵意は湧かなかった。
腕には俺と同じナイトブレスが付けられている。何型だろうかとつい聞いてみたくなる。
だが、それよりもなによりも、今はこの男になぜここにいるのかということと、勝手に入ってくるなという注意を促す必要があった。
「あんた、何者だ?」
簡潔な俺の質問に男はベソをかくように答えた。
「いやぁ、勝手に入り込むつもりはなかったんだ。ごめんごめん」
そう言って両手を顔の前で合わせる彼の顔は嘘偽りがないことを証明していた。
だが、不審な者であることには違いなかった。
「で、あんた。名前は?」
会話が成立しそうにもないので、俺は自己紹介を促した。
すると男は曲がっていた姿勢をピンと伸ばし、こちらを向かって言った。
「俺の名前は海坂 真古登っていう。よろしくな」
そう言って彼は手を差し伸べてきた。
ー いや、何がよろしくだよ。何もよろしくねぇんだよ...
呆れた顔で俺はその手を無視して質問を続けた。
「で、何か用か?誰に用があんのか?紅葉か?それとも...」
だが、俺の言葉を遮って海坂と名乗る男は口を開いた。
「あんただ」
突然のことに唖然としてしまった。
ー なんで俺がここにいると知って来たんだ?もしかして...
俺はさっきまで解いていた警戒心をマックスにして身構えた。
「テメェ...マジで何モンだ?」
ようやく俺の不信感を察したのか、男は慌てふためいた。
「よ、よせよ...そんなに身構えないでくれよ。別に悪いやつじゃねぇさ」
その言葉はすぐには信用できなかった。
今の俺は一応指名手配犯だ。ほとんどの一般市民の記憶からは消えているとしても、レイズの関係者を始め、レイズ本部爆破事件に関与した人間なら確実に知っているからだ。
この男が決してあの事件と無関係とは言い切れないからだ。
そっと右腕のナイトブレスに触れようとする。
だが、その時、後方から女性の声がした。
「何よ?騒がしいんだけど」
洗ったばかりの長い黒髪を櫛で解いている最中の彼女の服装は少しばかりはだけていて、決して大きいとは言えないふっくらとした胸が上着の間から姿を見せていた。
ー お前...なんて格好を...
完璧を追求のはいいことではあるが、女としてもう少し完璧な人になってほしいとは常々思っている。
だが、それより不服だったのは、俺の背後にいる男が鼻を伸ばしてさっきよりもまじまじと彼女を見ていたことだった。
「あっ!お前、見んじゃねぇよ!」
咄嗟に叱りつけてしまった。
「おぉ、済まない済まない。つい見惚れてしまった。...そちらのお嬢さんはアンちゃんの所帯かい?」
またまた無神経に人の恥ずかしいところをついてくるこの男にいい加減に怒りを爆発してしまう。
「はぁ?んなわけねぇだろ!」
「はぁ?そんなわけないでしょ!」
はたまた男の言葉に反応した彼女と言葉が重なってしまった。
今の俺の顔がどれだけ赤らんでいるかは想像もつかなかった。だが、慌てて彼女の方を見ると、頰を真っ赤に染めた彼女が恥ずかしそうな顔でこちらを睨みつける。
その様子を見て男が笑う。
「あははは。お熱いねえ...息ぴったりじゃねぇか。お二人さん」
一層ニヤニヤして俺たち二人を交互に見つめる男にさすがに呆れてしまう。
いつしかさっきまであった警戒心も一体どこへ行ったのやらと、思わずため息をつく。
「で、仁。この人誰なのよ?」
恵美が尋ねてきた。その顔にはまだ赤みが残っていた。
「えっと...こいつは...何だっけ?」
さっきのやりとりですっかりこの男のことについて忘れてしまっていた。
「おいおい、忘れないでくれよ。俺の名前は海坂 真古登って言って、そこのアンちゃんに用があって来たんだ」
平然と人の家で腕を組んで我が物顏で答えるこの男は一体何者なのかと深く考えさせられる。
それを聞いた恵美はすっと表情を変えると、冷静な声で言った。
「へぇ...で、何の用なの?」
さっきまでとは違い、彼女の顔には真剣な何かが浮かんでいた。最初に俺が抱いた不信感と同じようなものを抱いたようだった。
だが、そんな冷たい声に乗せられた質問に男までもが真剣な表情で答え始めた。
「それでだ。アンちゃん、穂村 仁とか言ったっけな?聞いたところによると、レイズ本部の爆破した張本人だとか?」
その言葉に背筋が凍った。
やはり、最初からこの男はそれが目的でここに来たのだと察した。
「...それで?」
今は焦ってはいけないと自分に言い聞かせ、冷静に言葉をつなぐ。
だが、俺の注意深い発言を無視して、後ろにいた恵美が俺の隣を神速の如き速さで突き抜けた。
真っ直ぐ伸ばされた右の拳が男の眉間を捉える。
「おい、恵美!」
いくらなんでもそれは警戒しすぎだとは思った。だが、今の彼女は俺には止められない。俺の為に涙を流し、笑顔でいてくれる彼女を少しでも裏切りたくはなかったからだ。
しばらくの沈黙の後、恵美が口を開いた。
「本当の目的をさっさと言いなさい」
冷徹な声が廊下に響き渡る。凍りついた空気が小刻みに震える。
その言葉にさすがの彼の顔からも笑みが消えた。
続く言葉に耳を傾ける。
「そんなアンタに頼みてぇことがあるんだ。聞いてくれるか?」
先ほどとは打って変わって真剣な声色に俺と恵美が後ずさりする。
俺はその頼みごとを聞いてはならないと直感した。
振り向いた彼女の顔に確かにそう書いてあった。
だが、俺は聞いてしまった。
「あぁ、何なんだ?頼みごとって」
あのとき、彼の依頼を聞いてさえいなければ、俺と恵美はこれから先で待ち受ける事実に直面し、決断する必要もなかったのかもしれない。
だが、いつかの夕暮れに俺たちはその日が来ることを知らされていたはずだった。心の奥底に仕舞い込んだ、思い出したくない悪夢を。
だが、既にそれは俺たちが知らない所で起きていたのだ。
悪夢は既に始まっていた。
19話 悪夢の始まり を読んで頂きありがとうございます。
ついに本編ストーリーが始動します。一人の謎の来訪者、海坂は一体何者なのか?仁と恵美が経験した思い出したくもない悪夢とは?
次話、20話 事実 は明日(2/16) となります。
海坂が語る、悲痛な現実とは...
次話以降もよろしくお願いします。




