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ただあの日をもう一度 前編




 幼い日のことを、私は覚えている。小学校に入るまで、家と病院の往復が私の全てだった。一人で歩くこともままならず、周りの人に迷惑ばかりかけてきた。妹は、私のせいでいつも一人だった。話そうとしても何を話せば良いのかわからなくて、いつも困っていた。


 一人になると、私はよく泣いた。誰もいなくて一人ぼっちの時は、いつも泣いた。


 小学校に入学して、少しだけ変わった。友達が出来た。フミコちゃん、フミコちゃんと時間が出来れば私のところに駆け寄ってきてくれた。


同じだった。幼い頃から私を取り囲んでいた、医者や看護師の目と何一つ変わらなかった。彼女たちはただ、私に対して、かわいそうだと言いたいだけだと気がついても、その人達を無為にできるほど私の心は強くなかった。


だからまた一人になると、私は泣いた。教室の隅で、人目を気にして、こっそりと泣いた。笑っていることが辛かった。


「もったいないなぁ」


 その時の声を、忘れることはないだろう。誰もいないと思っていた教室の中で、何をして遊んでいたのか、掃除用具箱の中にいた彼は、そんな事を言った。

 彼のことは以前から知っていた。クラスメイトの顔は全員覚えていたからだ。だけど、話したことはその時が初めてだった。


 回転箒とバケツが倒れる音を盛大に鳴らして、彼は現れた。ひどく格好悪くて、私は笑った。


「笑ったほうが、可愛いのに」


 そしたら、もっと可笑しくなって、お腹を抱えて笑った。彼も笑った。間抜けな自分の姿に気がついたのだ。


「ホラ、笑えるじゃん」


 初めて私は笑えたんだと、ようやく気がついた。彼はかくれんぼの鬼に見つかると、鬼と一緒に校内に隠れている友達を探しに行くことになった。

 不貞腐れた顔で教室を出て行く彼を見て、私にも友達が出来たのだと喜んだ。全く、危うく一生友達ができない所だった。


 彼にはよく、意地悪をされた。遠足の日にお菓子をもらったが、それは缶入りドロップスの残ったハッカ味だった。正直に言えば不味かった。


 私が長い間入院する事が決まった日も、彼は相変わらず意地悪だった。先生の提案で千羽鶴を折ることになっていたのだが、彼は配られた折り紙で手裏剣を作った。そして、あろうことか、学校を後にする私に投げつけてきた。私が振り返ると、彼はもうそこにはいなくて、私の手にはただ不恰好な手裏剣だけが残っていた。


 そんな彼が今、目の前で泣いているのに。

 私の体は動かなかった。




 §




 ブンの病院から帰宅した俺は、探し物を初めていた。それは、小さな頃の思い出だった。


「なあ、姉さん」


 居間で雑誌を読む姉さんに、尋ねてみる。今日になってようやく彼女のことを思い出した俺だけでは、探しきれる自身は無かった。


「ん、何?」


 俺に気がついた姉さんが顔を上げる。相変わらず楽しそうなその顔が、今の俺にはありがたかった。


「俺の小学校の頃の……写真とか道具とか、そういうのってどこかにない?」

「それなら、多分私のアルバムと一緒に」

「そっちじゃなくて」


 それならもう探した。だけど今俺が探しているのは、おそろいの制服を着て、つまらなさそうな顔で集合写真の端っこに写っているアルバムじゃない。


「その前に、通っていた方だよ」


 俺の転校は両親を困らせた。それもそうだ、息子が突然、あの学校にはもう行きたくないなんて言えば当然だ。だから、こんなことを尋ねるおは少しだけ勇気がいた。


「……ランドセルとかに入っているんじゃない?」


 姉さんは相変わらず笑っている。いい人だと、素直に思う。


「そっか……探してみるよ」


 自分の部屋はまだ探してなかった。それは単純に汚いから、出来るだけ後回しにしたかったからだ。こんなことになるなら、もっと早くから掃除しておけば良かった。


「どうしたの? 急に」

「……ちょっと、調べたいことがあってさ」


 ともかく、ランドセルか。頼むから、まだ残っていてくれよ。




 それから約二時間。部屋の棚という棚をすべてひっくり返して、部屋の隅にそれはあった。真っ黒い、皮のランドセル。何年間そこにあったのかは知らないが、部屋中を舞う埃を一気に増やしたことに違いはない。


「あった……埃がひどいな」


 触ってみると、それはかなり頑丈な作りで出来ていた。子供がどんなにふざけても壊れないよう、立派な作りだ。


 中を開ける。そこには、俺が学校に行かなくなったあの日と何一つ変わっていなかった。教科書、ノート、筆箱、リコーダー。ハンカチにポケットティッシュ、給食の時に使う薄いマット。


「おー教科書だ、懐かしいな」


 さんすう、と書かれた教科書を手に取り、中を開いてみる。


「うーわ、字、デカッ」


 今使っている参考書と比べられないぐらい、大きな字で割り算が丁寧に説明されている。懐かしくなり、ページをどんどん捲っていく。余白の隅には、昔好きだったテレビのヒーローが悪の怪人を倒している。授業に集中していなかったのは、この時から変わっていなかったみたいだ。


 丁寧に公式を解説してくれる謎のロボットには、数えきれない装備が追加されている。丸く親しみのあるデザインにはジェットエンジンやキャノン砲、ライフルなんかが追加されている。


 そうだこれ、皆で教科書を持ち寄って、誰が一番格好良くできるかを競ったんだ。誰が優勝したんだっけ?

 面白くなって、次々とページを捲ってみる。嫌なことなんて一つも覚えてない。ただ、楽しいことばかりがそこにあった。


 教科書の隙間から、何か、小さなものが落ちてきた。


「あ」


 それは、水色の折り紙だった。鶴を目指して、途中で失敗して、それでも形にしたくて。不恰好な、折り鶴。渡せなかった大切なものが、まだここにあった。






「ここを、こうして……よし」


 予備校の授業が終わるとすぐに、俺はまたブンの病室に来ていた。途中買ってきた折り紙を、厚紙に書かれたガイドに従って追っていく。できたのは、ピンク色のペンギン。自然界にはないショッキングな色合いに、思わず笑いが込み上げてくる。


「どうだ、大分上手くなっただろ?」


 彼女の手の上に、それをそっと置いてみる。わかっている、反応はないんだ。こんな事を、何度繰り返したって。


 ブンのベッドの上は、ちょっとした動物園になっていた。有りもしない色で、似ているというだけの折り紙。だけど鶴は、そこにはいなかった。


「和夫、来てたんだ」


 扉の開く音と一緒に、アヤコの声が聞こえた。


「よっ」


 手を休めて、彼女に挨拶する。学校の制服に、スクールバック。どうやら今日も元気に学校に行ってきたみたいだ。


「何やってんの?」


 俺の手元を覗き込んで、楽しそうに彼女は言う。


「んー……童心に帰って折り紙をね」


 新しく仲間に加わった、ピンク色のペンギンを見せる。


「予備校はいいの?」


 へー、とか、ほー、やら、彼女が興味なさそうにペンギンをいろんな角度から眺める。


「アホ、ちゃんと授業受けてきたわ。サボってたら怒られるからな」

「そうね、やっぱり学校はちゃんと行かないとね」


 それから、二人そろって大きなため息をついた。平日のゲームセンターに通っていた俺達には、耳の痛い言葉だった。


「俺達が言うと……説得力ゼロだな」

「私も……なんだか虚しくなってきた」


 パイプ椅子を横に並べて、アヤコが座る。それから小さなサイドテーブルの上に置かれた折り紙の束を物色し始めた。


「ねぇねぇ、この金色の紙貰っていい?」

「あ、バカお前それは俺が凄い奴を作ろうと思ってだな」

「何? 凄いのって」


 適当な物は一通り作り終わっていたので、難易度の低い折り紙しか残っていなかった。同じものが被るのは、何となく嫌だった。


「……やっこさん」


 俺の口から出たのは、定番中の定番、幼稚園児でも作れそうな人形の折り紙だった。


「やっぱり貰うわ」

「あー!」


 金色の折り紙を奪い取り、彼女は丁寧に何かを作り始めた。


「確かに……何だか懐かしいわね」

「ところで何作ってんの?」

「……やっこさんの下半身」


 俺から目を背けて、アヤコが言う。


「返せ! 貴重な金色を返せ!」


 定番中の定番、というか俺が作ろうとしていた物と殆ど違いはなかった。




「喉乾いたから、何か適当に買ってくるよ」


 折り紙や世間話に興じながら、俺達は時間を潰していが、しゃべり疲れたのか喉がいい加減に乾いてきた。ちなみに、銀色の折り紙は紳士協定によってお互い使わない事となった。


「オレンジジュース」

「前もそれだったよな」


「いいじゃん、好きなんだから」

 自販機で済ませてしまおうかとも思ったが、病院の入口に売店があったことを思い出し、ついでにお菓子を買ってこようと決めた。


 が、その考えは甘かった。二回目の訪問で、この大きな病院を行き来しようというのは無理難題だった。病院の地図を睨みながら、とりあえず階段の場所を探す。あと、病室って何階だっけ?


「あそこの患者さん、聞いた? 6階の一番端の病室」

「藤代さんの事?」


 若い看護婦が、二人で何やらブンの事を話している。夕方で人も少なくなってきたからだろう、口が緩んで患者のことを喋っているんだろう。まあともあれ、目的の場所がどこだか解ったので、良しとしよう。


「そうそう、あの子」

「何でも、もう長くないんだって……」

「十年も、あのままだもんね……それでも、長く生きられた方なのかしら」


 話の続きは、歩きながら聞こえていた。予想できる範囲のことだったが、直接言葉として耳にするのは、少し堪えた。




 部屋の扉を開ければ、アヤコが何やら文庫本を呼んでいた。折り紙制作は飽きてしまっていたらしい。


「遅いぞー」


 間延びした声が部屋に響く。


「悪い悪い、場所解らなくなってさ。代わりと言ってはなんだけど」


 狭いサイドテーブルの上に、買ってきた物を広げる。スナック菓子、コーラ、ジュース、お茶。これで丁度、人数分揃った。


「私、甘いお菓子のほうが」

「文句があるなら食べるな」

「はいはい食べます、食べますってば」


 スナック菓子の袋を開けながら、不満を言うアヤコ。


「ん? なんだこれ」


 俺の目を奪ったのは、スナック菓子の袋の下敷きになっていた、銀色の折り紙。紳士協定はいとも簡単に破られていた。


「ウルトラゴージャスやっこさん」


 銀色の胴体に、金色の下半身。今、史上最大の勿体無い折り紙が目の前にあった。


「これは……何というか」


 あまりのケバケバしさに、思わず言葉を失う。うん、ひどい。脳みそに遅れてやってきた三文字は、辛辣なものだった。


「格好良いでしょ? あんたよりは」

「小学生が見たら泣きそうになるな」

「何でよ」

「き、貴重なキラキラの折り紙がーっ! てさ」


 不満そうに口を尖らせ、ウルトラゴージャスやっこさんをアヤコが持ち上げる。


「大学生の成り損ないのクズ夫君は、どんな感想を言うんですかね? ん?」


 目の前で揺れる、ウルトラゴージャスやっこさん。うん、ひどいぞ。


「うーん」


 ひどい。というか、何で比較対象が俺なんだよ。


「俺の方が格好良いな」


 という訳で、俺は自分の気持を包み隠さず答えた。


「ばーか」


 すぐに、素直なアヤコの声が帰ってきた。




 §




 私が初めて神様に出会ったのは、ちょうど手術が失敗した次の日だった。病院の大きなベッドでひとり、白い天井を眺めている。初めは、泣こうと思った。誰もいないから、泣いてしまおうと、そう思った。


 だけど体は動かなかった。泣きたいはずなのに、声が出ない。涙は流れてくれない。何もできなかった。眉一つ、自分の意志で動かすことができなかった。


 だから私は、心の中で泣いた。これなら誰にも気づかれないで精一杯泣くことが出来る。初めからこうすれば良かったと、その時になって思いついた。


 そんな時、誰かの声が聞こえた。少年の声で、確かに彼はこう言った。


「どうして君は、泣いているんだい?」


 初めは、うまく答えられなかった。こんな時間に、自分以外がいると思わなかったからだ。


「大丈夫、僕は怪しい人じゃない」


 怪しい、といよりは不思議な人だと私は思った。次に声はこう言った。


「僕は……神様だ」


 ああ、そうなのか。だからこんな時間に、そんな場所に立っているのか。


「そうだ君、君の願いを叶えてあげよう」


 本当? だったら今すぐ、私の体を直して欲しい。私はそう願った。


「ごめん、それは無理だ」


 そうだと思った。だってもしそれが出来るのなら、病院なんてこの世から無くなるのだから。


「あ、そうだ! 他のこと、他のことで何かないかな?」


 だったら。


 ――だったら、私のことを、皆が忘れて欲しい。


「どうして? 大事な友達なんだろう?」

 だから、皆に忘れて欲しい。だって、こんな救えない結末は、皆を泣かせるだけだから。


 そして皆、私のことを忘れた。


 一つだけ、寂しかったことがある。それは、和夫さえもが私のことを忘れてしまったという事。

 だから私は、また心の中で泣いた。


 今度は、誰も声をかけてはくれなかった。

 



 §




 帰り道、長い道は続いていく。夕暮れの街にはカラスの鳴き声と、車椅子の車輪の音だけが響いていた。これは古い夢。まだ幼かった頃の、いつかの帰り道。


「お前のせいで、遅くなっただろうが」

「うるさいなぁ、和夫だって悪いんだぞ?」


 何のことで言い合っていたのか。何で二人して先生に怒られていたのか。もう、よく覚えていない。

 ただ綺麗な夕焼け空を、覚えている。


「今日は、天気がいいね」


 車椅子の取っ手を押しながら、ゆっくりと歩いていく。


「もうこんな時間だけどな」


 俺は拗ねた子供だった。今も大して変わらないが、ともかく同年代の子供の何倍も格好つけで、拗ねていた。


「こんな日はさ」


 彼女は、ブンは素直な奴だった。いつも楽しそうに笑っていた。


「星がよく見えるんだろうね」


 それに、可愛かった。クラスのどんな子よりも、姉さんよりも。


「……そういうの、よくわかんないな」


 照れて、顔を背けてはぐらかす。夕焼けがオレンジ色で良かった。


「男の子だもんね、和夫は」


 彼女が笑う。それが、綺麗で、忘れられなくて。


「いつか、さ」

「うん」


 車輪の音だけが、ただ鳴り響いている。彼女の次の言葉が待ち遠しい。


「一緒に見ようね」

「……ヤダ」


 しばらく待って出てきた言葉は、相変わらず拗ねた物だった。


「ひどい」

「だって……」

「女の子と一緒にいるのが、そんなに嫌?」


 子供らしい、馬鹿な考え。高校生にもなれば、男の方から女の尻を追いかけるようになるのに。


「だって、姉さんに茶化されるから……」


 少しだけ彼女は悲しそうな顔をしたけど、すぐに表情を変えた。何か頭を捻って考えて、結局、また笑った。


「よしっ」


 気づけばまた、彼女の言葉を待っている。


「じゃあ、二人だけで見ようよ。誰もいない、そんな場所でさ」

「……うん」


 そうして俺は頷いた。


 交わされた、小さな約束は、まだ。






 目を覚まし、顔を上げる。病室のサイドテーブルには、涎の跡が残っていた。気がつけば寝ていたらしい。

 背筋を伸ばし、大きなあくびをする。その時俺は、サイドテーブルの上に置かれた一枚の紙に気がついた。


『先に帰ってる。変なことするなよ』


 アヤコだ。余った折り紙の裏に、綺麗な文字で書いてある。まったく、俺はどれだけ信用されていないんだか。


「なぁ、ブン」


 夕暮れの病室。ここにいるのは、俺とブンだけ。


「忘れてたよ、俺」


 椅子から立ち上がり、ペン立てに刺さったボールペンを取り、折り紙の裏に文字を付け加える。


「まだ、ポイント貯めてねえや」


 これからやることなんてただ一つ。ブンに笑われないよう、自分にできる精一杯を。


『困っている人、助けてきます』


 動かない彼女の体を起こして、自分の背中に乗せた。




 ブンを背負って、病室の外に出る。ただ困ったことに右も左もわからなかった。このまま正面玄関から堂々と出ていく訳にはいかない。裏口? そんなもの俺が知るわけ無いだろう。


「あ、神様だ」


 ただ、天使はいた。

パジャマを着て、車椅子を一生懸命動かしどこかへ向かおうとしていた。


「……久しぶり、香奈枝ちゃん」


 ただ、彼女は驚いたに違いない。


「えーっと……」


 俺の背中にしっかりと捕まっているブンを見ながら、香奈枝ちゃんが申し訳なさそうに頬を掻く。


「ああ、後ろの」

「はい」

「実を言うと、俺は神様じゃないんだ」


 もう嘘を付く必要はない。今はもう香奈枝ちゃんにも見えるから。小さなその背中を押してくれた、ブンの姿が。


「そうだったんですか」

「そうだったんです」

「んで、後ろにいるのが本当の神様」


 少しだけ、ブンの体を揺さぶってみる。微かな呼吸の音が、確かに聞こえた。


「はあ」


 納得してくれるとは思わない。自己満足かもしれないけれど、ブンのことを知ってくれればそれで良かった。


「それじゃあ、俺はこれで」


 とりあえず、左に行ってみよう。


「あの!」


 踵を返したところで、香奈枝ちゃんに呼び止められる。


「どしたの?」

「そっちからだと、人に見つかりますよ? ほらあの扉、鍵壊れてるんです」

「そうなんだ」

「そうなんです」


 180度方向転換すれば、そこには非常用階段への入り口があった。


「さては、使ったことあるな?」

「さあ、何のことだか」


 恍けたように、できもしない口笛を吹いた。風のかすれる音が妙に優しかった。


「じゃ、またね」

「あの」


 もう一度香奈枝ちゃんに呼び止められる。


「何?」

「デート、頑張ってください」


 今度は励ましの言葉だった。






 片側一車線の山道を、一歩一歩進んでいく。街灯の僅かな明かりのおかげで、道を間違えることはない。車通りはほとんどなく、風が吹けば木々のさざめく音が聞こえた。


「あの時お前、すっげー嫌そうな顔しててさ」


 ブンの返事は来ない。だけど俺は続ける。


「それで俺が声かけたら」


 楽しかったあの日の思い出を一つづつ、忘れないよう確かめながら。


「ワンワン大声で泣きやがって……」


 本当、あの時は大変だった。俺が助けに行ったはずなのに、こいつは急に泣き出して、必死になだめようと思えば先生がやって来て。


「それでお前、先生に呼ばれて、文子ちゃんに意地悪しないって約束しろって」


 確かに俺も、意地悪ばっかりしてきたさ。だけどお前も、同じぐらい俺に意地悪してきたじゃないか。


「ひどいよな? ああいうの」


 今だってそうだ。お前は何にも喋らなくてろくに動きもしないのに、車椅子の代わりに使いやがって、本当に意地悪だ。


 だから、文句を言おう。山ほどの悪口と、数えきれない不平不満を。


 突然、道路が明るくなる。暗い夜道は、車のヘッドライトに照らされ色を取り戻した。振り返ると、そこにはパトカーがゆっくりと走行していた。


 その車はちょうど俺達の前で止まった。パワーウィンドウを下ろして出てきた顔を俺は知っていた。


「やあ、この間は写真どうも」


 助手席に座っていた若い刑事が、手を振りながら挨拶する。


「はあ……」

「補導されたいっていうなら協力してやるぞ?」


 運転席に座るベテラン刑事は、相変わらずタバコを吸っていた。


「こんなところで何やってるんですか?」

「それはこっちの台詞だ」


 大きなため息をついて、ベテラン刑事が呟く。


「近くの病院で事件があったんだ。なんでも、長期入院の患者が攫われたみたいでさ」


 そして二人は、俺の背中に背負われた、病院服を着たブンに気づいた。


「……ああ」


 なるほど、事件になっていたのか。自分でも大胆だとは思ったが、警察沙汰にまで進展するとは。


「どうします? 警部」

「どうするってお前、決まってるだろ」


 ベテラン刑事は煩い無線機を手に取ると、負けないぐらいうるさく怒鳴った。


「こちら三号車、山岳部には人っ子一人いない。不気味なぐらい静かだよ!」


 再びパトカーの無線が響く。彼は面倒くさそうに頭を掻きむしりながら、再び怒鳴り散らした。


「ああ、そうだよ、だから何にもないんだってば。頼むから、幽霊が出ないうちに早く帰らせてくれ」


 言いたいことを一通り言い終わると、彼は無線機の電源を乱暴に切った。そしてまた、新しいタバコに火をつけた。


「んじゃ、頑張れよ」

「またねー」


 何事もなかったかのように、パトカーは山を下っていった。


「また」


 山頂に向かって、再び歩き出す。


「また助けれた、な?」


 香奈枝ちゃんに、刑事さん。ありがとうという言葉を、頭の中で反芻する。何度繰り返しても足りなかった。




 §




 神様に再会したのは、つい最近のことだった。十年近く人を放ったらかしにしておいて、今更何を言いに来たのか。長く退屈で何も出来ない入院生活のおかげで、私の心は純粋さを無くしていた。


「君に知らせることがあってね」


 はあ、そうですか。


「君の寿命なんだけど、そろそろ終わるんだ」


 なんとなく、わかっています。


「そうか、それなら話は早い」


 何のことですか?


「君のやりたい事を、一つだけ叶えてあげよう。寿命を伸ばすとか、病気を治すっていうのは無理だけど」


 わかっています、それぐらいは。


「それならいいんだ。何がしたい?」


 それなら、私は。


 彼に、和夫に会いたい。私に勇気をくれた彼に。


「彼はもう、君のことを忘れているんだよ?」


 わかっている、それぐらいは。

 だけど。

 ただ、会いたかった。

 それだけだった筈なのに。


 再会した彼は、私のことをしっかりと忘れていた。だけど、変わらない何かがそこにはあって。


 彼がまた、大切な人になった。




 §




 山の頂上……とまではいかないが、そこは良く星が見えた。山の中腹にある、駐車場のようなところ。アスファルトの地面に腰を下ろせば、ひんやりとした感触が伝わってくる。


「……着いた」


 彼女を横に寝かせつけて、自分もその場に大の字になって寝そべる。


「……食後の運動にしてはきつかったな」


 全身を疲労感が一気に襲う。疲れた。もう一歩も歩けそうにない。


「ここなら誰もいないな」


 本当に誰もいない。ここにいるのあ、俺とブンだけ。


「本当、姉さんには困るよな。一緒に遊んだって言ったら、もうそういう年頃なんだね、なんて悟ったようなこと言って」


 一体何度あの人にからかわれたことか。だけど、そんな姉さんがどこにいるのかもう見当もつかない。


「ここなら……ここなら、俺たち二人がいたってさ、誰も笑わないんだ」


 空を見上げれば、星があった。街の中では見えない、小さな星も山ほどある。


「それに見ろよ、辺りが真っ暗だから、星が良く見えて」


 彼女は動かない。ただ、薄く目を開けて、その視界は何も捉えない。


「だから」


 彼女の手を、強く握る。冷たい。


「だから……!」


 ただ、話がしたかった。


「起きてくれよ」


 目を開けて、それで。


「笑ってくれよ……」


 やっと、見つけたんだ。ここまで、来たんだ。


「嫌だよ、もう」


 大切な友達を、楽しかった思い出を。


「ずっと、ずっと」


 まだ、始まっていないんだ。


「一緒に居たいんだよ……一緒に、笑って」


いたいのに、なんで、なんで。


泣いた。何度も、何度も。誰もいないから、きっと俺の声は誰にも届かない。隣にいるブンにさえ、届くことはないんだ。こいつといるのが、楽しかったのに。


今はもう、笑えない。


「勿体無いなぁ」


 声が聞こえた。


「お前、笑ったらさ」


 確かに、聞こえた。ブンのあの、声が。


「少しは格好良いのに」


 笑っていた。頬を緩ませて、彼女が。

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