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再会の日は唐突に 後編




「悪いね、連絡くれて」


 くたびれたコートがトレードマークの刑事が、電話一本でやって来た。金魚の糞……じゃなくて部下の若い刑事も何故か来ている。多分、暇なんだろう。


「まさか本当に見つけるとは……」


 半笑いで、推理小説の脇役みたいなことを言う若手刑事。暇人め、幸せそうな顔しやがってさ。


「どうも」


 気恥しそうにアヤコが礼を言う。


「お前じゃないだろ、見つけたのは」


 しかし手柄を横取りされてみすみす見逃す俺ではない。ツッコミのタイミングは見誤らない。

 ところで、俺が見つけた例の写真。実を言えば気になる事があった。事件の日に無くしたというのも頷ける。


「あの、その写真」

「なんだい?」


 だって俺はこの写真のせいで、あんな事件に巻き込まれたのだから。


「写ってるの……健太ですよね? それとその犬、チャ……」

「チャッピィだ」

「あ、そうそう! 魚肉ソーセージが好きだっていう……」


 俺の周りの空気が、張り詰めたものになっていた。若手刑事の半笑いはどこかに消え、その表情は寂しげで重みのある物になっていた。アヤコは口を挟もうとさえしない。敏感に場の雰囲気に反応したんだろう。


 ベテランの刑事の顔に、優しさも温かみもなかった。冷たい、氷のような眼差しが俺を射ぬいた。


「どうして知っている?」


 その雰囲気にたじろいでしまう。だけど、俺が知っている事実を伝えない訳にはいかない。もし誤解だというなら、それは解いてしまいたい。


「だって俺……そいつ、健太に白い犬を探して欲しいって頼まれて……あんな事に」


 無骨な刑事の手が、俺の胸ぐらを強く掴んだ。彼の気迫に窒息しそうになる。


「適当な事を言うな」

「え……いや、本当です! あの日、ブンと健太のせいで」

「……ふざけるなよ」


 冷徹なその声が、俺には恐ろしかった。理由などわからない。ただ何かが、彼の感情を揺さぶったことだけは確かだった。


「良い事を教えてやる。あいつは、健太は……十年前に死んだんだよ」


 世の中には、知らないことが多すぎる。きっとそれは、他人を傷つける。俺はそう学んだ。だけど、知らないことを確かめることはできる。古いセダンの国産車に揺られながら、そんな事を俺は考えていた。


「さっきは悪かったよ……」


 ハンドルを片手で回しながら、ベテラン刑事がそんなことを言った。俺達が向かっているのは、健太とその母、つまりこの刑事の奥さんが眠っているという墓地だ。


「すいません、俺もよく知らなくて」


 後部座席にいるアヤコと若い刑事は、先程から一言も喋ってはいない。自分たちには、発言することさえ許されていない。そんなことを考えているようだった。

 アヤコが一緒についてきた理由は、わからない。ただずっと、何かが引っかかるような表情をしていた。


「警察の仕事ってのはさ、地道な証拠集めと裏付けされた理論なんだよ。名探偵みたいな推理力は必要ない」


 何本目かわからないタバコに火をつけながら、彼は重苦しく喋り始めた。


「だけど、今日ばっかりは」


 盛大に煙を吐き出し、タバコの匂いが車の中に充満する。個人的に言えば嫌いな匂いじゃなかった

「信じたくなるじゃねぇか、幽霊っていうヤツをさ」


 信号の色が青に変わる。エンジンの音だけが車の中に響いていた。




 使い走りにされていた若い刑事が、小走りで戻ってきた。その手には、小さなコンビニ袋を提げていた。


「警部、ありましたよ」


 袋から線香を取り出し、ベテラン刑事に渡す。


「最近のコンビニってのは何でも売ってるよなぁ」

「ですよねー」

「こういう台詞はオッサンの特権なんだぞ? お前はせいぜい自分の年金が貰えるか心配してろ」

「公務員としてどうなんですか、その台詞」


 ずっと黙っていたアヤコが、笑いながらそんな事を聞く。


「懐かない犬みたいで良いだろ?」


 皮肉たっぷりに、低くよく通る声で彼は答えた。

 それから俺達は、ゆっくりと動く刑事の丸まった背中について行った。オレンジ色の夕焼けが、無機質なはずの墓標を温かみのある物に変えていく。


「ここだよ」


 灰色の、大きな石の塊。最低限の装飾と加工がなされたそれには、そこに眠る人々の苗字が刻まれている。備えられた花は、比較的新しいものだった。添えるよう置かれた墓誌に、少し目をやってみる。墓誌の一番左端に、健太という名前は確かにあった。

 刑事は線香を乱暴に箱から取り出し、墓の前で火をつける。


「健太はどうだった? 俺のこと何か言ってたか?」

「いや、特に……」

「嘘でもいいから、なんか言うんだよこういう時は。出世しないぞ?」

「警部が言うと説得力ありますねー」


 横から口をはさむ、若い刑事。


「一言余計だ」


 その頭は景気のいい音を立てて殴られた。


「あいつは……健太は」


 思い出は、微かなものだ。一緒にいた時間なんて、何時間しかないのだろう。だけど俺がその姿を覚えているなら、それは誰かにとって大切な物なんだろう。


「楽しそうでしたよ。人の体に魚肉ソーセージ巻きつけたりして」


 気取ることも、脚色する必要もない。ただ俺が感じたものが、正しいのだ。


「あれ、あいつがやったのか?」

「はい、フルアーマー氏家和夫だーっ、とか言って」

「躾のなってない息子で迷惑かけたみたいだな」

「大丈夫です、今となっては……」


 いい思い出、とは言い切れない。あいつのせいで酷い目に遭ったことに変わりはない。だから、今度あいつに出会ったら、山ほど文句を言ってやろう。


「まぁ、時間はあるんだ。いつか笑い話になるさ」

「そうなるといいです」


 線香の火はまだ消えない。だけど長居する理由はない。


「あの」


 今まで黙っていたアヤコが、突然口を開く。


「ん? なんだいお嬢ちゃん」


 刑事がそう答えても、ただ何かを言いたそうに、何度も口を動かしては閉じる。言葉になって出てくるには時間がかかった。


「家族が……大切な人がいなくなるのって、どんな気持ちになるんですか」


 その質問に、俺と若い刑事は度肝を抜かれた。当然だ、墓の前で、妻と子供を亡くした人にかける言葉じゃない。

 だけど、俺達は彼女にかけられる言葉は無かった。アヤコの肩は小さく震えている。彼女が、逃げ出したいほど嫌な事と関係があるのだろう。それと向きあおうとする彼女に、俺が言えることは何も無い。


「……何も」


 ただ、空に向かって微笑んで、刑事はしゃべる始めた。


「何も、感じないよ。ただ、自分が生きてるってことさえ忘れて、いろんな事に鈍くなって」


 言葉が途切れる。何を思うのか。何を感じているのか。俺にはわからない。


「時間がたってやっと……その人が死んだって、どうしてもっと一緒に入れなかったのかって、悲しむんだ」


 それで、終わりだった。アヤコはただ唇を強く噛むだけだった。


「……大丈夫か?」


 すこし心配になったので、彼女に声をかけてみる。


「うん、平気だから。大丈夫、だから」


 途切れ途切れのその言葉は、精一杯の強がりだった。それ以上踏み込んでしまえば、彼女の意地を無為にしてしまう気がして、そのまま何も言えなくなった。


「さて」


 上着のシワを伸ばすように、刑事が大きなあくびをする。


「帰るか。そろそろ幽霊が出る時間だ」

「今日は信じてるんじゃないんですか?」


 相変わらず調子のいい、若い刑事が笑いながらそんな事を言う。


「二人とも、こんな何も無い場所でじっとしていられない、落ち着きのない奴なんだよ」


 確かに、あいつと大きな白い犬はこんな場所にはいないような気がする。

 だけど気になって、俺は後ろを振り返った。

 誰もいない、ビルのように墓石がただ規則的に並んでいるだけだった。それが、俺には嬉しかった。


 ここには、死んだ人間さえいない。きっと今日も、街のどこかで、楽しいことを探してフラフラと歩くんだろう。






 健太の墓参りをしてから、三日が経った。週の初めの月曜日が、またやって来た。休日をほとんど自習して過ごしていたお陰だろう、授業の内容がすんなりと頭に入る。むしろ今まで以上に理解していると、そんな風にさえ感じていた。


 その理由が、わかる気がした。ブンと出会ってから今日まで、色んな物を見てきたから。それに比べれば、受験勉強は屁みたいな難易度だった。


 授業の終了時間を告げるチャイムが鳴る。これで、今日の授業は全部終わりだ。

 仲の良さそうな集団が、これから一緒にどこ行こうかと話し合っている。男女構わず笑い合って、楽しいことを探す。

 そんな彼らが、俺とは無縁に思えた。理由はわからない。だけどそれでいいんだ。

 これからどこに行こうか。そんな事を一人で考えてみる。行きつけのゲームセンターには、今日もアヤコがいるんだろう。香奈枝ちゃんは、新しい友達とうまくいっているんだろう。健太は今日も、犬の散歩で忙しいに違いない。


 そしてブンは、もういない。


 これでいいんだ。背を向けて教室を後にする。その足取りは重かった。




 予備校の入口の前で、俺は立ち止まった。大きな壁に背中を預け、暇そうに携帯電話を弄っている女がいた。


「よっ」


 彼女は片手を上げ、俺に挨拶する。ブンじゃない、よく似た女子高生。


「……アヤコか」

「何よ、私じゃ不満?」


 何でこんな所にいるのか……と思ったが、高校生が予備校に来ること自体おかしな所は一つもなかった。それにもしかすると俺に用があるのかもしれない。そんな自惚れたことを考えてもみた。


「不満って訳じゃないけどさ。少し驚いて」

「これでも、ちゃんと学校には行ったんだけど」


 アヤコがスクールバックを高く掲げ、これでもかと俺に見せつける。不良少女もようやく更生したか、良かった良かった。


「なんだ、褒めて欲しかったのか」

「ハッ、誰があんたなんかに」


 相変わらずの悪口合戦だったが、本気で腹が立つものではない。いつの間にか、俺はこいつにも居心地の良さを感じていたようだ。


「正直に言って、私だと思ってガッカリしたでしょ」


 からかうように、アヤコが俺の顔を覗き込みながら冗談とも本気とも取れる事を聞いてくる。


「え? いやそんな事は……」


 ブンが来てくれたなら良かった。そんな事、言えるわけはない。


「お前に言ってもしょうがない事だよ」


 だから、誤魔化すことにした。友人なんてロクにいないくせに、こいつは駄目であいつが良かったなんて、贅沢な悩みを持つものじゃない。それに、居なくなった人を悔やむものじゃない。


「あんたって、幽霊が見えるんだっけ」

「見えてた人が結果的に幽霊だったんだよ。間違えるな」


 厳密に言えば違いはないが、ただ幽霊が見えると断言されると、怪しげなカウンセラーみたいで何となく嫌だった。


「何それ」

「言葉の通りだけど?」


 俺がそう言うと、アヤコは不機嫌そうな顔になった。歯軋りの音が今にも聞こえてきそうだ。

 それから、大きな溜め息。とうとう奴は白旗を上げた。


勝った、歴史的大勝利だ。


「もしかして、あんたって生き霊も見えるのかな」

「生き霊? なんだそれ」


 俺は、別に霊能力者とか陰陽師の家系とかそんな超人では無いわけで、幽霊の類に関しては知らないことの方が多かった。ぎりぎりで妖怪の名前を幾つか言える程度だ。


「言葉の通りだけど?」


 得意げな顔で、アヤコが言う。


「そうですか」


 戦うことを無駄だと感じた俺は早々に白旗を上げた。

 負けた、負けましたよ歴史的敗北です。


 それからしばらく、二人共喋らずに黙っていた。道行く車の音や、どこかのグループの話し声が通りすぎていく。

 そもそも共通の話題なんて格闘ゲームぐらいだ。長時間こいつと話し込むような話題は特にない。だけど俺は今すぐ別れるのは名残惜しい気がしたので、そのまま彼女の横に並び、同じように壁に背中を預けた。


 ふと彼女の顔を見れば、何かを思いつめているような表情を浮かべていた。


「なんだよ、変な顔して」


 俺の言葉に彼女が答えるまで、しばらく時間がかかった。その間、悩んでいる人に対して不謹慎な言葉だったかなと内心で反省した。


「ブンって人」


 彼女の口から出てきた、意外な言葉。


「うん? なんで知ってるんだ?」


 間抜けな俺は、反射的に当然の疑問を口にした。


「この間言ってたじゃない。刑事さんに胸ぐら掴まれて、こう……」


 言ったか、そんな事? 待てよ、思い出せ確か口を滑らせたような……。

 うん、口から漏れてました。


「あー、はいはい」


 そして生まれる、新しい疑問。


「……何でお前が気にするの?」


 ただアヤコは俺の疑問には答えてくれる気が無いらしい。


「その人、どんな人?」


 間髪入れずに、新たな質問を俺にぶつけた。


「何でお前が」

「どんな人?」


 強情な彼女に俺の二度目の質問は却下された。


「どんな人って……」


 鼻の頭を掻きながら、考える。どんな人? そりゃあ、自分のこと神様とか言うはぶん殴るは文句を山ほど言うは。一々上げればキリがない。


 ああ、アヤコにとって一番わかり易い例えが一つあった。


「そうだな、お前にそっくりだよ」


 本当に、瓜二つだ。こんなに似ているのだから、何度も俺が見間違えるのだって当然じゃないか。


「そう……」


 帰ろう。

こいつにはもう、退屈な授業の代わりにゲームの相手をする人間はいらないんだ。ようやく、元の居場所に戻れたんだ。俺もいつだって、回り道している訳にはいかない。


「じゃあなアヤコ、学校の友達は大事にしろよ」


 彼女に手を振り、駅へと向かう。今日はもう家に帰ろう。たまには体を動かすのも良いかもしれない。

 取り留めの無いことを考えながら歩いていると、俺の手を誰かが掴んだ。


「待って」


 振り返らない。だって、もういいだろう。これ以上一緒にいる理由なんて無いんだ。


「……会わせてあげる」


 躊躇いがちにアヤコが言う。


「何の話だよ」


 それから、また沈黙。手は握られたまま、道行く人が俺達を見ている。恥ずかしい。


「……ブンって人……多分、私のお姉ちゃん」


 お姉ちゃん? ああなるほど、だからこいつ、あいつとそっくりなのか。

 そうか、だからか。


 うん、なるほど!


「……はぁっ!?」


 人目もはばからず、馬鹿みたいな大きな声を出す。詳しく調べようとしなかった俺も悪かったかもしれないが、ともかく、大事なことなので先に言って欲しかった。




 吊り革に掴まりながら、外の景色を眺めている。このバスの行き先を俺は知らない。知っているのはアヤコだけだ。横目で彼女の顔を見る。よく似ているよ、本当。


「実を言うとね、私お姉ちゃんのこと良く憶えてないんだ」


 俺達の話の中心は、ブンについてだった。ただ、お互いの知っているブンという人間には食い違う部分がいくつもあった。


「一緒に住んでいるんじゃないのか?」

「小学校の一年生までは一緒だったよ。それまではさ、お姉ちゃんは元気だったんだ……それからは、ずっと病院」


 諦めたように彼女が笑う。つまり、ブンという人間はまだ生きてはいるが、ずっと病院で入院生活を送っているという事らしい。


「……わかんないな」

「何が?」

「そもそも、あいつが普通の人間だっていうのがさ」


 生き霊とアヤコが言ったのは、こういう事だったのだろう。生きている人間が、いるはずのない場所に現われる。だけどやっぱり、生き霊という言葉は違う気がする。あいつは、神様だから。自称だろうが偽物だろうが、俺にとってはそういう存在なのだ。


「何それ?」

「だってよ、あいつ出会ってすぐにこう行ったんだぞ? 私は神様だ、ってよ」


 クスクスとアヤコは笑った。きっと、彼女が知っているブンにも、こんなフザけた所があるんだろう。


「その時は、変な奴だとしか思わなかったけどな」


 バスは速度を緩めずに、まっすぐな道を進んでいく。予備校も駅も、随分遠く離れていた。




 夕方の病院は驚くほど静かだった。街の喧騒は届かない、山あいの大きな病院。人がいない訳じゃない。忙しくエレベーターに乗り込む医師、お喋りに興じる受付係、昔のことを語り合う老人達。


 人は沢山いる。それなのに、生きている人間の感触がどこにも無かった。どこへ行っても跳ね返ってくるのは、寂しさと虚無感だけ。長い廊下や、広い待合室のせいなのか。俺には、その理由など知る由もない。


 アヤコの後を、ゆっくりと付いて行った。途中、彼女は看護婦や医師に何度か挨拶をされた。図らずも、この場所で彼女は有名になってしまったのだろう。

 俺達はその場所に着くと立ち止まった。


藤代文子。入り口に掛けられた表札にはこう書いてある。


「藤代……ブン子」

「ふみこ、だよ」


 それが、彼女の本当の名前だった。


「ここ?」

「うん」


 静かなこの病院の中でも、この場所は一際静かな場所だった。

 扉に手をかけ、ゆっくりと開ける。


「……お邪魔します」


 そしてそこに、彼女はいた。

 白く、大きなベッド。半分ほど体を起こして……違う、起きているのはそのベッドだ。彼女は何もしていない。ただ、生気のない顔で、何も無い壁を見つめている。


「お姉ちゃん、友達が来てくれたよ」


 アヤコの声は、慣れた物だった。返事は来ない、ただ静かなだけ。何回? 何百回? 彼女はこんな虚しいことを繰り返してきたのか。

 ベッドのそばに置かれた、パイプ椅子に腰を掛ける。


「ブン……」


 彼女の名前を、呼んだ。返事は来ない。何も無い壁をただ見つめて、動かない。

 そこにいるのは彼女だった。だけど、少し違う。

 髪は長く、肌は白い。小さなその腕は、触れれば壊れてしまいそうなほど、細かった。


「なぁ、アヤコ」


 彼女のその手に触れてみる。壊さないよう、汚さないよう優しく静かに。


「何?」


 冷たかった。体温なんて、どこにもない。俺を殴り飛ばしてくれたあの手が、ここにあるのに。


「ずっと、こうなのか?」


 彼女は、今ここにいるのに。


「うん……手術に失敗してから、十年間ずーっと」

「そっか」

「うん」


 ブンは、どこにもいなかった。


「俺の知ってる、こいつはさ」


 どうして? これが彼女なんだ、ブンなんだ。たった数日の出来事なのに、クズみたいな俺の側にいてくれた、たった一人の友達。


「うるさくって、口を開けば俺に悪口ばっかりで」


 ひどい事を、言われてきた。思えば最初から、ロクな言葉を口にしていない。


「平気で俺のことぶん殴って、ひどい時は蹴られて」


 すぐ暴力を振るってきた。意識が飛ぶほど、殴られたこともあったな。


「だけど」


 それが、暖かかったから。嬉しかったんだ、何よりも。


「元気で……優しい奴なんだよ」


 俺は、泣いていた。悲しいから? 怖いから? わからない、俺には何も。

「あの……これ」


 俺の肩を、アヤコが叩く。彼女の手には何か、小さな物があった。


「手術の前に、お姉ちゃんが大事そうに持っていたんだって」


 覚えていた。辛うじてそれは、俺の記憶の片隅にあった。


「何だか、わかる?」


 ボロボロになった、折り紙の手裏剣。作ったのは俺だ。投げつけたのは、ブンにだった。


「俺だ」


 鶴なんて、どうしていいかわからなくて、それで結局、こんな物しかできなくて。


「俺が、作ったんだ」


 学校を去る彼女に、精一杯投げつけたそれだ。


 どうして、忘れていたのか。こんなありふれた思い出を、大切な友達のことを。

 こいつの名前を呼び間違えて、皆が、ブンなんて変な名前で呼ぶようになったのは、俺のせいなのに。


 こいつはもう、何年も昔から、俺の友達だったのに。


 何で、忘れていたんだ。大切な思い出を、彼女のことを。

 何でもっと、そばに居てやれなかったのか。時間なんて山ほどあったんだ。慣れない制服を着て、新しい学校に通うようになってからは、俺はいつも一人だったのに。


 こんな場所で、たった一人でいるこいつに、何で会いに行かなかったのか。


「和夫……」


 アヤコの声は、優しかった。それが、辛かった。


 責めて欲しかった。どうして、もっとと。

 罵って欲しかった。最低、最悪だと。


 それは叶わない。ブンと同じで、彼女も底抜けに優しいから。


 クズだ、俺は。


 たった一人の友達は、ずっと昔に出会っていたのに。

 肝心のあいつだけが、あの声が、笑顔が。


「何でだよ……」


 ここには無い。


「何で、笑ってくれないんだよ……」


 もう、どこにも無いんだ。

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