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過ぎた日はまだこの胸に 後編




 小学生の平均的な下校時間に合わせて、小学校の近くで待ち伏せする。俺達が待っているのは香奈枝ちゃんだ。黒髪ロング、清楚、車椅子という悪魔の三点セットを備えた偶然の産物だ。とてもあの組長の娘とは思えない。きっと嫁さんに似たんだろう……神様という奴はいい事をしてくれるものだ。


「ところで俺のやってる事ってまるっきりストーカーじゃないか?」


 どこで間違えたのか、俺はこのままだと用務員さんに通報されかねないレベルの行動をしていたのだった。


「しかも相手は可愛い小学生、か」

「だろ? かわいいよな!?」


 そう、香奈枝ちゃんは可愛い。それも他の女の子なんて比べ物にならないぐらい。だから俺の正義はここにあるのだ!


 一際大きなため息が、俺の耳に届いた。


「やばい、一人になったぞ」


 監視……じゃなくて見張っていた香奈枝ちゃんの一団が、それぞれの帰路へと就こうとする。


「よしクズ夫、なんとか声かけてこい」


 なんと無茶な命令なのだろう。第一印象によっては即通報だ。


「え、なんて言えばいい!?」

「自分で……」


 そう言うとブンは大きく息を吸い込んで、力を溜めた。


「考えろ!」


 ブンの足は、俺の背中を力強く押してくれた。いや、押してくれたなんて生易しいものじゃない。蹴り飛ばしたのだ。

 電柱の裏に隠れていた俺に気がついた香奈枝ちゃんが、不審者を見る目で俺を見る。


「そこのお嬢さん」

「……あなた、誰ですか」


 よし、なんとか会話は成立した。あとは何か、何か一言思いつけばそれでいい。なんて言えばいい? あなたのお父さんに頼まれた……それは駄目だ、きっと彼女のプライドを傷つけることになる。


 そうだ、俺は知っている。こんな唐突すぎる、それでいて無茶苦茶な事の始まりを知っている。あの時は俺が言われる立場だった。


 だけど違う、今度は俺の番なんだ。


「神様だ!」


 香奈枝ちゃんは、事態を飲み込めないのか小首を傾げた。でもまぁ、なんとか通報は免れたようだ。

 電柱の裏からゲラゲラと笑い声が聞こえた気がしたけれど、やっぱり聞こえなかった事にした。




 きょとん、という擬音が良く似合う。そんな目で、香奈枝ちゃんは俺を見つめていた。


「それで……神様は何をしに来たんですか?」

「き……」


 あまりの純真さについ『君のお父さんに頼まれて……』と本当の事を言いそうになるが、我慢だ。


「企業秘密だ」


 口から出まかせとはまさにこの事、『き』で始まる都合のいい言葉があってくれて助かった。そうか、神様は企業に所属していたのか。俺も初めて知ったよ。


「はぁ、神様ってサラリーマンだったんですね。私知りませんでした」

「そうそう聞いて? 俺の上司なんてもう我の強い女でさ、すぐ人の事殴るんだよ。しかもさ、人が一生懸命頑張ろうとしてる時に限ってだよ? ダメだよ香奈枝ちゃん、あんな女にいてえっ!」


 ケツが痛い。振り返るとそこには俺の上司が笑顔で立っていた。間違いない、ローキックだ。俺にはわかる。


「だ、大丈夫ですか!?」


 この世にロクな神様はいない事を、俺は重々承知していた。だけど、天使はいた。心配そうな顔でこんな俺に声をかけてくれる香奈枝ちゃんは間違いなく神様よりも優しかった。


「大丈夫、その優しさだけで俺は救われた」

「お前、なかなかキモいな」


 俺を蔑む言葉は聞こえない。もう神様なんて目に入らないぜ。


「フッ……」


 髪をかきあげ恰好をつけてみる。冷静に考えれば俺は気持ち悪い事この上なかっただろう。だけど、せめて無垢な少女の前ではいい大人でいたいものだ。


「でも、どうして神様が私の所に……あっ」


 何かに気づいたのか、香奈枝ちゃんは目を丸くして驚いた。


「もしかして、私の病気を治してくれるの!?」


 まっすぐと、俺の目を見て彼女は言った。きっとそれは、彼女が心の底から望んでいる願いなのだろう。あまりにも純粋だった。何の疑問も持たずに、見ず知らずの俺に尋ねるその姿が。


「……ごめん、それは俺には出来ないんだ」


 嘘はつけなかった。そうだよ、なんて言えなかった。

 俺はもう二度と、彼女のような目を出来ないんだろう。人を喜ばせる事よりも自分の心を傷つけない事を選んだ俺には。


「そっか……違うんだ……」

 だけど。


「あーでもでも、俺は香奈枝ちゃんの為に来たって事だけは信じてくれるかい!?」


 出来る事はある筈だ。純粋じゃない、弱虫のクズだからこそできる事が。そんな事が、一つぐらいあったって良いじゃないか。


「はい、ふつつかものですがよろしくお願いします」


 香奈枝ちゃんは車椅子に腰をかけたまま、小さな頭を精一杯下げる。

 心臓に電撃が走る。俺は見たのだ、本物の天使というものを。


「……なんてこった! この世界にはまだ、こんなに性格の良い子が残っていたのか!」


 俺は頭を抱えて地面をのたうちまわった。生きていることを、心の底から喜んだ。ほとんどの女は、性格が歪むものだと思っていた。年齢を重ね、恋愛を経験して、ハメを外し、『あの頃は私は馬鹿だった』などとやる前から解り切っていることを自信満々に言う生き物だと思っていた。


 そう、彼女は全人類の希望だった。同志よ、ここにいるぞ! 俺達の女神はここにいたんだ!


「どうしたんですか神様?」

「なんでもない、なんでもないんだ……」


 地面に転がりながら、俺は泣いた。あふれる感情を抑える術を俺は知らなかった。


「そうだ香奈枝ちゃん、行ってみたい場所とか、やってみたい事とかって無いかい?」

「うーん……あ、ありました!」


 立ち上がり、体中についた埃を払い落す。そして自信満々に俺は言った。


「よし、お兄ちゃんが」


 どんな言葉よりも早く、飛んで来たのはブンのローキックだった。


「……神様が連れってって上げよう!」


 尻を押さえながらそんな事を言う俺の姿は、クズの二文字が良く似合っていたに違いない。




 小学校から徒歩30分、俺達は目的の場所についた。彼女の要望でここに来たのだが、俺には一抹の不満を隠せないでいたのだ。

 ちなみにブンはいない。折角なので小学校の近くを見て回るなどと言い残して戦線を離脱した。もしかしてあいつ、俺よりヤバい趣味を持っているんじゃないのだろうか。


「本当にここでいいの?」

「はい! ここに一度行ってみたかったんです!」


 目を輝かせて喜ぶその姿は、この場所とはあまりにも対照的だった。

そう、ここはゲームセンター。俺が足しげく通っている心のオアシスだ。しかも置いているゲームが音ゲーと格ゲーばかりで、家族向けのUFOキャッチャーやプリクラなんかは端の方にある程度だ……最近はアーケードゲームが下火のせいか日に日に勢力を増してるように思えなくもないけれど。


「でも、なんでここ?」

「私、体が弱いから良く病院に行くんですけど」


 楽しそうに辺りをキョロキョロ見回しながら、香奈枝ちゃんは喋り続ける。


「その時によく話し相手になってくれるお姉さんがいるんです。近くの進学校に通っていて、すっごく頭がいいんですよ!?」

「へぇ……」


 きっと彼女はそのお姉さんの事を慕っているのだろう。じゃないと、こんなに笑って喋る事なんてできない筈だ。きっと美人で優しい人なんだろう、と勝手に想像してみる。


「そのお姉さんが言うんです、『最近はコンボゲーばっかりで楽しくない』とか、『3フレームとかあり得ないよね? 普通なら4フレだよね?』って」

「ずいぶんディープなお姉さんだな……」


 残念ながら俺の中のお姉さん像は一新された。多分眼鏡をかけてて使用キャラは絶対に美系の男だ。間違いない俺の直感はそう言ってる。


「かくげー、っていうのを一回やってみたかったんです! 私の家、テレビゲームってないんですよ? 遅れてますよね、今どき」


 自虐っぽく香奈枝ちゃんはそう言うが、その言葉はただ俺の心を安らかにするだけだった。


 かわいい。俺の全細胞がそう告げている。


「いや、いいと思うよ、うん、すごく」


 香奈枝ちゃんのお目当てのゲームの筺体……俺が総額いくらつぎ込んだのかわからないそれの前に来ると、1プレイ50円と書かれたコイン投入口をまじまじと見つめた。


「ふむふむ……ここにお金を入れるんですね」

「あ、ちょっと待って」


 財布の中から小銭を取り出そう。


「大丈夫です……私だってそれぐらい持ってますよ」


 俺がそうするよりも早く彼女は自前の可愛らしい小銭入れを取り出していた。そして何のためらいもなく50円玉を投入した。

 スタートボタンを代わりに押してやると、オープニングムービーが一転してキャラクター選択画面に変わる。映し出される十人十色のキャラクターたち。俺はもう見飽きてしまったものだったけれど、香奈枝ちゃんには新鮮だったようだ。


「うーん、どれにしようかな……」


 レバーを小さく動かしながら、うんうんと彼女は悩んでいた。しかし彼女は気づいていない、知らないのだ……キャラクター選択には制限時間がある事を。

 このままでは、香奈枝ちゃんの記念すべき初めての格闘ゲームの使用キャラがパンツ一丁の小汚いオッサンになってしまう。それは、困る。主に俺が。


「こいつなんて良いと思うよ。初心者向けのキャラだけど、使いこんだら結構強いんだよね。特に空中強キックの性能が良くてさ、発生早い割に牽制にも使えるから飛び込んできた相手を落とすのに丁度いいんだ。といっても対空技に注意しないといけないんだけど……」


 お勧めのキャラを指さしながら、俺はわかりやすい説明を試みた。


「あの、日本語でお願いします……」


 どうやら俺が無意識のうちに喋っていた言葉は宇宙語だったらしい。


「……こいつにしよう!」

「なんだか、ずいぶん露出の多い女の子ですね……それに私より年下みたい……」


 見た目は、まぁ、うん。大きなお友達向けのデザインですね、ハイ、わかってます。


「強いんだ」


 だがここで引く俺では無い。


「そうなんですか」


 香奈枝ちゃんの口調が心なしか冷たい。だけど俺は諦めるわけにはいかない。


「すっごく強いんだぞ! 全国大会五位の奴だって使ってるんだぞぅ!?」


 今、ロリキャラ使いの女子小学生格闘ゲーマーが生まれようとしているのだ。この際、俺が生き恥をさらしてゴリ押ししたところで何か問題があるというわけではないのだ!


「が、がんばります……」


 俺の熱意は通じたのだ。ひきつった笑顔で、香奈枝ちゃんは俺のお気に入りのキャラを選択してくれた。

 今、美少女小学生格闘ゲーマーが生まれたのだ! ……などと感慨に浸っている余裕はなかった。コンピューターがコマンドを覚える暇さえ与えずに襲いかかってくる。


「最初の方は弱いから、とりあえず適当に動かしてみなよ」

「ハイ!」


 元気のいい掛け声とともに、勝負の幕は上がった。


「おりゃっ……うりゃっ!」


 香奈枝ちゃんはろくに方向も決めずにレバーをガチャガチャと動かし、パンチとキックを何の考えもなしに繰り出す。その動作は丸っきり格闘ゲームをやったことのない素人のそれだったけれど、楽しそうな彼女の笑顔がそんな些細な事を帳消しにした。


「よしいいぞ、そこだ!」


 稚拙な彼女の操作を、自分以上に応援してしまう。俺なら10秒も掛からないで倒せる相手を、香奈枝ちゃんは制限時間など気にせずに少しずつ、少しずつ敵にダメージを与えて行った。


 大音量で響く、小汚いおっさんキャラの悲鳴。


「やった、勝ちましたよ!」


 両手を広げて香奈枝ちゃんが喜ぶ。すかさずここでハイタッチ。


「おめでとう!」


 ねぎらいの言葉も忘れずに。


「あ、ありがとうございます!」

「ホラ、つぎつぎ」


 今度の敵は、俺の宿敵、というかこのゲームやってる人みんなの敵だぞ美少年キャラ。メーカー側が新しい客層を取り込みたいのがデザインから見え透いており、体力火力スピードどれを取ってもゲーム内最強を誇る。もっとも、CPUじゃ大して強くないけれど。


「ねぇねぇ、プリクラ取らない?」


 ゲームの音にまぎれて、女の人の声が聞こえてきた。声の主を確かめてみれば、その一団には少しだけ見覚えがあった。校門まで香奈枝ちゃんと一緒にいた、女子の集団だった。


 香奈枝ちゃんは彼女たちに気づかず必死に必殺技のコマンドを覚えようとしている。


「ココ新しいの入ったんだっけ? 色々できるんだよね確か」


 なんで。初めに思いついた単語はそれだった。


 なんで、香奈枝ちゃんが誘われていないのか。生まれた単語が纏まった言葉になった時、その奥にある残酷さを理解した。


「そうそう、それでさ」


 何事もなかったかのように、世間話をする彼女たち。


『友達なんかじゃない、心配なんかしてない。ただ、誰かに同情してる自分が好きなんだよ』


 不意に思いだしたブンの言葉の重さが、今になって圧し掛かって来た。


「あの、私どうすれば……」


 迫りくる敵の猛攻に、ただガードすることしかできない香奈枝ちゃんが潤んだ瞳で俺に助けを求めてきた。


「あ、ここでこのコマンドをね……」


 違う。今俺がすべき事は、そんな人間関係に踏み込む事じゃない。


「えぇ? 私、こんな複雑な事できませんよ!」

「君ならできる! 才能がある!」


 今はただ、彼女が笑えるように、必死におどけるだけだった。




 YOU LOSE。画面にはそう書いてある。


「負けちゃった……」


 ため息交じりの香奈枝ちゃんの声に、悔しさはどこにも無かった。あるのはただ、満足感と充足感。


「負けちゃったね、でも誰もが通る道なんだよ。君は今走り始めたんだ……終わりのない格ゲー道を!」

「ハ、ハイ!」


 彼女は笑う。それで良かった。ただの浪人生が神様の名前を騙って得たものにしては十分すぎる成果だった。


「それじゃあそろそろ……」

「あ、はい! 楽しかったです!」


 車椅子のハンドルを掴み、ゲームセンター備え付きの椅子を元に戻す。時刻はもう三時半、学校帰りの中高生が大挙してくる時間になっていた。これ以上長居しない方がいいと俺は思ったし、香奈枝ちゃんは俺の気持ちを理解してくれた。


 彼女は底抜けに優しかった。

 けれど、世の中が彼女のように優しい人ばかりじゃない。そんな当たり前の事を知るのに、時間は必要なかった。


「ねね、そう言えばさ。最近あの子調子に乗ってるよねー」


 香奈枝ちゃんの小さな肩が震える。俺達の耳に届いたその声を、彼女は良く知っていた。俺は今すぐこの場から離れるべきだ。自分以外の皆が同じ場所で遊んでいたという事実は、もう十分彼女を傷つけていた。


「香奈枝ちゃんでしょ? わかるわかる、なんかさー動作の一つ一つがわざとらしいんだよね」


 俺には解らない。あんなに楽しそうに笑っていたのに。


「あー本当、本当そう! この間も落ちたハンカチ拾ったら、『ありがとう、ごめんね私、迷惑だよね』とか言うのね。なんかさ……イライラするよね」


 ブンの言った通り、俺の眼は何も見えていなかった。


「そーそー、ママが優しくしなさいって言うからそうしてるだけなのに、本当、お前の事なんてどうも思ってないっつーの」


 そんな理由で、そんな事を考えながら、友達の真似を続けていたのか。

 やり切れない。香奈枝ちゃんはどうなるんだ? そんな事を続けて行けば、いつかは必ず綻びが出る。その時に彼女は、何をすれば救われるんだ?


 わかっている。今自分が、あの子供たちを怒鳴りつけても何一つ変わらないという事を。それは、香奈枝ちゃんに優しくしろと言った誰かの母親と同じになってしまうという事を。


 悲しかった。悔しかった。自分がもう、ただの大人になっていた事が。


「ねね、次あれやらない? ホラあの変な人が必死にやってるやつ!」

「いいね、いこいこ!」


 向こうは俺達の……香奈枝ちゃんの存在に気が付かずに賑やかな体感ゲームコーナーへと向かって行った。


「香奈枝ちゃん……」


 彼女の名前を呼ぶ。小さな肩はガタガタと震え、しゃっくりと鼻水をするる音が聞こえる。


「か……帰り……ましょう」


 消えてしまいそうな小さな声で、彼女は確かにそう言った。

 頷くことしか、できなかった。




 そのまま香奈枝ちゃんの家に帰る気にはなれなかった。それは彼女も同じようで、俺の向かおうとする方向に何ひとつ文句を言おうとしなかった。もっとも、彼女は自分の事で精いっぱいなのだろう。


「あの、さ」


 ブンに会おう。きっと彼女は、まだこの小学校の近くにいる。初めからあいつにはわかっていたんだ。友達というものと、優しさというものが。


「俺さ、昔っから友達なんていなくてさ……ずーっと一人でいたんだ」


 足りない頭を回転させて、言葉を探す。なんでもいい、今の彼女を勇気づけられるのなら。


 何もない。一つも思いつきやしない。


「だからその……ごめん。わからないんだ、君の気持ちが」


 情けない。何もできない自分自身が。


「悪くないんです、神様は……私が、私が……こうだから……」


 彼女はひたすら自分を責める。握り拳を震わせ、涙を流しながら。痛々しいその姿に、俺の出来る事は何一つない。

 神様、という言葉が胸に刺さる。違うんだ。俺は、そんなんじゃない、ただのクズ野郎なんだ。


「俺は、神様なんかじゃ」


 俺の肩を誰かが叩く。振り返らなくても解っていた。


「おい和夫」


 そこにいたのはブンだった。誰よりも早く香奈枝ちゃんの異変に気付いた、俺よりも立派な神様。


「あのなぁ、お前今の今まで」


 思いつめた顔で、彼女は深くため息をついた。そして、その右手を大きく振り上げた。


「少し……体借りるぞ」


 謝罪の言葉も躊躇いの言葉もなく、振り下ろされる彼女の拳。

 口から洩れる、情けない悲鳴。理不尽だって、俺は思うさ。

だけどまぁ、こいつにだって何か考えがあっての事なんだろう。

後は、お前に任せるよ。


 白く霞んでいく世界の中で、俺達はそんな下らない約束を交わした。




 §




 首が痛い。すこし思い切りが良すぎたかなと、立ちくらみしながら思う。


「あの、大丈夫ですか?」


 心配そうな香奈枝の声が聞こえる。フラフラとバランスを取りながら、指が一本ずつ動くかを確認してみる。大丈夫だ、動くようだ。


「ああ」


 頬をなぞる、柔らかい風。耳の奥で響く、住宅街の雑踏。いつもそこにあった、オレンジ色の夕日。

 心に染み込んでいく何もかもが、懐かしい物ばかりだった。


「あの……神様、ですよね?」


 しかし、今の私は昔の記憶に浸っている場合では無い。あいつに痛い思いをさせてまで借りた物だ、何も成果が上げられませんでしたでは合わせる顔が無くなってしまう。


「しかも、本物の方だ」


 和夫は、偽物を名乗るにしても出来が悪かった。上手くやる事も嘘をつく事もできなかったからだ。


「本物……?」


 だからあいつは、あいつが出来る精一杯の事をやったんだ。神様としてじゃなく、ただ一人の人間として。


「細かい事はいいんだよ」


 泣いているこの少女にかける言葉を、あいつは見つけられなかった。思い出せなかったんだ。

 そうだ和夫、お前は思い出せないんだ。いつか、誰かにかけた優しい言葉を。


「おい、香奈枝」

「は、はい」


 香奈枝の顔に手を伸ばし、頬を優しくつねる。面白い顔だったので、つい笑ってしまう。


「……いふぁいれふ」


 痛いです。そう言っているのは、何となくわかる。


「良い事だよ」

「そ、そうれふか?」

「そうだよ、多分。テレビドラマかなんかで言ってたよ」


 大丈夫。

 大丈夫だ。

 私はまだ、覚えているから。差しのべられた手の暖かさを。あの時の言葉の優しさを。


「泣いていてもさ……変わらないんだ、何も」


 彼女の頬から手を放す。まだ、涙は流れているけど、きっとすぐに乾いてくれる。


「笑おうよ、香奈枝。辛くても、嫌なことばかりでもさ」


 笑おう。これから良い事が何一つ起きなくたって、誰もが自分を馬鹿にしたって。

 それだけが、無力な自分にできるたった一つの反抗だから。


「でき……ません……」


 首を振って、できないと香奈枝が言う。


「勿体無いなぁ」


 大丈夫、君は笑える。


「香奈枝は、笑った顔が一番可愛いのにさ」


 何も持たない、か弱いその笑顔は、何よりも素晴らしいから。きっと誰かがやって来て、その笑顔を称えてくれるから。

 それなら私が、その誰かになればいい。私はもう、神様だから。こんなことぐらい、喜んでやって見せるよ。


「ホラ、できるじゃないか」


 まだ涙は流れていて、顔もくしゃくしゃのままだけれど、そこにあったのは笑顔だった。





 §





 記憶がない。それもあのブンに殴られてから今朝目が醒めるまでの間。家族の話によると、夕方辺りに帰ってきて『疲れたから寝る』とだけ言い残してそのまま起きてこなかった、らしい。というわけで、原因はブンにある。


 そう言う訳で、俺は予備校などには目もくれずにブンと初めて出会った場所に向かい、誰もいなかったのでコーラを飲んで待っていた。今度のコーラは、きちんと自販機の中から出てきた行儀の良い奴だ。


「よっ、クズ夫」


 ジーパンのポケットに片手を突っ込みながら、機嫌の良さそうなブンが手を振りながら歩いてきた。折角授業を抜けてまで来たんだから、もう少しぐらい申し訳なさそうな顔をして欲しいものだ。


「あれから何があったんだ? というかお前……俺に何しやがった!」


 胸倉をつかみ怒鳴りかかる。奴の顔に唾がついたって気にしない。そう、俺は紳士だから。俺の唾をありがたく受け取るがいいさ!


「まぁまぁそう怒るなよ……そうだ、なんなら結果を見に行くか? 香奈枝ちゃんのさ」


 袖で唾を拭いながら、ブンが喋る。


「何だよ結果って」


 泣き止まなかった彼女がどうにかなったのかは、気になる事ではあった。というか、昨日ブンが俺に何をしたかよりも重要な事だ。


「ついて来いよ……きっと上手くいってるさ」


 早足で歩きだすブンの背中に小走りで追いかける。ブンが香奈枝ちゃんに何をしたかも、俺の知らない範疇の出来事だ。だけど、口笛を吹きながら往来を進むその背中は、どんな言葉よりも信用できた。




「こことももうお別れか……名残惜しいなぁ」


 ありがとう電柱、昨日は俺達の体を隠してくれて。君のその大きな体のおかげで俺はたくさんの子供たちの笑顔を見守る事が出来たんだ。


「ま、趣味の範疇で通われると困るしな」


 下校時間よりは少し遅いせいか、帰宅する子供の姿はまばらになっている。もしかすると、もう彼女は家へ帰ってしまったかも知れない。そんな不安が頭をよぎる。


「お、来たぞ」


 ブンの声に誘われ、校門の辺りを覗いてみる。俺の不安は、大したことでは無かった。


 車椅子が進んでいく。ゆっくり、ゆっくりと。速度なんて関係なかった。どうでもいいのだ、二人には。

 香奈枝ちゃんの背中を、誰かが押していた。赤いランドセルを背負って、一歩ずつ確かに歩いて行く。

 二人は笑っていた。声を上げて、楽しそうに。俺でもわかる。同情も憐憫もそこにはない。


 ただの、友達なんだと。


「へぇー」


 結果は十分過ぎた。俺が一発ぶん殴られただけにしては、十分すぎる結末だった。


「……な?」


 したり顔でブンがそう言う。普段なら腹が立つはずのその顔も、今はそう悪くない。どれもこれも、香奈枝ちゃんとあの女の子のおかげだ。


「あの子……絶対に良いお嫁さんになるぜ」

「それは……どっちの事だ?」


 どっち? まったくこいつは、馬鹿でもわかる事を聞いてくるな。


「決まってるだろ、両方さ」

「そうかもしれない、な」


 背筋を伸ばし、歩く向きを変える。本当にこの場所とはお別れだ。だけど、今はもう名残惜しくはない。俺のやるべき事は終わったから。


「ところで何ポイント? 今回ので」

「え、ああ」


 顎に指を当て、うんうんと頭を捻るブン。また訳のわからない計算式が繰り広げられているのだろう。しかしまぁ、最後のところではどんぶり勘定になるんだろうけど。


「うーん、1万とんで50ポイント!」


 とは言っても、最初の10ポイントなんてどうでもいいぐらいのポイントが一気に入ってしまったのだ、やったね! ……まぁ、大学に入学できるポイントまでにはまだまだポイントは足りないけれど。


「うわ、切れが悪いな」

「そっか、お前7ポイントとかがいいんだな。そうだよなーラッキーセブンって言うもんなー」

「あ、ウソウソ1万と50ポイントが欲しいです!」

「素直じゃないなぁ、和夫は」


 二人で笑いながら、小学校を後にする。




 一つだけ、気がついた事がある。

 俺の横にいるのは、俺にとって初めてとも言える、友達だった。

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