過ぎた日はまだこの胸に 前編
五月六日、今日はありがたい事に平日だった。平日というのは良いものだ、と俺は思う。なぜ、というのは愚問である……特に、駅前に通っている予備校がある俺みたいな奴にとっては。駅前というのは、いつだって休日の家族と恋人の行楽地だ。皆自分が世界一幸せだと言わんばかりの笑顔で街を歩き、ウィンドウショッピングやデパートのおもちゃ売り場に繰り出すのだ。
家族連れはまだいい、俺たちみたいな人間とは行動する場所がそもそも違うからだ。問題はそう、カップルだ。奴らは平気な顔をして、遊び半分で俺達の居場所を占有する。奴らの会話はこうだ。
「俺、小学生の頃クラスで一番格ゲー上手かったんだぜ? ホラ見せてやるよ!」
彼氏、たまたま空いている格闘ゲームに50円玉を入れる。そして始まるCPU戦。当然何もしてこないコンピューターに彼氏は連勝する。
「キャー、たっくん(仮名)かっこいい!」
それを見て、彼女が楽しそうにはしゃぐ。
と、ここで誰かがプレイしている事に気づいた常連客(俺)が向かいの席に座り乱入する。
「だろ? ハン、挑戦者とか……五秒で倒してやるよ!」
「がんばれ、たっくん(仮名)!」
常連客(俺)、たっくん(仮名)を十秒で倒す。
「ちょ……ふざけんなよ今のハメだろハメ技!」
「もう行こうたっくん(仮名)! あんな友達もいなさそうな奴にムキになることなんてないよ! だってたっくん(仮名)には私がついているんだよ!」
彼女、常連客(俺)に対して酷い暴言を吐く。
「そうだな……こんなゲームに夢中になるなんてどうかしてたよ俺……今はお前に夢中さ」
「たっくん(仮名)……」
めでたしめでたし。
おおざっぱに言うと、休日のゲームセンターはこんな感じである。まったく、画面の端でひたすら飛び道具ばかり撃ってる人間が格闘ゲームで勝とうなんて考えること自体がおこがましいのだ。それに可哀想なことに常連客(俺)はこの後延々と弱すぎるCPUと戦い感動のエンディングを見る事になる。乱入客はこのまま現れる事はなかった。
話が逸れた、平日の話である。そう、午前中に予備校の授業を難なく寝て過ごした今日の俺にとって、質の高いゲーマーと格闘ゲームで対戦する事は俺にとって最高の娯楽なのだ。休日のゲームセンターには変な奴が湧いてしまうから嫌なのだ。
今日の俺は調子が良かった。お気に入りのキャラクターで、得意の戦法で、乱入してくる猛者を退け早五連勝。負ける気が、しない。六人目の挑戦者を超必殺技で格好良く倒したところで、俺はそう思った。
焼そば見たいな天然パーマの眼鏡君が、ブツブツと文句を言いながら席を立つ。眼鏡君、そんな露出度の高い女キャラクターで見栄えのいいコンボばかりをやっていても勝てないよ、と俺は言おうと思ったけど、将来的にこいつに負けるのは嫌だな、と思い直し俺は再びCPUをサンドバックにする作業に戻った。
それからしばらくして、また新たな乱入者が現れた。かかってこい、と心の中で意気揚々と呟く。しかし、俺のテンションはすぐに下がった。
理由は簡単だ……対戦相手が選んだのが、このゲームの中でも最強のキャラクターだったからだ。勝てる訳がない……ゲームが解らない人にわかりやすく説明すると、適当にレバーをガチャガチャして適当にボタンを押しているだけで勝てるようなキャラクターである。実際にそういう訳では無いのだけれど、こう表現しても差し支えないぐらいに性能がいいのだ。
試合開始。俺は突っ込む。
試合終了。俺は負けた。
話にならない。超美形キャラは能力まで超性能というもはや非の打ち所が無い完璧超人と化していた。次回作では是非バランスの調整をお願いしたい。
「やってらんねぇ……」
溜息をつきながら、立ち上がる。今度はクレーンゲームでもやって暇を潰そう、かわいい熊のぬいぐるみでも取ったら、姉さんにでも上げよう。だけどその前にやる事がある。対戦相手の顔を見るという、大事な仕事だ。
対戦相手の格好が、この場所のこの時間帯には珍しい恰好だった。女性で、しかも短い髪を後ろで縛っている、なんて事は問題じゃない。重要なのはその服装だ。俺が去年まで通っていた高校の、見慣れたセーラー服。リボンの色は青なので、俺の二つ年下という事になる。進学校なので、少なくとも毎日六時間目ぐらいはある筈なんだが……。
「何?」
あんまりジロジロ見過ぎていたのか、彼女が俺の存在に気づく。手始めに、彼女は睨むような冷たい視線と素気ない言葉をプレゼントしてくれた。
「え、いや」
学校サボってるのか、この不良め! ……などと小心者、じゃなくて紳士の俺が言える訳がないので、必然的に挙動不審になってしまう。それから、俺は頭を掻いたりポケットを探ったりして何を言うべきかを考えた。不良女子高生はその間、俺の顔から片時も目を離そうとしない。
「……そのキャラ、ずるくない?」
結局俺が指摘できたのは、格闘ゲームのキャラクターについてだった。
「あんたの実力不足よ」
返って来たのは、冷笑と貶しの言葉だった。どうやら性格の方が素敵な具合にねじまがっているらしい。
「あぁそう」
溜息が洩れる。最近の不良っていうのは、別にロングスカートでもなければ竹刀も持っていないらしい。そうだ、こんな女に俺は用などない。女といえば、あの自称神様女は今日も元気に道行く人に紙芝居でも見せているのだろうか。足元に置いた空き缶に五百円でも入っていれば俺も心配しなくて済むのにな。
女? 女……。あぁ、そういえば。
「なあお前」
気になる事が一つ、頭の中に浮かんだ。別に確かめたって俺が得する訳じゃないけれど、気になるものは仕方がない。
「何、ナンパ? 最悪、私ゲームしに来ただけなのに」
俺に対して不平不満を述べる不良女子高生。人を小馬鹿にしたようなその表情も、煩いゲームセンターの中でさえよく通るその声も、確かに似ていた。ホームレスによく似た、自称神様のあの女に。
「あー、違う……お前さ、姉とか妹っていないか? 知ってる人に似て」
「あんたには、関係ないでしょ」
突然、彼女が俺の言葉を遮る。その目は、先ほどまでとは比べられないほど厳しいものに変わっていた。
「……ハイ」
人を寄せ付けようとさえしないその態度に、俺は頷く以外何もできなかった。不良らしく舌打ちをした彼女は、キャラクターが元気よく動いてるゲーム機を放置してそのまま出口へ向かって言った。
「おっかねぇなあ……最近の子供はわからん」
出口を抜け、駅前の雑踏に混じっていく彼女を見ながら、俺は年寄りみたいな事を一人呟いていた。
急に手持無沙汰になった俺は、何か他に時間が潰せそうな物が無いか辺りを見回した。格闘ゲームをまたやる気にはなれなかった。
そうだ、クレーンゲームをやろう。そう思い立ち、財布の中を確認する。都合よく百円玉が三枚ほど残っていた。
「よぉクズ夫! なんだ、今日も予備校サボってゲーム」
「うおおおおびっくりしたあああ!?」
突然背後から誰かの声がしたので、俺はゲロを吐くんじゃないかというぐらい驚いた。ついでに呼吸も荒くなって、顔中を冷汗が埋め尽くしていく。せわしなく振り返れば、そこには自称神様女が立っていた。
「そんなに驚くなよ」
深呼吸を何度かして肺の機能を正常に戻す。おまけにおでこについた冷汗をシャツの襟で格好良く拭ってみる。これで何とか、俺のメンツは守られた。
「何やってるんだ、お前」
呆れた声で、女が言う。
「いや、今お前に似た奴がいたんだけど……女子高生でさ、知らない?」
俺はシャツの襟を正しながら、素朴な疑問を聞いてみた。
「ナンパの文句にしては最悪だと思うぞ……」
女の表情は変わらない。他人の空似とはよく言うものだ、と俺は一人感心した。
「あ、違うぞ。別にやらしい事を目的とした訳じゃないぞ」
冷静になった俺は、俺がナンパをしていたという架空の事実を訂正しようと試みた。
「そうか」
「そうだ」
それからしばらく、時間にしては数秒だろうが、二人の間に舞い降りた沈黙は、バカンス中のフランス人のよう優雅に、長い間そこにあった。
「そういえば、今日はTシャツだな」
耐えきれなくなり、無難な話を女に振る。
「暑いからな」
女が暑そうにTシャツの襟をつかみ軽く仰ぐ。
俺は気づいた。気づいてしまったのだ。
「……無いな」
彼女の年齢は幾つぐらいだろうか。肩まで伸びた髪の毛、すこし痩せたその体、身長は俺の鼻ぐらい。外見だけで判断すれば、きっと俺と同じぐらいの年齢だろう。
問題なく人生を進んでいれば女子大生である。スケベなビデオのラベルに書いてあれば、成人男性がまず間違いなくニヤついてしまう女子大生という単語を背負った彼女は、あろうことか、無いのだ。
「何が?」
「紳士である俺がそれを指摘する事は許されない。そんな不作法な事をすればイギリスの女王様に殺されてしまう。だけど、一つだけ言っておく……俺は貧乳派だ」
そして女は、勢いよく自分の胸を隠した。
「あぁ……」
顔を赤くしながら、邪悪な笑みを女が浮かべる。どうやら納得してくれたようだ。特に、最後の言葉はきっと生涯彼女に希望の光を与えるだろう。世の中にはこんな自分でも愛してくれる人がいるのだと、心に支えを持ってこれからの人生を生きて行くだろう。ただ、ついでに言うと俺の場合はもう少しぐらい、具体的に言うと身長150センチ辺りがベストだ。
「何のフォローだそれは!」
殴られました。
「まあ、行くか」
「どこに?」
頭をさすりながら出た言葉は、妙に間の抜けたものになっていた。
「お前なぁ……まだ世界二位なんだぞ」
人助け、か。しかも今回は仕込みなしだから自力で困っている人を探さなければならない。それは想像しただけで大変だ。
「でもいいじゃん独裁国家行かないんだし。あ、ほらあのクマのぬいぐるみは取れそうだな、三百円でいけるんじゃないかな」
手近にあるクレーンゲームを指さす。クマの縫ぐるみが『僕を貰ってよ紳士のお兄ちゃん!』といわんばかりのつぶらな瞳で見つめてくる。
「ハイハイ、そんなことしてる暇はないからな」
女は俺のYシャツの襟を強引に掴み、そのままどこかへ引張って行った。
夏、じゃない。まだ五月だ。だというのに、ビルの上で爛々と輝く太陽とどこまでも続くコンクリートロードから放たれる放射熱。さらにエアコンの室外機の熱風が加わり、俺達が腰を下した靴屋が近い歩道は笑えない暑さになっていた。
「あつい……」
「夏も近いからな」
暑い。ついでに恥ずかしい。
『困っている人助けます』
こんな事が書いている紙を持っていて恥ずかしくない人間がいるだろうか。
「クーラーとか無いのか」
「道端に落ちてる訳ないだろ」
それもそうだ。どうやら暑さのせいで思考回路がやられてしまったらしい。
「せめて、さ」
空を見上げ、太陽を睨む。五月です、まだ仕事しなくてもいいんです。そんなことを言っても太陽は相変わらず空に浮いていた。
「冷たいコーラが飲みたいよな……」
太陽を見つめ、暑さを恨む。こんな日に飲みたいのは、キンキンに冷えた缶コーラ。プルタブを力いっぱい押しこみ、炭酸の抜ける景気のいい音を鳴らせる。勢い良くコーラをノドに押し込めば、後からくる盛大なげっぷ。夏の日にこれ以上の贅沢はない。
そして俺の願いは、神に通じてしまった。
見える。
太陽を背に、降ってくる何か。俺はその正体を知っている。そう、コーラだ。
――奇跡だった。
間違いなく、神の起こした尋常ならざる事態。空かが飲み物が降ってくるなんて、CMでさえそう簡単にはお目にかかる事はできない。
缶コーラはそのまま地球の重力に引かれ加速していく。気がつけば、俺は両手を広げ空を仰いでいた。それはまるで、神の恵みを望む、敬虔な聖職者のようだった。
だけど神に、情など無かった。
缶コーラが着地したのは、俺の二メートル先の歩道だった。缶のひしゃげる金属音が人通りの少ない道に響く。アルミ缶はアスファルトの硬さに耐えきれなかったのだ。
道路にコーラの染みが広がっていく。アスファルトを侵食していく黒い液体は小さな気泡をいくつも持っていた。
「……何ポイント?」
奇跡には対価が支払われる事を、俺はもう知っていた。だから、俺は恐る恐る女に尋ねる。
「3ポイント」
よかった、後7ポイントも残ってる。違う、問題はそこじゃない。俺はようじょ……楽して大学に合格する為に人助けという煩わしい事をしているんだ。折角貯めたポイントをこんなゴミに支払った事が問題なんだ。
「3ポイント」
女は繰り返して言う。暑さのせいか、何ともやる気のない声だった。
「わかってるよ」
わかっているさ、それぐらいは。しかしこれからは注意しなければならない。迂闊にあれが欲しいこれが欲しいと言ってしまえば、容赦なく空から舞い降りて地上のゴミとなってしまうのかもしれないのだ。
「今度から、手渡しで貰う事って出来ないの? ソーセージの時みたいにさ」
「あれはチュートリアル用のアイテムだからな……実際に飲み物を手渡し、なんて何ポイントかかるやら」
相変わらず自称神様は適当だった。ジュース一本の値段さえ碌に覚えてないらしい。
「知らないのか?」
「待て計算してみる」
鼻の先を軽く掻きながら、女はなにやら暗算を始めた。その答えは20秒ほどして返ってきた。
「大体……120ポイントぐらいか」
120? 120といえばあれだ、あの銀行押し入りソーセージ事件を12回繰り返してようやく手に入るポイントだ。
「……インフレしてない?」
多い。それはもう昨日まで10円で買えた駄菓子が今日から250円になりますってぐらい多い。もはや詐欺の領域だろ、何だよ10ポイントって全く役に立たないじゃないか。
「欲しい物が欲しかったら、大体一円一ポイントで計算すればあってるぞ」
「ちなみに、大学に入学ってどれぐらい?」
「入りたい大学の偏差値にもよるけど……そうだな、一番簡単な医学部だったら五百万ポイントぐらいか」
五百万ポイント。桁が違うとはまさにこの事。
「7ポイントか」
一円を一ポイントと置き換えたら、7という数字はあまりにも少なすぎた。幼稚園児の小銭入れの中身よりも少ない。7円だ。駄菓子すら買えない。
「そうだな」
墜落した缶コーラを眺めながら俺達はただうなだれた。青い缶から流れ出ていた黒い液体はすっかり蒸発して単なる染みになっていた。世界中で売られているコーラだが、きっとその中の何パーセントはこんな風に無残にも打ち捨てられているのだろう。ちょうど今の俺みたいに、誰にも必要とされないまま一生あんな風に。
悲しくなってきた。そうだ、今日はもう帰ろう。
「帰るわ」
立ち上がり、シャツの袖で軽く汗を拭く。それから、打ち捨てられた空き缶を拾い上げた。こいつはせめてコンビニのゴミ箱に捨ててやろう、そうすればきっと来世で電化製品の一部にだってなれるさ。
「なあ、兄ちゃん」
駅に向かって帰ろうとしたその時、背後から誰かの声が聞こえた。それがひどくドスの利いた低い声だったので、俺は妙に気遅れしながら振り返った。
立っていたのは、チンピラヤクザだった。薄いグレーのスーツに、紫色の開襟シャツ。首元には金色のネックレスが輝いている。髪はライオンのたてがみのようで立派だった。
「は、はい」
もっとも俺には彼のファッションセンスを褒める余裕などなく、震えた声でうなずくことしかできなかった。
「この辺でコーラ見なかったか? アレ組長のだから無くすとヤバいんだけど……」
チンピラの目に留まる、空の缶。地面に激突したせいで今でもひしゃげている。
「兄ちゃん、若い割にはいい度胸してるじゃねぇか……人の組のモンに手を出したらどうなるか解ってるんだろうな?」
「いや、これ空から降って来て……」
俺は必死に弁解した。正確に言えば、弁解しようとした。だけど、それは百戦錬磨のヤクザの眼光によって封じ込められた。
「ナンデモナイデス」
「おぅおぅ……しかもちゃんと書いてるじゃねぇか、『困ってる人助けます』ってよお。いい心がけだな、俺さ、超困ってるんだよな! それとも……なんだ嘘か? 嘘書いてんのか? おい聞いてんのかよ」
俺が手に持っていたフリップを指さしチンピラは語気を強める。
「チガイマス、ウソジャナイデスヨ」
帰りたい、そう思うのが遅かった。もう少し早くそうしていれば、こんなタイミングのいい面倒事に巻き込まれずには済んだ筈だったのに。
「よっしゃ、ついてこい兄ちゃん」
「ハイ、ワカリマシタ」
機械みたいに従順な口調で俺は答える。
「頑張れよクズ夫、危なくなったら見学に行くからな、見学」
なんとも頼りのない言葉に背中を押され、俺は震える膝でヤクザの後を追いかけた。