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どこにでもある毎日




 五月、正直に言ってあまり良い季節ではない。理由は山ほどある――まあ、気温が良いのは認める。ただ、新しい生活になれるのは正直に言って大変だ。五月というのは、みんなが新しい環境に慣れて、昔のことを少しずつ忘れたり思い出したりする季節だ。


 高校時代の友人と別れるのは、正直に言って悲しかった。みんなが別々の進路に進み、自分の周りを取り囲む新しい面々。彼らが、新しい友人達が嫌いなわけじゃない。むしろ、これからを一緒に歩いていく仲間として心強く思える。


 よし、本題に入ろう。ダラダラ語るのは、いつだって誰かを退屈にさせる。それぐらいは俺も知っている。


 だから、本題は。


「お、き、ろ! おー、きー、ろー!」


 言いたいことが言えない。頭の中の思考が無理矢理中断させれる。


 喧しい声が聞こえる。ついでに体を襲う激痛。俺を起こしに来た誰かが、思い切り俺を蹴り飛ばしているらしい。布団がなければ骨折してたぜ。


「……綾子か」


 目を開けて、彼女の顔を見る。そこにいたのは綾子だった。


「おはよう、カズ兄ちゃん」


 こいつの家族とは古い付き合いで、俺が中学の頃に空き家となっていた横の家に引っ越してきた。もともとあいつとは知り合いだったので、余計に質が悪い。特に姉さんが妙に懐かれていて、引越してきたあの日以来姉に甘やかされたことは一度もない。


「……おやすみ」


 無遠慮にも程がある。人が寝ているのに、勝手に部屋に侵入して部屋の主をさんざんと蹴り飛ばすのだ。


「あ、ちょっと!」


 俺は再び布団を装備し、二度寝の準備に取り掛かった。当然のように、鋭い蹴りが飛んできた。

「バカ、蹴るな! いいかお前……昨日俺はな、何かよく知らないけど全身筋肉痛の上に山の中にいたんだぞ? 終電なかったから歩いてここまで帰ってきたんだぞ!?」


 そう、大変だったのだ。なぜか俺は誰もいない寂しい場所でひとり眠りこけていたのだ。その上、徒歩による自宅までの帰宅。今でも足がまともに動くような気はしない。


「いや、私そういうの知らないし」

「あ、そう」


 どうでもいいんですね、あなたには。


「うん」

「……今日は、大学サボるか」


 やってられない。何が悲しくて全身筋肉痛の体が蹴られ続けなければならないんだ。


「あ、ちょっと! お姉ちゃんから伝言頼まれてるんだから!」


 お姉ちゃん、という単語に反応する。この名前が出た時に、ろくな事はまずない。


「伝言? 何それ」


 そう聞くと、彼女は制服のスカートのポケットから一枚のメモ用紙を取り出しそれを読み上げ始めた。


「えーと、読みます。『どうせ暇なんだから来い。あと、今日の一限だけど、お前はもう三回休んだから無理だ、単位は諦めろ』だってさ」


 うん、嫌だ。


「……布団が俺を呼んでいる!」

「呼んでない、さっさと起きろ!」


 背中が痛い。畜生、俺の人生はどこで間違えたんだ。




 家を出て、電車に乗り、駅の近くを気の向くままに歩く。行く先は知らない。それが考え事をする頭には調度良かった。


五月、あまり好きな季節じゃない。理由は簡単、俺の人生において、昔から何一つ変わらないものが、すぐそこにあるって気付かされるからだ。


「やあやあみなさん、ちょっとそこのあんた、あんただよ!」


 駅から少し外れた路地を、誰かに呼び止められる。その女は、まるでホームレスみたいにボロボロのコートを着て、何やら紙芝居を始めようとしていた。


「俺?」


 俺はこの女に心の底から同情した。ご丁寧に、空き缶が小脇に置いてある。そりゃ同情もするさ。

 この女、人に悪戯する為だけに、こんな面倒なことをやるのだから。


「そうそう、そこの小粋な兄ちゃ」

「何やってんだよ、ブン」


 そこにいるのは、幼なじみのブンだった。声で最初からわかっていた。


「……徹夜で考えたんだぞ、これ」


 つまらなそうにコートを脱ぎ、紙芝居を早々に畳む。たかがこれだけのために、この女は俺を呼びだしたっていうのか。


「暇なやつ」


 彼女の横に腰を掛ける。小声でひたすら文句をつぶやく彼女の姿は、正直に言ってみっともなかった。


「んで、何やってんだよお前は」

「そうそう、ちょっと思いついた事があってな」


 勿体ぶったようにブンが言う。どうせ碌でも無い事だ、知ってるよそれぐらい。


「……何?」

「じゃん!」


 紙芝居のような物は、よく見ると違った。絵の代わりに大きな字が書いてあるからだ。


「『困っている人助けます』……なんだこれ」


 気になって裏を見てみると、そこにはクレヨンで書かれた俺の似顔絵があった。うん、似てない。


「文字通り、助けるんだよ」

「何で?」


 聞き返しても、すぐに返事は帰ってこない。


「何となく、そうしようと思って」


 空を見上げながら、彼女は笑顔でそう言った。


「ふーん」


 俺には解らなかった。彼女の意図が、考えが。まあ、いつも通りの事ではあるけど。


「まあ、低俗で下衆でスケベなウジ虫クズ夫くんには? ちょーっと私の考えは理解出来ないかな」


 頷きながら、上から目線で話を進めるブン。


「随分と偉そうだな……」

「と、いうわけで」


 ブンは鞄の中から真四角の厚紙を取り出し、空に掲げた。子供の頃に貰った、ラジオ体操のカードによく似ていた。


「じゃん! 秘密兵器その2!」

「なんだそれ」


 訳が解らない。無茶苦茶なんだよ、いつだってこいつは。


「ポイントカードだ」

「はぁ」


 もう、気の利いた言葉を返す余裕は無かった。


「和夫が手伝ってくれる度に、私の気分でポイントを贈呈しよう」

「何の役に立つんだよ」

「100ポイントで、授業の代返をしてやる」


 おお、意外と実用的だ。人助けすればするほど学校をサボれるんだな俺は。


「他には?」

「1000ポイントで肩もみ、3000ポイントでレポートの代筆」


 ただ問題はある。何をすれば何ポイント貰えるのかが明示されていないこと。こいつの気分によって1ポイントだったり5000ポイントだったりするんだろう。


「割に合わなさそうだな……」


 だから、やる気はない。こんな面倒臭いことを誰が進んでやるものか。


「んで、見事100万ポイント貯めたら」

「貯めたら?」


 彼女が笑う。顔を真赤にして、だけど幸せそうな顔をして。


「……結婚、してあげる」


 そんな夢みたいなことを、言い始めた。


 空を、眺める。狭く、代わり映えしない青空がどこまでも続いていた。


「バーカ」


 彼女の頭を思い切り叩く。いつも意地悪をして、からかって。そんな事を今日も繰り返す。


「痛っ! な、殴ることないだろ!?」


 必死に抗議する彼女の声を、俺はもう聞いちゃいない。


「それで」


 俺達は、とにかく出来が悪い。出来すぎな物なんて何処にもなくて、一言相手に伝えるために、こんなまどろっこしい事をして。暇を見ては文句を言って、悪あがきを繰り返す。


「それで俺は、何をしたらいいんだ?」


 だけど、だから。


 いつかは、最高の結末に辿りつけるんだ。




 少なくとも、俺はそう思っている。

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