大浴場
日が沈んだ頃に、僕とヴァルキリアはニンヒの街にたどり着いた。ここは、ボン伯爵領最大の都市だ。街の中の道路は石畳で舗装されている。僕自身、ここには数回ほどしか来たことがない。
夜になっても家々や店などからは明かりがこぼれている。どこから陽気な笑い声も聴こえる。さすが伯爵領最大の都市だ。
さて、とりあえずは宿を探さないと。僕とヴァルキリアはクーから降りて歩くことにした。
賑やかな繁華街から少し離れると、静かな通りに着いた。看板を見るに宿屋の通りらしい。僕とヴァルキリアはそこから適当に一件を決め、中に入った。
「いらっしゃいませ」
やはり街の宿だからだろうか、見た目はヴァルキリアと同じくらいの若い女性が出迎えて来た。
「2人で、あと、馬がいるのですが…」
「かしこまりました。馬は裏まで私が連れて行きますのでここで少しお待ちください」
女性が外に出て行く。
「ふぅーっ!」
僕は背を伸ばした。ずっと座っていたので疲れていた。お尻も痛い。
「今日は疲れましたね」
ヴァルキリアもそうだったようだ。でも、途中で寝ていたけどね…。だが、幸せそうなので僕は彼女を起こせなかった。
そうしているうちに受付の女性が戻ってきた。
「こちらが鍵です。部屋は2階になります」
女性は鍵を渡して来た。
「大浴場はご利用になられますか?」
女性の言葉に僕は心が踊った。
「大浴場があるのですか?」
お湯に浸かるなんて貴族でもない限りあまり機会がない。普段は3日に1度ほどに水を絞ったタオルで体を拭く程度だ。
「ええ。街の中心に」
「行きます」
僕はヴァルキリアの答えを聞く前に答えた。その後にヴァルキリアを見ると、目があった彼女は微笑んだ。どうやらいいらしい。
「では、これを」
受付の女性は木の札のようなものを手渡してくる。説明を聞くと、これがあれば大浴場でお金を支払わなくてもいいそうだ。お金はまとめて明日の朝にここで払えばいいらしい。なんて便利なシステムだろう。僕は少しばかり感動してしまった。
僕たちはそのまま大浴場に向かうことにした。特に荷物もなかったからだ。
街の中心は広場になっていた。夜だというのに人通りは多い。
大浴場の建物を見つけた。煙突からは湯気が出ている。
建物の中は魔法のランプがたくさんあり、明るい。入り口で木の札を出す。どうやら中は男性と女性で分かれているようだ。なんだか、少し淋しい。これまでずっとヴァルキリアと一緒にいたからだろうか。ドキドキしなくて済むという意味では良かったのかもしれないが。欲を言えば、ヴァルキリアと一緒にお湯に浸かってみたかった。多分、彼女なら、夫婦ですので、とか言って一緒に入りそうだ。
「残念です…」
ヴァルキリアは残念そうに唇を噛んでいる。僕も残念だよ、とヴァルキリアに言うと少しいつものニコニコとした顔に戻った。
「では、あとでですね…」
僕たちは石鹸のセットを買った後、それぞれの方に別れた。ヴァルキリアはまだ未練が残っているようだが。
男性用の方に入ると、裸の男たちがたくさんいた。ものすごい熱気だ。
服などは、カゴに入れて預けるらしい。僕は服を脱いでカゴに入れ、預ける場所に持っていく。預け場のおじさんから木の腕輪のようなものを渡される。番号が書いてある。これでどれかを判断するようだ。
浴室の扉を開けると、モワッとした熱い空気の壁が襲いかかって来た。中は、大きな浴槽がある。浴槽の外では頭や身体を洗っている人がいる。桶に水を入れて、それで身体を洗った石鹸を流しているようだ。
ひとまず、お湯に入る。とても温かい。快適だ。お湯は膝より少し高いくらいの深さで、中で座ると肩あたりまでお湯に浸かれた。身体中の疲れがお湯に溶けていくようだ。
しばらくお湯に浸かってから、僕は身体を洗うことにした。石鹸のセットには、頭を洗うようの物と、身体を洗うようの物がある。女性用には、髪を綺麗にするためのよくわからないもう一つの物があったが、それで同じ値段というのは不公正ではないだろうか。
そんなことを考えながら僕は身体、そして頭を洗った。頭の脂と身体の垢が取れたようでスッキリだ。
そして、その後に僕はもう1度お湯に浸かることにした。次にいつ入れるかわからないからだ。
お湯に浸かって、くつろいでいると、今まで3日ほどのことを思い出した。
突然訪ねて来た美女。僕の妻だと言われた時は心底驚いた。不思議と今はそれをほとんど信じてしまっているのだが。やっぱり、夢のせいだろうか?
僕は夢の中ではよく戦っているところを見た。もちろんそれ以外もある。女性たちと草原でサンドイッチを食べていたこともある。だが、顔は思い出せなかった。ヴァルキリアと出会うまでは。今ではハッキリとわかる。全員、僕の好みの人だ。しかし、美人すぎて本当に僕の妻なのかと疑いたくもなる。そして、今まで僕は夢のことを忘れてしまうことが多かった。戦闘の場面は何度も見ているから覚えていただけだろう。今後も、ヴァルキリアと同じように僕の妻だという人たちに会えば、他の記憶も思い出してゆうのだろうか?その人たちのためにも、僕は記憶を取り戻したい。僕だけが覚えてないというのは相手にも可哀想だ。そして、ヴァルキリアのクマの人形を見た時のように、特別な物を見た時にも思い出すのだろうか。
すべてはわからないことだらけだ。僕はなにをして記憶をなくしたのか。以前の僕はどうだったのだろうか。なぜ、神に戦いを挑んだのか。僕は、本当に彼女たちの夫のマルクスなのだろうか…。
モヤモヤとした不安、疑問などが溢れてくる。僕は頭までお湯に沈んで、思考をリセットさせた。少しばかり入りすぎたようだ。そろそろあがったろうがいいだろうか。そう思って、僕はお湯から上がることにした。
着替えも済ませ、外に出ると、ヴァルキリアは僕のことを待っていた。どうやら僕は遅かったようだ。申し訳なく思う。
「待たせてごめんね」
「いいんですよ」
ヴァルキリアの笑顔に僕の心は少し救われた。ヴァルキリアの髪は濡れていてなんだか色っぽさ感じる。大人な女性という感じだ。通り過ぎる男達もヴァルキリアを見たりしている。なんだか少しモヤッとしたものを感じる。
僕たちは帰路に着いた。
「ねえ、ヴァルキリア」
「どうしました?」
僕には気になることがあった。
「どうして、みんな君の目を見ても驚かないの?」
そう、これまでヴァルキリアは誰にも恐れられていない。夢、記憶の中の彼女は目のことで迫害されていたはずだ。最初は暗いからわからなかったのか、などと思っていたが、明るいところでも大丈夫なようなので僕の考えは間違っているようだ。聞いていいことなのか迷っていたのだが、好奇心が優った。
「あなたが、魔法をかけてくれたのですよ」
「魔法…?」
「そうです。あなたはとても偉大な魔法使いだったんですよ。魔導師よりも優れていたとか」
魔導師は歴代でも3人もいない伝説級の魔法使い達だ。そんな人たちよりも優れていたのだろうか?
「他の人には、赤い目はわからないんです」
どうやら、偽装する魔法らしい。
「どうやったんだろう…」
魔法については知識があまりない。戦闘については夢の中のことがあるのでいくらか、こういうものがあるみたいだ程度ではわかっていたが
「んーとですねー…」
ヴァルキリアは僕の唇にキスをした。
「こうしたんです」
僕は、なにが起きたのかしばらく理解することが出来なかった。
「え?な、なにしてるのっ!?」
「キスです」
ヴァルキリアはニコニコと微笑みながら言う。いやいや、それはわかるのだが…。
「なにかありましたか?」
ヴァルキリアが僕の顔を覗き込んでくる。僕の耳が熱くなっていくのがわかる。
別に一緒に寝ていたじゃないか。そうは思っても、僕にとってはファーストキスだったのだ。なぜだか気が動転してしまう。まあ、ファーストキスではないかもしれないのだけれど。ヴァルキリアの言うことが本当なら僕は以前にもしていたのだし。大体、6人も妻がいてなにもしていないわけがないだろうけど。
「キ、キス…」
「キスですか?」
なにを思ったのか、ヴァルキリアはもう1度キスをして来た。ヴァルキリアの唇はとても柔らかく、暖かかった。
「ふふっ。夫婦なんだから当たり前ですよ」
どうやらヴァルキリアは僕の気がが動転しているのに気付いていたようだ。策士だろうか?彼女の言うことは間違っていないのだけれど…。それでも僕にとっては心の整理がつくのには時間が足りなかった。
ぼけっとしている僕の手をヴァルキリアは掴んだ。
「宿に戻りましょう」
手を引かれ、僕はヴァルキリアと共に宿へと戻って行った。
朝、僕はヴァルキリアの胸の中に抱かれながら馬に揺られている。寝不足である。昨日のキスの件以降、僕は彼女に対してどう接すればいいかわからなくなっていた。彼女は僕に優しくしてくれるのだが。
疲れていた僕は目を閉じた。
「マルクスくん…。マルクスくん…。」
体をゆすられた僕は目を開けた。空は灰色で、雷が鳴っている。
「僕は、どれくらい寝ていたんだい?」
「30分ほどですよ」
黒い髪をした女性が僕の頭を自分の太ももの上に乗せているようだ。とても柔らかく寝心地がいい。
黒い髪?なんだろうかこの人は?そんな僕の疑問とは関係なく、僕は話す。
「そろそろ、家に帰らないとな。いつ奴らが襲ってくるかもわからないし」
そうして女性の頭を撫でる。
「まあ、どんな奴が来ようと、僕が君のことを守るんだけどね」
女性は顔を赤くした。
「ひ、卑怯です!」
そうして頬を膨らませた。
そうして、僕たちは帰路に着く。
「顔によだれがついていますよ」
彼女の手が光り、丸い鏡が作られる。そこに写っていた顔は…。
僕自身だった。
僕は言葉を失った。それでも、僕は話を続けている。
「ごめんごめん。かっこ悪いね」
僕は服の袖で口元を拭いた。
そこで、目の前は真っ暗になった。
「あなた。起きてください」
甘い香りが僕の肺一杯に広がってゆくのがわかる。目を開けると、ヴァルキリアが僕の顔を覗き込んでいた。馬に乗ったまま僕を抱きかかえていたので、僕の目の前にはヴァルキリアの胸がある。ヴァルキリアはその奥から僕のことを覗き込んでいた。
「今日の宿に着きましたよ」
僕はヴァルキリアに手伝ってもらい、馬を降りた。ずっと眠っていたからだろうか、フラフラとする。ヴァルキリアは僕の手を掴んでくれた。
それとは裏腹に、僕の思考は冴え渡っていた。さっきまでの夢の内容がハッキリと浮かんでいる。あの女性は?あの場所は?あの僕は?
そして、僕はどうして夢の中で自分の意思を持っていたんだ?
そう、今までの夢では、ただ起こっていることを眺めていただけであった。それについて考えられるのは、目が覚めてからであった。だが、今回は違う。外面的な自分と内側の自分が分離しているように、考えていても勝手に行動が進んで行った。
わからないことだらけであった。
ただ、あれは僕自身だった。何故だかそれだけは確信が持てた。
僕は、ヴァルキリアに手を引かれて、宿の中へと入って行った。
あれから、3日が経った。僕は今、舗装された街道の上を馬に乗って進んでいる。ヴァルキリアは僕の胸の中に寄りかかって眠っている。
そろそろヴェルダルの街に着くはずだ。その証拠に、街道の脇にはちらほらと商店や民家が現れている。人の通りも多くなった。僕たちのように馬に乗っている人もいれば、馬車に乗っている人もいる。歩いている旅人のような人々も多くなった。
ついに着くのか、僕は少し胸が熱くなった。短いようで長かった旅が終わる。ヴァルキリアとの旅は楽しかった。初対面であるはずなのに、今ではもう、長年付き添っている間柄のようだと自分でも思ってしまう。実際、そうなのかもしれないが。
あの夢、黒髪の女性が出て来てから、僕はもう、ヴァルキリアの言うことを疑わなくなっていた。あの夢は僕の記憶なのかもしれない、と。
まだ、心の何処かでは、信じようとしない自分がいるのも確かなのだけど。こんな短時間ですべてを理解できるわけがなかった。
だから、僕は他の妻、5人を探すことにした。知りたくなったのだ。今までは、夢の話だと思っていたことを。
そのためにも、ヴェルダルの街である。魔法学園、果たしてどのようなところなのだろうか?
僕がお爺さんから聞いた話である。
ヴェルダルの街は、ミランド公国でも3本の指に入る大都市だ。ここ、トリエステ領の領主は代々魔法学園の校長が兼任している。
そして、この都市の最大の特徴は、税が免除される自由都市だということだ。元々は、外国との、魔法書、魔法器を取引するためのものだったが、今では、商会や両替商、宝石商など、数多くの商人が住む、商人の街でもある。
では、この街がどうして成り立っているのかといえば、それは寄付だ。商人、魔法使い、たくさんの人がこの街に寄付をする。理由は様々だろうが、みんなこの街を良くしたいと思っているのは同じだ。
そして、郊外には公国軍の魔法大隊が駐屯している城があるので、犯罪が少ない。魔法大隊の操作から逃げ延びるには、同じくらいの実力がなければ難しいのだ。
ヴェルダルの街が見えてきた。高い、5階建てくらいの建物が立ち並んでいる。奥までずっとそれが続いていた。その街の大きさに、僕は唖然とする。自分が、こんなところに来るなど思ってもいなかった。
「うう…」
ヴァルキリアが起きたようだ。
「おはよう」
ヴァルキリアは眠そうに目をこすっている。
「おはようございます」
まだ寝ぼけているのだろう。眠そうな声だ。
「ヴェルダルに着いたよ」
僕はヴァルキリアに、そして、自分自身に言い聞かせるように言った。