第1章 麗しき射手(1)
突如、インターホンが鳴り響いた。狭い家の中に軽快なメロディーが流れる。
木造の古びたアパートには不釣合いな『エリーゼのために』のメロディーだ。
「阿倍野君! また寝坊してるんでしょ!!」
その少し後に、女の声が聞こえてきた。透き通った綺麗な声。
女子高生ほどの年齢、そう推測される。
どうやらドアの向こうに誰かが来ているらしい。
起きたばかりの家主の少年は寝ぼけ眼をこすりながら、鉄製の玄関ドアに取り付けられた覗き穴から声の主を確認しようと顔を近づけた。
夜の間に冷えたドアが頬に当たり、冷たさが衝撃となって皮膚、神経を経て脳を直撃する。
そのおかげで今まで少年を襲っていた眠気は一瞬にしてどこかへと吹き飛ばされた。
気を取り直して再び覗き穴を覗く。少年の目に飛び込んで来たのは、制服に身を包んだ少女の姿だった。
それを見て少年は慌てて返事をする。
「ご……ごめん、委員長。今日も寝坊しちゃったみたいで……」
少年は申し訳なさそうにボソリと呟いた。
今日も、という言葉から普段も同じような状況なのだろう。
「もうっ! さっさと着替えて出て来る!! そ・れ・に! いつも言ってるでしょ、名前で呼んでって。中野ほのかって名前がちゃんとあるんだから」
ドアを隔てて少年と会話している少女は、中野ほのかと名乗った。少年の言葉から察するに、少女はクラスの委員長を務めているようだ。
少年が部屋から出て来るのを待っている間に勉強でもするのだろうか、ほのかは手提げタイプの茶色い鞄から分厚い参考書を取り出した。
"必携 高校数学指南書"と青い表紙に黒い文字で書かれている。
ドアの右隣に鞄を置くとその右隣に座り込んで参考書のページを繰り、付箋を頼りに目的のページを開いた。
家主の少年、阿倍野晴也は釜村荘という名の、築30年の古びたアパートの302号室を借りて生活していた。
中学校卒業と同時に、現在通っている雷同高等学校に進学するために親元を離れて1人暮らしをすることとなり、この部屋を借りているのだ。
ちなみに、このアパートの各部屋には、トイレ・お風呂・キッチン・洗濯機・テレビ・エアコン・冷蔵庫などの必要最小限の物は備えられている。
この部屋の間取りは、玄関に入って右手側にキッチン、左手側に靴箱、そして同じ並びにトイレとお風呂も並んでいて、キッチンを通り抜けた先には6畳ほどの和室がある、といった感じだ。
ほのかが参考書に目を落としてから約五分後。鉄製の玄関ドアが開く音がした。
「待たせてごめん……」
謝罪の言葉とともに、制服に身を包んだ晴也が部屋からおずおずと出て来る。白い半袖のワイシャツとグレーのスラックス、それにネクタイを身につけて。
「やっと出てきた」
晴也の目に、ドアの側に座り込んだほのかの姿が飛び込んで来る。襟が丸みを帯びているのと、ボタンの配置が異なっていること以外は男子の物と同じワイシャツとグレーのスカート、リボンを身につけたほのかの姿が。
ほのかは晴也を確認すると参考書を鞄にしまってから立ち上がった。
「朝ごはんまだ食べてないんでしょ? オニギリ持って来たから食べる?」
「せっかくだから貰うよ」
ほのかは晴也の言葉を聞いて鞄の中からタッパーを取り出す。透明なタッパーで、中に大きいオニギリが2つ入っているのが見える。
ほのかはタッパーの蓋をとって晴也にオニギリを見せた。
「朝早くから頑張って作ったんだから味わって食べてよね。そうそう、海苔が巻いてあるのが梅干しで巻いてないのがおかかだからね」
そう言うほのかはどこか誇らしげだった。えっへん、という言葉が聞こえてきそうな、そんな感じだ。
晴也は迷わずに海苔の巻かれたオニギリ――つまり梅干し入りのオニギリ――を手に取ると、すかさず口に運ぶ。
海苔の膜が破かれ、米粒同士の結合が解かれ、口の中に梅干の酸味とほのかな甘みが広がる。
この味は……ハチミツ梅、だろうか。
「やっぱり梅干しから食べたか〜、私の予想通りだね!!」
ほのかの顔には満面の笑みが浮かべられている。それと一緒に頬もほんのりと赤く染まっている。
味の感想のかわりにニッコリと笑って返す。
「おかかも食べる? あ、でも……そろそろ時間だから歩きながら食べたら? ラップもあるし」
これまたほのかは鞄からラップを取り出すと、オニギリを包んで晴也に手渡す。
用意周到だな、と晴也は思う。
オニギリ然り、ラップ然り。
まるでどこかの猫型ロボットか、叩くとクッキーが出てくるポケットのようだ。
「魔法のポケットみたいだね……」
呆れているのか、感心しているのかわからないような口調で言葉を漏らした。
「備えあれば憂いなしって言うじゃない? だから、ね」
中野ほのか。彼女は晴也と同様、私立雷同高等学校に通う2年生だ。
そして、晴也と同じ2年3組に所属している。
彼女自身気づいてはいないが、多くの男子から好意を抱かれている。
端正な顔立ち、雪のように白い肌、清楚な雰囲気漂わせるセミロングの艶やかな黒髪。そのようなものが男子を惹きつけるのだろう。
ちなみに、1年の頃は多くの男子から言い寄られていたが、2年になってからはその回数がめっきり減っている。
恐らく、阿倍野晴也と中野ほのかが付き合っているという誤解からだろう。
そのようなこともあって、男子から阿倍野晴也へ妬み、羨望といった負のオーラが篭められた視線が注がれていることもあるのだが、晴也自身それに気づいているということはない。
晴也に対してここまでしてくれる中野ほのかであるが、晴也と幼馴染や恋人などといった特別な関係ではない。
つい4ヶ月ほど前に知り合ったばかりである。1年生のときはお互い違うクラスだったので面識もなかった。
それなのに、この状況なのは阿倍野晴也の寝坊癖が原因だ。
1年生の頃、晴也は寝坊癖のせいで遅刻することが多々あった。
無論、毎日遅刻していたわけではない。月に3、4回といった頻度だ。
その度に晴也の担任は頭を抱えていた。
そして、幸か不幸か。この教師は2年生でも晴也の担任となってしまったのである。
晴也の寝坊癖をどうにかしようと、担任がクラス委員長を務める中野ほのかに意見を求めたのだ。「どうすれば阿倍野晴也が遅刻しないですむのだろうか」と。
そこでほのかが提案したのが自分が毎朝晴也を家まで起こしに行く、というものであった。
そればかりか、最近は朝ご飯も届けているようだが。
幸いなことにほのかが起こしに来てくれるようになってから寝坊が原因で遅刻するということはなくなった。
言葉に出しはしないものの、それに関して晴也はほのかに感謝している。同時に、今のように多少面倒見が良すぎるのでは? とも思ってはいるが。
2人は釜村荘を後にすると、普段通学に使っている道路に出た。
この道路は軽自動車が対面ですれ違うのがやっとな程細い。だが、この道を車が走ることは稀なので、それほど問題視はされていない。
ここ、釜村荘から2人の通う雷同高校までは約十分程の道のりだ。
前述のとおり車の通行が少ないため、2人は横に並んで歩いている。
「そう言えば明後日、学校で模試があるんだっけ……」
ほのかが参考書を見ていたので思い出したのだろう。晴也はほのかに尋ねた。
「うん、明後日だよ。もしかして……勉強してなかったりするの?」
ほのかが訝しげに聞き返す。
「ううん……そうじゃないんだけどさ」
晴也が濁すように言ったためにほのかの心の中には疑念の心が生まれる。
「じゃあ、どういうことなの?」
ほのかの言葉からその心を察知したのか、取り繕うように晴也は弁解した。
「僕は委員長ほど頭良くないしさ……将来何になりたいかもよくわからない。そんなので模試を受けても意味があるのかなって」
横でほのかの艶やかな長い黒髪が上から下へ縦に揺れたのが晴也の目に留まった。
つまり、ウンウンと頷いているのだ。
「わかるよ、それ。私だってそんなに頭が良いワケでもないし、将来の夢もハッキリわからないもん」
「委員長……」
「だから、そんなことで悩んでちゃダメだからね!!」
そう言うとほのかは右手に持っていた鞄を両手で身体の前に持つと、晴也の方を向いてニッコリと微笑んだ。
「そうだね、ありがとう委員長」
「どういたしまして! そうだ、気分転換にオニギリ食べたら? まだ残ってたでしょ」
ほのかのその言葉でオニギリを持っていたことを思い出す。
晴也は鞄からラップに包まれたおかかオニギリを取り出すと、それを一気に頬張った。
おかかの味が口の中を制圧していく。
そうして歩いていると、いつのまにか大通りに出ていた。
学校に繋がる大通りだ。この辺りからは学生の姿が多く見受けられる。見知らぬ顔も、見知った顔も。
「よっ、お2人さん。今日も仲良く登校かい?」
後ろからよく聞き慣れた声が聞こえてきた。クラスメイトの男子、風間疾風の声だ。
晴也は反論しようと少し口を開いたが、それよりも先にほのかの声が聞こえてきた。
「やめてよ、風間君。阿倍野君と私はそんな仲じゃないんだから! 私はただ……先生に頼まれたから阿倍野君の家まで起こしに行ってあげてるの!!」
語尾に『!』が付いていてもおかしくないような感じで、多少感情的になりつつもほのかは風間の言葉を否定した。
それを聞いて晴也はホッと胸を撫で下ろす。ほのかが自分の言いたかったことを代弁してくれたからだ。
委員長と自分はそんな関係じゃない。自分に寝坊癖があるから起こしにきてくれているだけだ、という見解はどうやら晴也とほのかの間で一致していたらしい。
しかし、否定するときに感情的になるのはどうだろうか、と晴也は思う。
それじゃあまるで……
「そうだよね、阿倍野君?」
そんなことを考えているときにいきなり声をかけられた為に、「……へ?」などという腑抜けた返事になってしまう。
「どうしたの、阿倍野君? ボーッとして」
どうやら晴也がボーッとしていたように誤解されたらしい。誤解されたままというのも癪なので反論する。
「僕はボーッとなんてしてないよ。風間がいきなり変なこと言うから……」
咄嗟に後ろにいる風間に責任を転嫁する。
いきなり責任を転嫁された風間は驚いた素振りを見せつつこう言った。
「おいおい……俺のせいかよ? ま、いいや。俺、国語の課題出さないといけないから先に行くぜ」
そう言い残して風間は走り去ってしまった。走り去る風間の姿が晴也の目にはまるで風のように見えていた。
また、2人きりである。
「さすが、学年1の運動神経だよ」
晴也は、もう見えなくなった風間に向かって小さく呟いた。
「何か言った?」
晴也の呟きが聞こえたのか、ほのかが聞き返した。
「いいや、何も」
風間が2人と別れてからしばらく経った後だ。
「ねえ、阿倍野君……」
唐突にほのかが神妙な面持ちで隣にいる阿倍野晴也の名前を呼んだ。
普段とは違う声色。それ故にほのかの言葉に違和感を感じてしまう。
自分が模試のことを口にしたとき、ほのかも同じような気持ちだったのだろうという推測のもと、名前を呼び返す。
「どうしたの、中野さん?」
このとき晴也は無意識の内に、ほのかのことを苗字で呼んでいた。まったくの無意識の内に。
それに気づいたかどうか定かではないが、ほのかが続けるように言う。
「阿倍野君は私のこと……」
その言葉が境だった。隣を歩いていた筈のほのかの足音が聞こえなくなったのだ。
後ろを振り返ってみると、ほのかは街路樹の下で立ち止まっているではないか。
それを見てすぐに晴也は慌ててほのかのそばに駆け寄る。
途中、何かにつまずいて転けそうになったがなんとか体勢は持ち直した。
「どうかしたの?」
晴也は普段とは違うほのかの行動に疑問を抱きつつ、そう聞いた。
だが、ほのかからの返事は無い。
2人の間に静寂が訪れるが、それもすぐに破られた。
街路樹からアブラゼミの耳障りな鳴き声が聞こえてきたからだ。
それが聞こえ始めてから、再びほのかは言葉を紡いだ。「私のこと……どう思ってるの?」と。
俯き気味に言ったので、晴也からはほのかの表情が見えない。
それでも、声のトーンから明るい表情ではないと察せられる。
「どう思ってるのって……」
再びの静寂。2人の間に静かな時間が流れる。
それを破ったのはほのかの言葉だ。
「さっき私はああ言ったけど、阿倍野君はどう思っているの?」
ほのかは晴也により詳細に尋ねた。
先ほどの風間の言葉に何か思うところでもあったのだろう、それ故の質問と思われる。
「家まで起こしに来てくれてること?」
「そう、そのこと。もしかして、迷惑とか思ってない?」
ほのかは今まで俯かせていた顔を上げて、晴也の目を見つめる。
つぶらな瞳が晴也の瞳を射抜くように見つめる。
いきなり目を見つめられた晴也の胸はドキンと一度強く脈を打った。
それ以降、強く脈打つことはなかったが以前より脈拍が速いのが分かる。
「ど……どうして迷惑なんて思うんだよ。委員長のおかげで遅刻しなくなったし感謝してるよ。それに……」
少しどもりながらの返答となってしまった。だが、いきなり目を見つめられたのだから仕方ないだろう。
これ以上ほのかの瞳を見ていたら頭がおかしくなりそうだと思い、目を逸らそうとするが、ほのかの雪のように白い頬がそれを邪魔する。
晴也の視線はほのかの頬に移動したに留まった。
「それに?」
そう言いながら、ほのかは晴也との距離を詰めた。
そうすると、自然に2人の顔の距離も近くなるというものである。
晴也の気持ちとは裏腹に、否が応でもほのかの瞳が視野の中央へと迫ってくる。
「オ……オニギリも、お……美味しかったし」
またもやどもりながらの返答になる。
自分は悪くない。何故かこの様なことをしてくるほのかがいけないんだ、と思うことによって晴也の精神はなんとか保たれている状態だ。
「……良かった。迷惑じゃなかったんだね。風間君と話してる時さ、阿倍野君すぐに返事してくれないから怒ってるのかと思ったんだ。もしかして、私があまりにもお節介すぎたから」
「お節介なんてとんでもないよ。毎朝起こしにきてくれるのは嬉しいし……中野さんとなら誤解されても……」
晴也は思わず余計なことまで口走ったことに気づいて、手で口を押さえつける。
勿論、それで一度口から出した言葉が元に戻ることは無いのだが。
当然のようにほのかにもその言葉は聞こえていたワケで。
「えっ……!? ちょ……ちょっと晴也君!! じゃなかった……阿倍野君!! いきなり、な……何を……!」
晴也の言葉に動揺を隠せないほのかは口をパクパクさせながらそう言った。
隣を歩いて行く雷同高校の生徒にその様子を目撃されたりもしていたが、このような状態ではそれに気づきもしない。いや、できないだろう。
「な……なんでもないよ!! それより委員長、ちょっと落ち着こうよ」
晴也のその言葉で我に帰ったほのかは即座に頭の中を整理した。晴也の言ったこと、自分の言ったこと。そして、自分の取った行動を。
全ての整理が終わると、ほのかの頬は薄い桜色に染まっていた。
「うん、落ち着いた。落ち着いたよ、阿倍野君。いきなりあんなこと言うなんてビックリしたよ」
ほのかは最後のほうでほっぺたをぷぅと膨らませてそう言った。
素振り的には怒っているモーションだろうが、その様な感情は感じられない。
「ビックリしたのは僕のほうだよ。まさかあんなことを……」
「えへへ……でも、嬉しかったよ。その……私も……いや、やっぱりなんでも無い!」
ほのかの頬が桜色に染まっている。
そして、それをアクセントとして天使のような微笑みが浮かべられている。
「……そうだね。それじゃ、学校行こうか」
「うん!」
2人は再び学校へと向かって歩き始める。
2人の距離は僅かではあるが縮まっている。ほんの僅かだが。
こうして、阿倍野晴也の一日(日常)は始まりを迎えた。
だが、それと同時に長きにわたる戦いの日々(非日常)も始まりを迎えたのである。