第67話 帰り道の空で、もう次の判断が始まっていた
帰投の空は、行きより狭かった。
若い搭乗員はそう感じていた。
往路では、海はただ広く、空はただ冷たかった。
だが今は違う。
下にはまだ煙の柱がいくつも立ち、背後には黒い港が残っている。
前には味方機がいて、そのさらに向こうにはまだ母艦へ戻る長い空路がある。
なのに、空だけが妙に近い。
それはたぶん、自分の中に余計なものが増えたからだ。
投下の手応え。
対空砲火の火線。
上がってきた敵戦闘機の影。
浅くなった進入角。
古参に「浅い」と言われた声。
そういうものが、帰りの空を狭くしている。
無線が短く鳴る。
「編隊、乱すな」
「右後方、確認」
「深追いするな」
若い搭乗員は、肩の力を抜こうとして失敗した。
まだ抜けない。
抜けるわけがない。
真珠湾の上空を抜けたとはいえ、戦闘そのものが終わった感じがしないからだ。
ふと右上に機影が走った。
味方か、敵か、一瞬では分からない。
だが古参の機が先に少しだけ位置をずらし、そこへ被せるように入る。
それで若い搭乗員にも分かった。敵だ。
「来るぞ」
短い声。
若い搭乗員は思考より先に機体を傾けた。
曳光が後ろを抜ける。
距離は近くない。
だが、追われているという事実だけで腹の底が冷たくなる。
古参が一段高い位置から敵を牽制する。
若い搭乗員は、その隙に雲の縁へ逃げ込むように進路を変えた。
長い格闘ではない。
数秒か、長くても十数秒。
だが、その短さでも十分に体力を削る。
敵機は深追いせず離れた。
数が少ないからか、燃料か、それとも地上の混乱がまだ優先なのか。
理由は分からない。
分からないが、追ってこないと分かった瞬間、若い搭乗員はようやく一つだけ息を吐いた。
古参の声が入る。
「大丈夫か」
「……はい」
「嘘つけ」
若い搭乗員は少しだけ笑った。
本当に少しだけだ。
「思ったより、上がってきました」
「そうだな」
「もっと、地上で終わると思ってました」
古参はすぐには返さなかった。
やがて静かに言う。
「そういう朝じゃなくなったんだろう」
その一言が、帰りの空にずっと残った。
⸻
真珠湾では、第二波が抜けたあとも煙が止まらなかった。
艦上では火災と浸水と負傷者対応が同時に進んでいる。
飛行場では、焼けた機体の横で、まだ使える機体をどけ、使えない機体を諦める作業が続いていた。
どこを見ても足りない。
人も、時間も、手も足りない。
だが、それでも“完全に潰れた”空気ではなかった。
ある飛行場の端で、若い米軍搭乗員が降りてきたばかりの機体からふらつくように足をついた。
着地はきれいではなかった。
脚も危なかった。
それでも戻した。
戻せた。
整備兵が駆け寄る。
「大丈夫か!」
若い搭乗員は答える前に、振り返って空を見た。
もう攻撃隊の主力は遠ざかっている。
だが、煙の向こうにまだいくつかの機影が残り、対空砲火も完全には止んでいない。
「まだいるのか」
思わず漏れた言葉に、整備兵が答える。
「少しだ!」
「次、上げられるか」
整備兵は一瞬だけ言葉に詰まり、それから強く頷いた。
「全部は無理だ! でも、ゼロじゃない!」
若い搭乗員は、その言葉にゆっくり頷いた。
ゼロじゃない。
それで十分だった。
完勝ではない。
守り切れてもいない。
それでもゼロではない。
その違いだけが、今の彼には妙に大きかった。
⸻
機動部隊の作戦室では、帰投途中の報と真珠湾側の継続報が交差していた。
若い参謀が紙を並べる。
年かさの参謀は、それを一枚ずつ読むたびに眉間の皺を少し深くする。
艦長は相変わらず海図の前に立っていたが、視線は海図よりも紙の束へ向いている時間の方が長くなっていた。
「第二波、帰投に入りました」
若い参謀が言う。
「損耗は」
「増加。
ただし予想範囲内です」
「対空反応は」
「第一波より明確。
局地迎撃も継続」
年かさの参謀が低く言った。
「やはり、静かな港ではなかったか」
若い参謀は頷く。
「はい」
「第三撃を入れるなら、この条件を踏まえる必要があります」
艦長は何も言わなかった。
その沈黙のあいだに、部屋の全員が同じことを考えていた。
第三撃。
入れるか。
入れないか。
戦果だけ見れば、なお魅力はある。
まだ叩けるものはある。
施設も、補給も、修理能力も、残っている。
だが同時に、港はもう完全な眠りの中にはいない。
対空砲火は立ち、局地迎撃は上がり、第二波は第一波ほど素直には入れていない。
年かさの参謀が問う。
「帰投の乱れは」
若い参謀は一枚を見て答える。
「大崩れではありません。
ですが、第一波想定より編隊の戻りにばらつきがあります」
「燃料」
「余裕はあります。
ただし、第三撃まで考えるなら帰投後の再整理を急がねばなりません」
その言葉の中に、榊がここまで見てきたものと同じ構造があった。
見つける。
上げる。
捨てない。
その先には必ず、戻りと再投入の話がある。
艦長がようやく口を開く。
「戦果の紙だけを前にするな」
若い参謀が顔を上げる。
「は」
「被害も、戻りも、相手の立ち上がりも、全部同じ机に並べろ。
その上で考える」
「はい」
年かさの参謀が、ほんのわずかに口元を動かした。
「だいぶ変わったな」
艦長は聞き返さなかった。
何が変わったのか、全員分かっていたからだ。
以前なら、戦果を先に見ただろう。
そしてその後で、損耗や戻りを付け足したかもしれない。
今は違う。
戦果と損耗と再投入を同じ机へ載せる。
そうしないと、次の判断が持たない。
若い参謀が小さく息を吐く。
「結局、帰り道でもう次が始まってるんですね」
艦長は短く答えた。
「戦争はそういうものだ」
⸻
試験棟では、真珠湾からの短報が帰投報に変わり始めていた。
葛城が新しい束を榊の前へ置く。
「帰りだ」
榊は一枚を取った。
第二波、帰投中。局地迎撃により一部回避増。
編隊復位に時間差。
損耗増加、ただし大勢維持。
別の一枚。
真珠湾側、対空砲火継続。局地迎撃残存。
飛行場一部で再発進準備継続。
榊はその二枚を見比べた。
攻撃は通った。
被害も大きい。
だが、第二波の帰りにまで“向こうがゼロではない”ことが効いている。
「やっぱり、帰り道にも尾を引いてますね」
葛城が頷く。
「そうだ」
伊集院が腕を組んだまま言う。
「最初の数分の差が、第二波の進入を変え、帰りの姿勢を変え、第三の判断を重くする」
村瀬少佐が静かに続ける。
「大きすぎず、小さすぎず、ちょうど嫌なズレ方だ」
その表現は妙にしっくりきた。
嫌なズレ方。
たしかにそうだ。
全部を止めるほどではない。
日本側の主攻を折るほどでもない。
だが、何もなかった朝には戻らない。
その差が、判断を鈍らせずに重くする。
黒川が短く言う。
「こういう差が長く残る」
榊は頷いた。
派手な逆転ではない。
だからこそ残る。
“もしも”として片づけられない程度に現実的で、あとから記録を読む者の頭へじわじわ残る種類の差だった。
⸻
機動部隊の甲板では、まだ戻らない機体を待つ視線が空へ向けられていた。
整備兵たちは、出した時と同じように短い言葉で動いている。
ただ、今は待つだけではない。
戻ったらどの機から燃料を見るか。
どの機から被弾確認を入れるか。
どこまでなら再投入が可能か。
その順番が、もう頭の中で切られている。
若い整備兵が先任へ聞く。
「第三、ありますか」
先任は空を見たまま答えない。
やがて低く言う。
「戻りを見てからだ」
「でも、あるかもしれない」
「あるかもしれん」
「だったら、どの機から見ます」
先任はそこで初めて振り返った。
「そうだな。
そういう聞き方をするようになったか」
若い整備兵は少しだけ気まずそうにした。
先任は怒らずに続ける。
「被弾の有無だけじゃない。
戻ったあと、どこまで戻せるかだ。
その順で見る」
若い整備兵は頷いた。
「はい」
そのやり取りの向こうで、一機、また一機と味方機が戻ってくる。
帰投は終わりではない。
戻った瞬間から、もう次の判断の材料だ。
⸻
真珠湾側では、攻撃の波が一段去ったことで、逆に現実の重さが前に出てきていた。
炎。
負傷者。
浸水。
焼けた機体。
傾いた艦。
叫び。
走る足音。
それでも、その全部の中で一部の士官たちはすでに別のことを考え始めている。
次があるか。
まだ来るか。
もし来るなら、どこが残っているか。
若い士官が、燃える飛行場の端でまだ使える機体を数えようとしていた。
正確ではない。
煙が邪魔だ。
人も足りない。
それでも数える。
「何機だ」
別の士官が聞く。
「分からん。
でもゼロじゃない」
「またその言い方か」
「ゼロじゃないなら、次に意味がある」
その言葉は、もはや慰めではなかった。
本当にそうなのだ。
次があるなら、ゼロでないことに意味がある。
一機でも、二機でも、対空砲が何門でも、燃料がどれだけでも、ゼロでないなら次の形が変わる。
真珠湾の朝は、もう完全な無抵抗の記録にはならない。
それだけでも、後の語られ方は少し変わる。
⸻
艦上の作戦室では、第三撃の議論がとうとう明確な形を取り始めていた。
若い参謀が必要な紙を並べる。
戦果。
損耗。
帰投の乱れ。
相手の対空反応。
局地迎撃。
残存燃料。
再投入見込み。
年かさの参謀が一枚ずつ見て言う。
「戦果だけなら、なお魅力はある」
若い参謀が答える。
「はい」
「だが、戦果だけでは決められん」
「はい」
艦長は静かに言った。
「いま一番重いのは何だ」
若い参謀は、少しだけ考えてから答えた。
「向こうがもう完全な無反応ではないことです」
「他は」
「帰投後再整理に食う時間。
それと、第二波で姿勢修正が増えたこと」
年かさの参謀が低く頷く。
「つまり、“まだ行ける”と“もう最初の朝ではない”が同時にあるわけだ」
「そうです」
その言葉は、部屋の全員が感じていたことを正確に言い当てていた。
まだ行ける。
だがもう、最初の朝ではない。
この二つが両立するから判断が重い。
艦長は、しばらく黙って紙の束を見ていた。
やがて言う。
「結論は急がん。
だが、戻りの数字を優先しろ」
「戦果ではなく?」
「戦果も見る。
だが戻りを先に置け。
戦果は過去だ。
戻りは次だ」
若い参謀は、その一言を胸の中で反芻した。
戦果は過去。
戻りは次。
それはまさに、いまこの艦隊が学び始めていることだった。
⸻
試験棟で、榊はその種の艦上短報を読んでいた。
第三撃判断材料として、戦果より帰投後再整理を優先。
その一文を見た時、榊は思わず少しだけ息を止めた。
「……ここまで来ましたか」
葛城が聞く。
「何だ」
「戻りを先に見るようになった」
伊集院が低く笑う。
「ようやく、だな」
村瀬少佐も頷く。
「戦果だけでなく、次にどこまで動けるか。
そこを見るなら、組織としては一段進んでいる」
黒川が短く言う。
「痛い目を見た分だけな」
榊は静かに頷いた。
そうだ。
これは机上の改革ではない。
真珠湾の空と港で、実際に“少し違う朝”を経験したからこそ、やっと上もそこを見るようになった。
最初の一報。
局地的な暖機。
対空砲火の立ち上がり。
少数機の迎撃。
第二波の姿勢修正。
そして帰りの乱れ。
その全部が一つの線になって、いま第三撃の判断を重くしている。
「最初をずらせれば後がずれる」
榊は小さく呟いた。
葛城が聞き返す。
「何か言ったか」
「いえ、でも……やっぱりそうだなって」
葛城はわずかに笑った。
「今さらだな」
「今さらです」
それでも、その今さらがうれしかった。
理屈では分かっていたことが、とうとう歴史の一場面として形になってきたからだ。
⸻
夜へ向かう海の上で、まだ戻らない機体を待ちながら、機動部隊は次の判断へ近づいていた。
帰投の灯。
甲板員の視線。
整備兵の待機。
作戦室の紙。
全部が次へ向いている。
戦争は、撃った瞬間より、そのあと何を残せるかで顔を変える。
真珠湾の朝は、まさにそのことを示し始めていた。
榊は試験棟の机の上の短報をそっと揃えた。
次は、第三撃をやるかどうか。
その判断が来る。
そしてその判断は、もう史実と完全に同じ顔では下りてこない。
4月7日の投稿開始から読んでくださっている皆さま、本当にありがとうございます。
おかげさまで4月8日以降ランキングに入ることができ、4月13日~14日には日間総合30位前後、歴史〔文芸〕日間2位まで上がることができました。
さらに、累計PVも10万を超えました。
ここまで読んでいただけたこと、感想やご指摘をいただけていること、本当に励みになっています。
技術寄りの話や戦争の流れなど、かなり癖のある作品だと思いますが、それでも追いかけてくださる読者の皆さまに支えられてここまで来られました。
ありがとうございます。
この作品は、派手な一発逆転というより、小さな改善や判断の積み重ねで少しずつ歴史をずらしていく話として書いています。
いただいた感想も大事にしながら、これからものんびりでもしっかり続けていければと思っています。
今後ともよろしくお願いいたします。




