第7話 電探は、まだ兵器になりきれていない
新品の乙三型無線機が置かれていた試験台の周囲には、すでに人垣ができていた。
工員、技師、整備担当、運搬係。
誰も大声は出していない。
だが、その静けさの中にある緊張は、前線報告を読む時のものとは少し違っていた。
新品で不具合が出た。
それはつまり、戻り品の問題を「使い方のせい」や「前線の扱いのせい」にできなくなったということだ。
「これです」
工員の一人が、試験機を指差した。
通電は落とされているが、周辺はまだ熱を持っている。
さっきまでここに異常がいたのだと分かる、生暖かい空気だった。
「症状は」
久世が短く問う。
「受信が時々薄くなります。完全には切れませんが、急に揺れて……真空管を触ると戻る時もあると」
榊はすぐに試験台へ近づいた。
「触ったのは誰です」
「私です」
若い工員が手を挙げる。
「その時、どこを?」
「最初は真空管を……その、前の確認表の通りに」
榊は小さく頷いた。
確認表が、もう使われている。
それ自体は悪くない。
少なくとも現場は読んでいる。
真田が後ろから言う。
「新品だぞ」
「分かってます」
「戻り品の摩耗では説明できない」
「だからこそ意味があります」
榊はそう答えながら、乙三型の外装に指を滑らせた。
前日の戻り品より状態はいい。
当然だ。新品なのだから。
だが、だからといって問題がないとは限らない。
むしろ新品で出るなら、それは設計か製造工程のどこかに、最初から火種があるということだ。
――《新品個体での再現は重要です》――
――《前線起因説の否定材料になります》――
(言われなくても分かる)
榊は内心で返しつつ、真空管ソケットに視線を落とした。
保持力を確かめる。
戻り品ほどではない。
だが個体差があるのは確かだ。
それに今回は、それだけではない気がした。
「通電できますか」
「やれる」
森本が即答する。
「ただし、また揺れた時にすぐ落とす」
「お願いします」
試験台の周囲が少しだけ下がり、通電が始まる。
真空管の灯りが一つずつ橙色に点り、金属と絶縁材がじわじわ温まっていく。
榊は目で見て、耳で聞き、手を近づける。
変化は、すぐには出なかった。
だが五分ほど経ったところで、受信音がふっと痩せる。
「今だ」
榊は低く言い、すぐさま外装の特定箇所へ触れた。
前日はソケットの揺らぎが分かった。
だが今日は、同じ刺激への反応が少し鈍い。
代わりに、電源部に近い側板の熱の上がり方が気になった。
「……こっちか」
「どこだ」
黒川が問う。
榊は試験機の脇にしゃがみ込み、電源部周辺へ視線を寄せた。
「熱の回りが早い」
真田がすぐに反応する。
「早い?」
「はい。しかも局所的です」
「そんなもの、感覚で分かるのか」
「分かります。少なくとも違和感はある」
真田が口を開きかけたが、その前に森本が言った。
「俺も、妙に熱がきつい気はする」
「森本さんまで……」
「感じるもんは感じる」
榊は試験機の外装を指先でなぞりながら、慎重に考えた。
ソケットだけなら、もっと単純に揺れへ出る。
だが今回は通電後にじわじわ不安定になる。
それなら熱の影響が絡んでいる可能性が高い。
「電源まわり、開けます」
久世が頷く。
「やれ」
通電を落とし、外装を外す。
周囲の空気が少しだけ変わる。
新品をここまで開けるのは、設計側にとってはあまり気持ちのいい行為ではないはずだ。
実際、真田の表情は明らかに固い。
だが榊は気にせず、中を見た。
配線。
固定具。
部材の位置。
真空管からの熱が流れ込む向き。
その一つ一つを目で追っていく。
そして、すぐに気づいた。
「これだ」
「何が見えた」
黒川の問いに、榊は電源部近くの部材を指した。
「距離が近すぎる」
真田が身を乗り出す。
「どこがだ」
「この真空管と、この周辺部材です。熱をまともに受ける位置に寄りすぎてる。新品でも、長めに回せば不安定になる」
「そんな馬鹿な」
真田はそう言ったが、否定の声音は弱かった。
自分でも見えてしまったのだろう。
榊は続けた。
「しかもこの配置だと、熱でまずいのは一箇所じゃない。だから故障が散って見える。真空管か、電源か、配線か、切り分けにくい」
久世が唸る。
「戻り品の報告がぼやけるわけだ」
「はい」
榊は頷いた。
「“全部が少しずつ変になる”タイプです。前線では一番嫌われる」
――《原因の多重化です》――
――《単一部品故障より切り分けが困難になります》――
(そうだな)
榊は内心で返す。
真空管は嘘をつかない。
熱もまた、嘘をつかない。
問題は、それを人間がどう受け取るかだ。
分かりやすく一箇所だけ死んでくれれば楽だが、実際はそうならない。
少しずつ悪くなり、複数の箇所へ薄く影響が回る。
だから報告は曖昧になる。
だから設計側も現場側も、お互い相手のせいにしやすくなる。
「改善できますか」
森本が問う。
榊は少し考えてから答えた。
「大改造しなくても、多少は」
真田がすぐに口を挟む。
「多少で意味があるのか」
「ゼロよりはあります」
「それは答えになってない」
「じゃあ言い直します。意味はあります」
榊は真田を見た。
「熱で崩れる速度を遅らせられるだけでも、前線では十分価値がある」
「具体的には」
「まず部材の位置を見直す。数ミリでも離せるなら離す。それが無理なら熱を直接受けにくい向きに変える。さらに配線の逃がし方も変える」
森本がぼそりと言う。
「つまり、いまある部品でやれる範囲の熱対策か」
「そうです」
「見た目は悪くなるぞ」
「見た目で戦争するわけじゃないですから」
前にも言った言葉だった。
だが今回は、少しだけ空気が違った。
森本が笑いを堪え、久世も口元を緩める。
真田は渋いままだったが、もう“机上の空論”とは言わなかった。
黒川が一歩近づき、開かれた電源部を見下ろした。
「この程度の見直しで、どこまで変わる」
「分かりません」
榊は正直に言った。
「でも、少なくとも“やる前より悪くなること”は少ないはずです」
「曖昧だな」
「この時代の技術は、全部がそうです」
それは言い訳ではなく、現実だった。
現代のように数値を積み上げ、すぐに解析して、検証条件を揃えることはできない。
あるのは経験と観察と、限られた試験機会だけだ。
だからこそ、やる価値のある改善を選ぶしかない。
「久世主任」
榊は顔を上げた。
「この型、試験条件を変えられますか」
「どこまでだ」
「連続運転時間を延ばして、その後の受信揺れを比較したい。現行配置と、簡易に熱の当たり方を変えた個体で」
久世は少し考えた後、頷いた。
「やれる」
「真田さん」
「何だ」
「嫌でしょうけど、設計の手を借りたいです。位置の見直しは、現場だけで勝手にやると危ない」
真田はしばらく黙っていた。
やがて深く息を吐く。
「……嫌なのは事実だ」
「でしょうね」
「だが新品で出た以上、知らん顔もできん」
それだけ言って、試験機の中を覗き込んだ。
「この部材なら少し逃がせる。配線長は増えるが、今よりはましだ」
榊は小さく頷いた。
「それでいきましょう」
工場の奥で、また別の無線機へ通電が始まる音がした。
戦争は待ってくれない。
工場も待ってくれない。
だからこそ、こういう小さな合意を積み重ねるしかない。
その時だった。
黒川の横にいた見慣れない下士官が、遠慮がちに声を上げた。
「失礼します」
全員の視線が向く。
黒川が顎で続きを促した。
「先ほど、海軍の技術試験場から連絡がありました」
「何だ」
「電波探信儀の件で、午後の立ち会い予定が一件増えたそうです」
その言葉に、榊の意識が一気に引き締まった。
電波探信儀。
電探。
前話でも名前だけは出ていた。
だが、こうして実際に話が繋がると重みが違う。
黒川が短く言う。
「本来は別件だったが……」
そのまま榊を見る。
「君も来るか」
工場の空気が、また少し変わった。
真田が驚いた顔をする。
「黒川さん、民間人をですか」
「無線機の現場を見ている人間の目は、無駄にはならん」
「しかし」
「ただ見学させるだけだ」
黒川はそう言ったが、その声には試すような含みがあった。
榊の胸の奥が、静かに熱を持つ。
無線だけでは足りない。
それは最初から分かっていた。
通信。索敵。整備。量産。
全部が繋がって初めて“負け筋”は減る。
なら、電探を見る機会は逃せない。
――《優先度は高いです》――
――《電探は将来的中核技術になります》――
(分かってる)
「行きます」
榊は迷わず答えた。
黒川が小さく頷く。
「午後だ。準備しておけ」
それだけ言い残し、彼は下士官とともに持ち場を離れた。
残された空気の中で、森本がぽつりと呟く。
「お前、また面倒なところへ首突っ込むな」
「最初からそのつもりでした」
「だろうな」
久世は苦笑し、真田は相変わらず渋い顔のままだった。
だが、もう誰も「口だけの男」とは見ていない。
新品の不具合は痛かった。
だがその痛みが、次の扉を開いた。
榊は開かれた試験機の中をもう一度見下ろした。
真空管の熱。
部品の距離。
熱で揺らぐ電源。
それらはすべて、まだ兵器になりきれていない技術の未熟さだった。
そして電探もまた、きっと同じだ。
理論上は使える。
だが現場では、まだ信じ切れない。
その段階にあるのだろう。
なら見るべきは、性能表ではない。
現場で“兵器になりきれていない理由”そのものだ。
榊は胸の内で静かに息を吐いた。
電探は、まだ兵器になりきれていない。
だからこそ、そこに触れる価値がある。
午後から始まる新しい戦場を思いながら、榊は机上の乙三型へ最後に一度だけ目を落とした。
小さな不具合は、小さな問題ではない。
その連なりが戦争を負けへ運ぶのだと、もう彼は知っている。




