第6話 最初の改善は、誰にも歓迎されない
榊が前線整備報告の束と向き合い始めて三日、工場の空気はまた別の意味で張り詰めていた。
戻り品の分類表。
故障要因の仮説別整理。
簡易点検順序表の試験運用。
やっていることは地味だ。
だが、地味だからこそ工場全体の手間を増やす。
「また記録かよ」
若い工員が、木箱を運びながら露骨に嫌そうな顔をした。
「昨日までは直して出せば終わりだったのに」
「終わってなかったから、戻ってきてるんだろ」
森本が一喝すると、工員は口をつぐんだ。
だが不満が消えたわけではない。
榊にも分かっていた。
現場から見れば、増えたのは仕事だ。
故障の傾向を書く。
真空管ソケットの保持状態を記録する。
通電後の変化を見る。
整備時にどこから確認したか残す。
正しさはある。
だが、正しいことが歓迎されるとは限らない。
工場の隅、打合せ机の上には、榊が分類し直した報告書が積み上がっていた。
振動要因の疑い
接触不良要因の疑い
熱要因の疑い
電源系要因の疑い
判別困難
ざっくりとした五分類。
完璧にはほど遠い。
だが以前のように「通信不良」の一言で全部をまとめるよりは、遥かにましだった。
「見えてきたな」
久世が報告書の束を見下ろしながら言った。
「はい。思った以上に、接触不良が多い」
「ソケットと接点、両方か」
「ええ。特に“移動後に不安定”“叩いたら戻る”“真空管交換で一時改善”は怪しいです」
真田は不機嫌な顔のまま、別の束をめくっていた。
「だがそれで全体が良くなるわけじゃない」
「分かってます」
榊は短く返した。
「ただ、“何が多いか”が見えれば、工場のどこに手を入れるべきかは決めやすくなります」
「理屈の上ではな」
真田の棘は相変わらずだった。
だが、完全に否定してくることは減った。
少なくとも報告書の整理が役に立っていること自体は認めているのだろう。
問題は、別のところにあった。
「主任、納期表です」
工員の一人が紙を持ってくる。
久世が目を通し、露骨に顔をしかめた。
「詰まってるな……」
森本も横から覗き込む。
「きついですね」
榊も何となく察した。
分類や確認を増やしたぶん、流れが落ちているのだ。
久世が紙を机へ置く。
「今月後半の出荷予定が押し始めてる。まだ致命的じゃないが、このままだと響く」
真田がすぐ言った。
「だから私は最初から言っていたんです。確認工程を増やせば現場は回らない」
森本がむっとする。
「確認しなきゃ戻り品が増えるだけだろうが」
「短期ではな」
「短期でも前線に不良品を流すよりましだ」
「その“まし”を誰が証明するんです」
真田の言葉は、ある意味で正しかった。
戻り品は減るかもしれない。
だが現時点では、増えた確認作業の負担だけが目に見える。
現場からすれば、
“面倒が増えたのに、まだ結果が出ていない”
状態だった。
――《反発は予測可能です》――
――《改善は利益と損失の再配分を伴います》――
(分かってるよ)
榊は心の中で応じる。
技術的には正しい。
だが現場は、正しさだけでは動かない。
久世が唸る。
「榊、お前はどう見る」
急に振られ、周囲の目が集まった。
工員たちも、森本も、真田も。
黒川は少し離れた位置から黙って見ている。
榊は少し考えてから言った。
「今のやり方のままだと、確かに回らないです」
真田の口元がわずかに歪む。
だが榊は続けた。
「ただ、全部を全部記録するから重い。重点を絞ればいい」
「重点?」
「戻り品と、怪しい個体だけです」
森本が腕を組む。
「新品はどうする」
「新品は簡略確認。戻り品と、出荷前に挙動が怪しい個体だけ記録を厚くする」
久世が考え込む。
「全数を同じ重さで見るな、ということか」
「はい。今は“見たいこと”が多すぎる。だから現場が潰れる」
真田が意外そうに眉を上げた。
「ずいぶん現場寄りなことを言うな」
「現場が潰れたら改善も終わりです」
榊は素直に答えた。
「全部を正しくやろうとして全部止まるのが一番まずい」
それは、2026年でも何度も見た失敗だった。
品質管理を厳密にしようとして、工程が破綻する。
記録を増やして、誰も読まない紙だけが積み上がる。
改善は“回る範囲”で続かなければ意味がない。
黒川がそこで口を開いた。
「優先度を分けろ、ということだな」
「ええ」
「なら、軍側に出す記録も分けられるか」
「できます。戻り品の傾向だけを別紙にまとめればいい。前線に返す整備用の確認表と、工場側で傾向を見る資料を分ける」
少佐ではなく黒川がこうして話に乗ることが増えたのは、大きかった。
軍に繋がる細い線が、少しずつ太くなっている。
久世が納期表を指で叩いた。
「つまり、現場に増やすのは二つだけにする」
「二つ?」
「一つは簡易点検順序表。もう一つは戻り品の分類記録。それ以外は後回しだ」
森本が頷く。
「それなら回せるかもしれません」
真田は黙っていたが、反対もしなかった。
完全に納得はしていないのだろう。
だが、いま必要なのが“現場を止めない改善”だということは理解したらしい。
その日の午後、榊は工場の一角で、整備担当の兵員たちに向けて簡易確認表の説明をしていた。
正式な講習ではない。
ただの現場の申し送りに近い。
だが、それで十分だった。
「いいですか。最初から全部疑わないでください」
榊は紙を掲げる。
「まず真空管。次に接点。次に電源。この順で見ます。いきなり配線全部を追うのは最後です」
年若い整備兵の一人が手を挙げた。
「真空管を替えても駄目なら?」
「その時に接点です。差し込みが甘い個体があります。抜いて、見て、戻す」
「汚れてたら?」
「できる範囲で拭く。無理に削らない」
別の兵が尋ねる。
「電源は、何を見るんです」
「異常に熱くなってないか。長く使った後で急に不安定になったら、まずそこを疑う」
説明は簡単に。
理屈は最小限。
手順は少なく。
それが今のこの場で必要な形だった。
兵員たちは真剣に聞いていた。
少なくとも真田が想像していたより、ずっと真面目に。
講習もどきが終わる頃、森本が横に来てぼそりと言った。
「意外だったな」
「何がです」
「整備側の連中が、あんなに食いつくとは思わなかった」
榊は兵員たちの背中を見ながら答えた。
「困ってたんでしょう」
「……だろうな」
森本は小さく頷いた。
「設計の話は分からんでも、どこから見ればいいか分かる紙は助かる。あいつらの顔見てりゃ分かる」
工場の外れから、木箱を積む音が響く。
出荷は待ってくれない。
改善も待ってくれない。
そして戦争はもっと待ってくれない。
だからこそ、今ここで“続けられる形”にしなければいけなかった。
――《初期改善は、しばしば不評です》――
――《負担増のみが先に見えるためです》――
(珍しく、気の利いたこと言うな)
――《珍しく、は不要です》――
榊は思わず口元を緩めた。
周囲から見れば、独りで妙な顔をしただけに見えただろう。
そのとき、工場の入口側から慌ただしい足音が近づいてきた。
「主任!」
若い工員が息を切らして飛び込んでくる。
「戻り品じゃない、新品の試験機で同じ症状が出ました!」
久世が即座に顔を上げる。
「どの型だ」
「昨日組んだばかりの乙三型です。通電後しばらくして受信が揺れて……」
森本が榊を見る。
真田も、黒川も。
榊はもう立ち上がっていた。
「行きましょう」
新品で同じ症状が出た。
それは悪い知らせだった。
だが同時に、改善を“戻り品だけの特殊例”で終わらせないための証拠にもなる。
歓迎されない改善でも、現実の方から追いかけてくることがある。
榊は工場の奥へ走りながら、胸の内で静かに息を吐いた。
最初の改善は、誰にも歓迎されない。
だが、歓迎されるまで待っていたら、たぶん何も変わらない。
だったら結果を見せるしかない。
たとえそれが、新品の不具合という最悪の形だったとしても。




