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太平洋戦争の時代に戻った俺、真空管から日本を立て直します  作者: Diamond ruler


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第45話 同じ夜に、別々の覚悟が進んでいる

夜は、どこでも同じ色をしているように見える。


だがその夜の中で、人が何を待ち、何を恐れ、何を決めているかは、まるで違う。


沿岸の監視所では、若い電探員がいつもより静かに椅子へ座っていた。


暗い。

冷える。

真空管の灯りだけが小さく機械の輪郭を浮かせている。

見張り員は外。

当直士官は背後。

紙は手元。

定型の言葉も、もう頭へ入っている。


それでも、今夜は少し違った。


誰かが何かを知っているわけではない。

特別な命令が来ているわけでもない。

だが空気が違う。


当直士官が短く言う。


「今夜は、一時情報でも止めるな」


それはいつもなら、わざわざ言葉にしない種類の確認だった。


若い電探員が小さく頷く。


「はい」


見張り員が戸口から声だけを寄越す。


「風が強い。海面、見づらいぞ」


「了解」


電探員は表示から目を離さない。


方位。

尾。

強弱。

見張り確認未了。

一次報告。

追認。

取消。


ここ数か月で身体へ入れ込んだ骨格が、もう考えなくても指先へ出るところまで来ていた。

だが今夜は、その骨格にぴたりと張りつくような緊張がある。


まるで、試すためではなく、本当に使うための夜が来ると身体のどこかが知っているみたいだった。


工場では、ほとんどの灯りが落ちていた。

それでも、まだ完全には終わっていない。


森本は最後の箱の内蓋へ、確認札を差し込んでいた。


先に固定確認

次に真空管・接点

熱後再確認

印位置をずらすな


もう何枚書いたか分からない。

途中から数えるのもやめた。


「これで終わりですか」


若い工員が聞く。


森本は少しだけ考えてから答えた。


「こっちの手はな」


「じゃあ向こう次第ですか」


「最初からそうだろ」


工員は、それ以上何も言わなかった。


工場の人間にできることは、いつだってそこまでだ。

直す。

揃える。

戻しやすくする。

その先で使われるかどうかは、もう別の人間の仕事になる。


だが今夜だけは、その“別の人間”たちも、同じ夜の中にいることを森本は妙にはっきり意識していた。


真田が作業台の向こうから言う。


「榊はまだ試験棟か」


「だろうな」


「最後まで紙を見てる顔だった」


森本は鼻で小さく笑う。


「そういう奴だ」


「戦争が始まる前の顔じゃないな」


「じゃあ何だ」


真田は少しだけ手を止めた。


「戦争のあとまで見てる奴の顔だ」


森本は返事をしなかった。

だが、その言葉を否定もしなかった。


試験棟では、榊が最後の比較記録を箱へ分けていた。


前へ出す紙。

手元へ残す紙。

比較用。

工場側。

受理卓側。

沿岸成功例。

停止例。


どれも薄い。

だがこの数か月の積み上げが、その中へほとんど全部入っている。


葛城が机の端にもたれながら言う。


「まだやるのか」


「少しだけ」


「便利だな」


「便利です」


葛城は笑って、それからすぐ真顔へ戻る。


「お前、怖いか」


榊は手を止めた。


「はい」


即答だった。


ごまかす意味がなかった。


「何がだ」


「通したものが、本当に意味を持つかどうかが、もう現場でしか分からないことです」


葛城は静かに頷いた。


「そうだな」


「あと、届かなかった側も」


「……そうだな」


そこから先は、お互いに少し黙った。


間に合ったもの。

まだ届かなかったもの。

同じ夜の中に、その両方がある。


だから怖い。

だが、その怖さはたぶん正しい。


葛城が低く言う。


「怖くないなら、ここまでやってない」


榊は小さく息を吐いた。


「そうかもしれません」


「いや、そうだ」


その言葉に、少しだけ救われた気がした。


東京では、官庁街の一室の灯りがまだ消えていなかった。


外務の男は、机の上の紙を前に長く黙っていた。

海軍側の男は、もう何度も読んだ文面を改めて読み返している。

若い書記官は、前より少ない言葉を、前より速く筆記していた。


「結局、ここまで来るのですね」


外務の男が言う。


海軍側の男は視線を上げなかった。


「来るべくして来たとも言える」


「そう言い切れるほど、私は強くありません」


「強さの話ではない」


「では何です」


「時間の話だ」


その言葉に、外務の男は目を閉じた。


時間。

この数か月、どれだけその言葉に振り回されたか。

稼ぐ時間。

削られる時間。

準備の時間。

交渉の時間。

決断の時間。

どの時間も、気づけば別の意味へ変わっていた。


若い書記官が、勇気を出すように聞いた。


「まだ、表向きは」


海軍側の男が短く答える。


「表向きは、だ」


その言葉が、部屋の空気を冷たくした。


誰も“開戦”とは言わない。

まだ紙の上では、そういう顔をしていない。

だが、もう現場へ降りていく命令は、外交の顔をほとんど保っていなかった。


外務の男が静かに言う。


「現場には、どこまで下りているのでしょう」


海軍側の男は少しだけ考えたあと答えた。


「意味までは下りていない。速さだけが下りている」


その表現が、ひどく正確に思えた。


急げ。

前倒し。

優先。

再確認。

それだけが先に現場へ染みていく。


何が終わり、何が始まるのかは、そこまでは誰も言わない。

言わなくても、現場がそれを感じてしまうからだ。


ワシントンでは、夜の執務室で数人の男がまだ机に向かっていた。


ハルの部屋ではない。

だが国務省と海軍の間を行き来する紙の束は、もうただの事務ではなかった。


確認。

照会。

再確認。

警戒。

それらの語が並ぶたび、担当官たちは“まだ何も起きていない”という形を保とうとする。

けれどその形自体が、かえって不気味さを増していた。


通信担当の若い士官が言う。


「太平洋方面、相変わらずです」


上官は紙を受け取り、ざっと目を通す。


「相変わらず、か」


「はい」


「相変わらずほど信用できん言葉はないな」


若い士官は返事ができなかった。


何も起きていない。

だが、何も起きていないという報告が続きすぎると、人はそこへ安心を足してしまう。

その危うさを、この部屋にいる人間は誰も言葉にはしない。

言葉にした瞬間、自分たちの平穏も揺れるからだ。


上官は紙を置き、窓の外を見た。


「まだ交渉は続いている」


「はい」


「だが、交渉が続いていることと、何も起きないことは同じではない」


その一言だけが、部屋に残った。


そして、海の上では、別の種類の静けさがあった。


艦上の風は冷たい。

甲板は暗い。

無駄口は少ない。

命令は短い。


真珠湾へ向かう任務部隊の中で、若い搭乗員は整備された機体の横に立ち、手袋越しに機体表面へ触れていた。

言葉にしにくい感覚がある。


訓練と同じ手順。

点検も、搭載も、整列も、ほとんど同じ。

だが“今夜の延長”としては感じられない。


隣の古参搭乗員が低く言う。


「眠れそうか」


若い搭乗員は、少しだけ笑う。


「無理です」


「俺もだ」


二人とも、それ以上は言わなかった。


言葉にすると軽くなる。

軽くしたくない夜だった。


遠くで整備兵が最後の確認をしている。

燃料。

搭載。

固定。

いつも通りの手順。

だが整備兵の手つきも、どこか言葉を失っている。


別の搭乗員が、小さく呟く。


「本当に行くんだな」


その声は、誰かへ向けたものではなかった。


古参が答える。


「ここまで来たらな」


そこへ、艦内から短い呼出が入る。

時刻確認。

最終準備。

それだけの言葉で十分だった。


若い搭乗員は暗い海を見た。

向こうに何があるのかは知っている。

だが、そこで自分が何を見るのかまでは、まだ想像しきれない。


ただ一つだけ分かるのは、もう戻る方向へは動いていないということだった。


試験棟へ戻ると、黒川が窓際に立っていた。


榊は机の上の最後の紙束を箱へ収めながら言う。


「終わりました」


黒川は振り返らずに問う。


「何がだ」


「前へ出す分と、残す分の整理が」


黒川は少しだけ間を置いてから言った。


「終わりではない」


「はい」


「だが、それでいい」


榊は小さく頷いた。


終わりではない。

終わりではないが、ここまでだ。

ここから先は、紙を直す時間ではない。

紙が現場でどう生きるかを見る時間になる。


そして同じ夜の中で、東京も、ワシントンも、海の上も、それぞれ別の覚悟を進めている。


まだ始まっていない。

だが、もう後戻りはしていない。


榊は、最後の箱の蓋を静かに閉じた。

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