幕間 ワシントン――まだ交渉中という顔
ワシントンの空気は冷えていた。
街路樹の葉はほとんど落ち、石造りの建物の壁だけが夕方の光を鈍く返している。
国務省の執務室で、コーデル・ハルは机の上の文書を長く見つめていた。
交渉案。修正文。覚書。対日方針の整理。
紙は何枚も重なっているのに、結局書いてあることは一つの方向へ収束しつつあった。
譲れない線を、もうこれ以上曖昧にはできない。
向かいに立つ若い補佐官が、慎重に口を開く。
「日本側はなお時間を求めています」
ハルはすぐには答えなかった。
時間。
それは最近、どの文書にも違う顔で現れる言葉だった。
交渉のための時間。
軍備のための時間。
南方での既成事実を積み上げるための時間。
どの“時間”を相手が欲しがっているのか、もう誰も素直には受け取らない。
「時間を求める者は多い」
ハルはようやく言った。
「だが、何のための時間かで意味は変わる」
補佐官は頷きながら、別の紙を差し出した。
日本側の提案。
妥協の余地があるようでいて、読めば読むほど、その余地は狭い。
一部を動かしても、肝心の線は動いていない。
「大統領は」
補佐官が言いかけて、少し言葉を選ぶ。
「なお交渉の形は保つおつもりです」
ハルは小さく息を吐いた。
形。
それもまた大事だった。
いきなり扉を閉めるように見せてはならない。
だが、扉を開けたままに見せることと、相手に好きに出入りを許すことも違う。
窓の外では、夕方のワシントンが静かに沈んでいく。
だが太平洋の向こうでは、静かであることそのものが信用できなくなって久しい。
「書こう」
ハルはそう言った。
補佐官が顔を上げる。
「最終案、ですか」
「そう呼ぶ必要はない」
ハルの声は平坦だった。
「だが、こちらの立場をこれ以上曖昧にしない文書にする」
補佐官は黙ってメモを取る。
中国。
仏印。
三国同盟。
武力による現状変更。
経済的圧力。
海軍の警戒。
どれも個別の問題に見えて、もう個別では済まない。
「日本側は強く反発するでしょう」
補佐官が静かに言う。
ハルは視線を上げなかった。
「承知している」
「それでも」
「それでもだ」
その一言で、部屋の空気が決まった。
もう、相手の顔色を見ながら曖昧さで繋ぐ段階ではない。
少なくともハルは、そう判断していた。
隣室から入ってきた別の担当官が、短く告げる。
「海軍からの照会です。太平洋方面の警戒状況について、追加の確認を求めています」
ハルは一瞬だけ目を閉じた。
外交の文書。
軍の警戒。
表向きの交渉継続。
その全部が、もう別々には動いていない。
「回してくれ」
「はい」
担当官が去る。
補佐官はまだ机の前に立ったままだ。
「長官」
「何だ」
「本当に、まだ外交で止められると思いますか」
部屋はしばらく静まり返った。
ハルはすぐには答えなかった。
やがて、疲れの混じった声で言う。
「止めるために文書を書くのではない」
補佐官が息を呑む。
「では」
「何が譲れないかを、もう隠さないためだ」
その答えは、希望というより整理に近かった。
窓の外では、街の灯りが静かにつき始めている。
平穏に見える。
だが、その平穏の下で、歯車は確実に別の音を立て始めていた。
机の上の文書へ、ハルはゆっくり手を置く。
それはまだ“最後通牒”ではない。
少なくとも、そう名乗るために書かれるわけではない。
だが受け取る側がどう読むかは、もう書き手だけでは決められない。
ワシントンは、まだ交渉中という顔をしていた。
だがその顔の奥では、引き返せる幅が日に日に細くなっていることを、ここにいる誰もが知っていた。




