第32話 全部を救えないと決めた瞬間、反発は始まる
優先順位を決める、というのは言葉にすると静かだ。
だが実際には、それは
先に助ける場所を決めること
であり、同時に
後になる場所を作ること
でもある。
だから反発が出ないはずがなかった。
試験場と工場、通信監理、それぞれの記録を重ねた結果、先に通すべき部隊は見えていた。
沿岸。
夜間警戒。
小艦艇。
機材改善の恩恵が直接効き、報告遅延がそのまま危険に繋がる場所。
理屈は明快だった。
だが理屈が明快であることと、全員が納得することは別だ。
「偏りすぎではありませんか」
その声が上がったのは、兵器局と通信監理の合同整理会だった。
発言したのは、兵器局側の中佐だった。
榊の知らない顔だが、机上の整理より“全体の均衡”を重んじるタイプだとすぐに分かった。
「沿岸、小艦艇、夜間警戒寄り。そこへ集中する理由は分かります。しかし、それ以外の部隊を後回しにした時、かえって混乱を招くのでは」
葛城が答える前に、村瀬少佐が口を開いた。
「全部へ同時に回せるなら、その方がいい」
「ならば」
「だが無理だ」
一刀で切った。
部屋の空気が少し張る。
村瀬は机上の部隊一覧を指で示した。
「説明員の数、記録整理の速度、補足資料の整備、現場の受け皿。どれを取っても、同一速度では回らない」
中佐は表情を変えなかった。
「分かっています。しかし、“先に選ばれた部隊”と“まだ届かない部隊”が混在する状態は、制度上もっとも危険です」
その指摘も正しかった。
同じ海軍内で、ある部隊は速報・追認を理解し、別の部隊はまだ古い“確認が揃うまで上げるな”の感覚で止まる。
ある艦は改善された確認票を持ち、別の艦は旧来のまま運用する。
その混在は、たしかに危うい。
だが、だからといって全てが揃うまで待てば、何も動かない。
その膠着の方がもっと危ういと、榊には思えた。
「危険なのは承知しています」
榊がそう言うと、場の何人かがこちらを見た。
「だが、止めたままの危険の方が大きいと考えています」
中佐の目が細くなる。
「君はそう言うだろうな」
「事実だからです」
榊は答えた。
「いま先に通そうとしているのは、“効果が見えやすい場所”であると同時に、“遅れた時の損失が直接大きい場所”でもある。そこへ先に通して記録を積み、説明の型を整え、それを節にして広げる方が現実的です」
兵器局側の別の少佐が口を挟む。
「しかし、選ばれなかった側は不満を持つ」
「持つでしょう」
榊は頷いた。
「持たない方が不自然です」
「なら」
「だから“切り捨てた”と見えない説明が要る」
村瀬少佐がそこで引き取った。
「重点配布ではなく、段階展開だ」
その言葉の置き方は、やはりうまい。
“選ばれた部隊だけ特別扱い”に見えると反発が強い。
だが“順番に展開している第一段階”なら、少なくとも建前は立つ。
葛城もすぐに乗った。
「第一段階は沿岸・夜間警戒・小艦艇。第二段階はその記録と説明の整理後に拡張。そう明記すればよい」
中佐は机を指で叩いた。
「言い換えに聞こえますな」
黒川が低く言う。
「言い換えでも、止まるよりはましだ」
その一言で、部屋が一瞬だけ静まった。
榊はそこで、ようやくこの人がここ数話ほとんど感情を露わにしていなかった理由を少し理解した。
黒川は最初から、全部を一度に救えないことを前提に話している。
だからこそ、助けられるところから先に通す冷たさを受け入れているのだろう。
だが、冷たさを受け入れるのはいつだってつらい。
⸻
その日の夕方、試験棟を出た榊は、少し遠回りして海沿いの通路を歩いていた。
風が冷たい。
波の音は低く、暗くなりかけた海は色を失い始めている。
工場の匂いも、試験場の紙の匂いもない。
ただ水と金属と夜の気配だけがあった。
「考え込んでいるな」
振り返ると、黒川がいた。
「少しだけ」
「少しか」
榊は苦笑した。
「“全部は救えない”って、分かってはいたんですけど」
黒川は隣に並ぶ。
「分かった上で線を引くのは別だ」
「そうですね」
「嫌か」
榊はすぐには答えなかった。
嫌だ。
当然だ。
だが嫌だからと言って、順番を決めずに全部を同じように扱えば、たぶんもっと何も届かない。
「嫌です」
榊は正直に言った。
「でも、だから全部に同じ顔をしても意味がないとも思ってます」
黒川は短く頷く。
「それでいい」
海の向こうは暗かった。
だが、その暗さの向こうにも同じように人がいて、同じように機械を点検し、同じように報告を上げ、同じように何かを待っているのだろう。
そのことを、榊はこのところ妙に意識するようになっていた。
⸻
太平洋の向こう側、真珠湾。
夕方の執務室で、米海軍の通信担当士官は、机の上の報告束を片手で押さえながら眉間を揉んでいた。
新しいものは少ない。
いつもの雑多な信号、基地内連絡、艦艇整備、訓練予定。
だが、それらの端々に、言葉にしにくい慌ただしさが混じり始めている。
「また予定変更か」
誰に向けたわけでもなく呟く。
若い兵が新しい紙を持ってきた。
「通信系統の再確認命令です」
「またか」
「はい」
士官は紙を受け取り、ざっと読む。
訓練。確認。警戒。いつもの語が並ぶ。
だが“いつも通り”のままで済まない何かが、じわじわと全体の空気を押している気がした。
窓の外では、停泊中の艦の灯りが静かに並んでいる。
平和だと呼べるほど呑気ではない。
だが、まだ戦争とも呼べない。
その曖昧な時間が、いま確かに存在していた。
「どうせまた、何も起きないまま終わるさ」
隣の机の士官がそう言った。
慰めでもあり、油断でもある声だった。
通信担当士官は返事をしなかった。
ただ、新しい再確認命令の紙を、既存の書類の上へ重ねる。
確認。
再確認。
予定変更。
警戒。
その連なりは、どこの海軍でも似たようなものなのかもしれない。
だが、その似ていることが、かえって榊の知らない不気味さを持っていた。
⸻
試験棟へ戻ると、葛城と伊集院がまだ地図を前にしていた。
「遅かったな」
葛城が言う。
「少し風に当たってました」
伊集院が地図から目を離さずに言う。
「ちょうどいい。次の段階配布先で揉めている」
「またですか」
「まただ」
机の上には、第一段階の配布先一覧と、その次に回す候補の部隊が並んでいた。
そこへ、赤鉛筆で線が引かれている。
優先。保留。再検討。
見ているだけで胃が重くなる。
葛城が指した。
「ここは沿岸寄りだが、説明員を回せる。
ここは艦数が多いが整備が追いつかない。
ここは部隊長が新しい運用を嫌っている」
「最後のが一番厄介ですね」
「いつもそうだ」
榊は地図を見下ろした。
同じ海の上でも、届く速さは揃わない。
それは、単なる距離の問題ではない。
人の考え方。
部隊の癖。
整備の手。
教育の密度。
その全部が絡む。
そして、海の向こうでもきっと同じように、確認や警戒や報告が積み上がっている。
いきなり戦争は始まらない。
始まる前には、こういう曖昧で、静かで、だがどこか落ち着かない時間がある。
その空気を、榊はようやく肌で感じ始めていた。
「……間に合うかな」
思わず口に出たその一言に、葛城も伊集院もすぐには答えなかった。
やがて黒川が、いつも通り低く言う。
「全部は無理だ」
榊は小さく頷く。
「ですよね」
「だが、何も届かんわけでもない」
その一言が、いまは十分だった。
全部は無理。
でも、何も届かないわけではない。
なら、次を選ぶしかない。
選んで、通して、少しでも広げるしかない。
海の上の時間は、もう待ってはくれないのだから。




