第3話 真空管は嘘をつかない
真空管ソケットに触れた瞬間、榊は嫌な手応えを指先に感じた。
軽く揺らしただけなのに、根元がわずかに遊ぶ。
目で見て分かるほど大きな動きではない。
だが、こういう“はっきり壊れていない曖昧さ”こそが一番厄介だった。
「……やっぱりか」
久世が榊の横から覗き込む。
「何がだ」
「保持が甘いです」
榊は真空管を慎重に持ち上げ、もう一度差し込んだ。
刺さるには刺さる。
だが、食い付きが弱い。摩耗か、精度のばらつきか、その両方か。
少なくとも、前線で振動を食らった時に安心できる感じではなかった。
真田が不機嫌そうに鼻を鳴らす。
「その程度の遊びは許容範囲です」
「机の上ならそうかもしれません」
榊は顔を上げずに答えた。
「でも、運ばれて、揺られて、濡れて、ぶつけられる現場なら話は別です」
黒川が腕を組んだまま問う。
「本当にそこが最初に死ぬのか」
「完全には死なないかもしれません」
榊は真空管を外し、ソケットの金具を目で追った。
「その方がむしろまずいです。接触が切れたり戻ったりする。動く時もあれば動かない時もある。整備側から見れば“さっきは動いた”になります」
久世の顔つきが変わった。
「……前線から来る故障報告に、そういうのはある」
「再現しにくい故障ですね」
「そうだ。叩いたら直ったとか、積み込み直したら動いたとか、訳の分からん報告が多い」
榊は小さく頷いた。
やはりそうか、と思う。
真空管そのものが完全に駄目になるなら、交換すれば済む。
だが、振動や接点不良で一時的に不安定になる故障は、再現性がない。
その場で直ったように見えて、次の振動でまた黙る。
そうなると現場の整備兵も設計側も振り回される。
――《接触不良の再現性低下は整備工数を増大させます》――
――《前線では“原因不明”として扱われる可能性が高いです》――
(分かってる)
榊は心の中だけで返しながら、今度はソケットの内側を観察した。
接点金具の張りが弱い。
個体によっては、保持力に差が出るだろう。
しかも湿気の多い環境で使えば、酸化も進む。
「森本さん」
「何だ」
「この型、現場から戻ってきた個体ですよね」
「ああ。通信不良だの感度低下だの、報告はいろいろだ」
「戻ってきた台数は?」
「このひと月で十数台。多い時はもっとある」
「同じ故障扱いですか」
「そこがはっきりしない」
森本が苛立ったように顎を撫でた。
「だから面倒なんだ。受信感度のせいだと言う班もあれば、送信出力のせいだと言う班もある。配線を締めたら直ったって話もあるし、真空管を替えたら動いたって報告もある」
榊はそこで、もう一台の無線機にも目を向けた。
同型のはずなのに、配線の収まり方が微妙に違う。
真空管の差し込み具合も、金具の締まりも、ほんの少しずつ差がある。
「……同じ型じゃないみたいだ」
真田が眉をひそめる。
「何だと」
「図面上は同じでも、実物のばらつきが大きい。配線の取り回しも、固定の仕方も、ソケットの食い付きも微妙に違う。これじゃ故障の出方が揃いません」
真田はむっとした顔になる。
「現場では多少の差は出ます」
「多少ならいいです。でも、現場の整備兵が“同じように直せない”差は困る」
「整備兵の都合で設計を語るな」
「設計だけで戦争するならそうしますよ」
ぴしゃりと返した瞬間、自分でも少し言い過ぎたと思った。
だが、引っ込める気にはならなかった。
「兵器って、工場で完成した瞬間が一番偉いわけじゃないでしょう。前線で動き続けて初めて意味がある」
黒川がそこで、初めて少しだけ口元を緩めた。
「君は軍人向きではないな」
「それはたぶん、そうでしょうね」
「だが言っていることは、現場の整備将校に近い」
榊は答えず、今度は電源部へ手を伸ばした。
こちらも気になっていた。
真空管の熱が逃げにくい位置に、電源まわりの部品が寄っている。
部材の耐久性も現代ほど安定していない時代だ。
なら、長時間の使用で真っ先に弱る箇所が出てもおかしくない。
「ここも嫌ですね」
久世が覗き込む。
「電源か」
「熱がこもる。配置がきついです」
真田が反論する。
「真空管を使う以上、熱は避けられません」
「避けられないのと、逃がさないのは違います」
榊は電源部周辺を指した。
「ここ、真空管の熱をまともに受ける位置に部材が寄りすぎてる。長く使えば先に弱る部品が出る。しかも電源まわりが不安定になると、故障が全体に散って見える」
「散って見える?」
黒川が問い返す。
「はい。送信側が悪いのか、受信側が悪いのか、真空管か、配線か、あるいは単なる接触か。原因が一点に見えなくなる。前線では“調子が悪い”としか上がってこない可能性があります」
久世が腕を組み、うなった。
「……それもあるな。報告書が妙にぼやけるやつだ」
真田はなおも納得しきれていない顔だった。
「ではどうする。熱など目に見えん」
「だから厄介なんです」
榊は言った。
「壊れてからじゃ遅い。温度そのものを測れなくても、“どこが先に弱るか”を予測して先に見る。少なくとも点検順には入れるべきです」
――《観点は妥当です》――
――《ただし、現地で温度管理の数値化は困難です》――
――《代替として、長時間運転後の触診と劣化痕観察が有効です》――
(言われなくても、そのくらいしかない)
榊は心の中で返しつつ、久世へ向き直った。
「すぐやれることならあります」
「何だ」
「まず、故障の出やすい順を決める。真空管ソケット、接点、電源部、その次に配線。全部を一度に見ろじゃなくて、最初に疑う場所を揃えるんです」
「それだけで変わるか?」
「変わります。少なくとも、前線で迷う時間は減る」
真田が苛立ったように机を叩く。
「結局それか。整備兵の教育で補えばいい話でしょう」
「補えません」
「なぜ言い切れる」
「人は疲れるからです」
榊は真田をまっすぐ見た。
「眠ってなくて、暗くて、急いでいて、しかも怒鳴られながら整備する人間に、“ちゃんと考えろ”は通じません。だから、考えなくてもある程度同じ順番で見られるようにしておくべきなんです」
工場の隅で、誰かが工具を落とした。
甲高い金属音が、一瞬だけ会話を切る。
黒川がその音の方を見てから、ゆっくり榊へ視線を戻した。
「君は、戦場を見たことがあるのか」
「ありません」
「だろうな」
「でも、壊れた機械の報告書は何百枚も見てきました」
それは嘘ではなかった。
時代は違っても、現場は同じだ。
設計者が想定した使い方で壊れる機械の方が少ない。
榊は机上の無線機を軽く指で叩いた。
「真空管は嘘をつきません。精度が甘ければその分だけ不安定になるし、熱が逃げなければその分だけ弱る。設計者の希望じゃ動いてくれない」
久世が、そこで初めて少し笑った。
「面白いことを言うな、お前」
真田は苦い顔のまま黙り込んでいた。
だが完全に否定もしていない。少なくとも、榊の言葉が故障報告の実態と噛み合っていることは感じているのだろう。
黒川が言う。
「試そう」
真田が顔を上げる。
「黒川さん」
「一台、長時間運転後に点検だ。榊の言う順番で見て、記録を取る」
久世も頷く。
「ちょうどいい。戻り品で怪しい個体がある。昨日も動いたり止まったりしていたやつだ」
森本がすぐに棚から一台持ってきた。
塗装の剥げた外装。補修痕のある側板。現場を何度も往復した機械だとすぐ分かる。
「これです」
榊はそれを受け取り、ゆっくり机へ置いた。
「真田さん、この個体、運転時間は」
「詳細は記録にあるが……長い。かなり使われている」
「ならちょうどいい」
榊はソケット部をもう一度見た。
表面上はまだ保っている。
だが熱と振動を重ねれば、こういう差は必ず顔を出す。
――《実証機会です》――
――《観察を優先してください》――
(分かってる)
「森本さん、通電できますか」
「やれる」
「なら少し回しましょう。熱を入れた後で見たい」
真田が不満そうに言う。
「そんなことで何が分かる」
「分からなければ、それでいいです。でも分かる可能性はある」
「可能性ばかりだな」
「戦場の故障報告だって、最初は可能性ばかりでしょう」
真田は口を閉じた。
森本と久世が動き、簡易の試験準備が始まる。
その間、榊は無線機の外装に触れながら、自分でも妙な感覚にとらわれていた。
ほんの少し前まで、自分は2026年の試験室にいたはずだ。
高周波電源のノイズだ、絶縁距離だ、熱だ、効率だと騒いでいた。
それが今は、真空管無線機のソケットの遊びを見ている。
だが不思議なことに、まるで無関係とも思えなかった。
時代が変わっても、機械が壊れる理由の根本は案外変わらない。
無理な熱、甘い接点、ばらつく部材、現場を見ない設計。
それは何十年経っても人間が繰り返す失敗だった。
「通るぞ」
森本の声で、榊は顔を上げた。
無線機に電源が入る。
真空管の中に、じわりと灯がともる。
橙色の光は頼りなく、それでいて生き物みたいでもあった。
榊はじっと見つめる。
この時代の技術は粗い。
だが未熟なわけじゃない。
足りないのは魔法の新技術ではなく、正しく積み上げるための考え方かもしれない。
――《真空管は嘘をつきません》――
頭の奥で、珍しくその“声”が榊の思考をなぞるように言った。
榊は小さく息を吐く。
(分かってるよ)
無線機の灯りが、弱く揺れたように見えた。
「……まずは、そこからだ」
誰に向けた言葉でもなく、榊はそう呟いた。
届かない命令は、最初の敗因になる。
そしてその敗因は、案外こういう小さな緩みから始まっている。
ならば、まず一つ。
この緩みを暴く。
榊恒一にとって、それがこの時代で掴んだ最初の“勝ち筋”だった。




