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太平洋戦争の時代に戻った俺、真空管から日本を立て直します  作者: Diamond ruler


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第15話 末端に届いた改善は、もう後戻りできない

吉岡少佐が去ったあとも、試験棟の空気はすぐには緩まなかった。


紙の上では、何も決着していない。

正式手順は変わっていない。

参考資料は参考資料のままだ。

補足観察欄も、搬送後確認も、今はまだ“試験場内での工夫”に過ぎない。


だが、榊には分かっていた。

もう後戻りはしにくいところまで来ている。


現場に届き始めたからだ。


それは大きな戦果ではない。

勲章にもならない。

上層部の会議で誇らしく語られる種類の成果でもない。


だが、通信兵が故障箇所を迷わず追えるようになった。

見張り員が表示の尾に惑わされる回数が減った。

それは確かに現場の何かを変え始めている。


「榊君」


葛城が机の上の紙束を整理しながら言った。


「君、少し顔つきが変わったな」


「そうですか」


「前は“改善できるかもしれない”顔だった」


葛城は一枚の報告書を持ち上げた。


「今は“もう引けない”顔だ」


榊は苦笑するしかなかった。


たしかにそうだった。

最初は、無線機の真空管ソケットから始まった。

次に電源部の熱。

記録の分類。

搬送後確認。

表示の揺れ。

数ミリの調整。


全部、小さい。

小さいが、ひとつでも止まればその先の改善が途切れる。


「引けませんよ」


榊は静かに言った。


「もう現場で使われ始めてる」


伊集院が腕を組んだまま鼻を鳴らす。


「正式配布ではないがな」


「でも回ってるんでしょう」


「……一部にはな」


その答えで十分だった。


榊が前にいた時代でも、現場で本当に役に立つものは、制度の整備より先に広まることがある。

上が認める前に、困っている人間が勝手に使い始める。

なぜなら、その方が助かるからだ。


黒川が低く言った。


「問題はそこだ」


「何がです」


「末端に届き始めた改善は、もう“試験場の中だけの話”では済まない」


榊は頷いた。


その通りだ。


もし今ここで補足資料も確認票も引っ込めれば、現場はむしろ混乱する。

昨日までより少しましになったものを、また元に戻せば、不満も疑念も生まれる。

つまり改善は、届いた瞬間から責任になる。


葛城が一通の紙を差し出した。


「ちょうど今朝、これが来た」


榊は受け取る。

粗い字で書かれた短い報告だった。

南方へ回された通信機材についての補足連絡。

整備担当からの私信に近い書式で、正式文書というより現場のメモに近い。


故障時点検順序表、役立つ。

特に真空管と接点の確認順があるだけで、現場の無駄が減る。

正式なものか不明だが、追加配布を乞う。


榊は一度だけ目を閉じた。


短い。

雑だ。

だが、それで十分だった。


「来たか」


黒川が言う。


「来ましたね」


葛城も少しだけ口元を緩める。


伊集院だけは、複雑な顔のままだった。


「これで厄介になった」


「厄介?」


榊が問うと、伊集院は紙を指で叩いた。


「現場に効いていると分かった以上、止めにくくなった。だが正式に通っていない以上、広げるにも理屈が要る」


「板挟みですね」


「その通りだ」


伊集院は忌々しそうに言った。


「一番面倒な状態だ」


榊は紙を見下ろしながら考えた。


ここで必要なのは、たぶん“正しさの証明”だけではない。

現場が既に使っているものを、どう制度側へ引き上げるか

だ。


その時、頭の奥であの“声”が静かに響いた。


――《下から自然発生した改善は、しばしば上層部に嫌われます》――

――《ただし、既存の目的へ言い換えれば制度に接続可能です》――


(既存の目的、か)


――《はい》――

――《現場救済ではなく、整備効率向上》――

――《場当たり対応ではなく、返送品分析の標準化》――

――《独自手順ではなく、既定手順の補完です》――


榊は、そこで少しだけ笑いそうになった。


「また姑息なことを言う」


葛城が怪訝そうに見る。


「何か言ったか」


「いえ。ちょっと、整理がついただけです」


伊集院が眉をひそめる。


「どう整理した」


榊は手の中の紙を持ち上げた。


「これ、現場救済の話として出すと弱いです」


黒川がすぐに反応する。


「なら何だ」


「整備効率です」


葛城の目が細くなる。


「続けろ」


「確認順序表が役立っている、じゃなくて、“返送前の一次確認を統一することで、現場整備の無駄と工場返送の混乱を減らせる”と出すんです」


伊集院が腕を組み直す。


「つまり、現場のためではなく、整備系統全体の効率化だと」


「そうです」


榊は頷いた。


「現場が助かるのは事実です。でも上に通すなら、“全体の負担を減らす”話に変えた方がいい」


黒川が低く笑うように息を抜いた。


「やはり軍人向きではないな」


「よく言われます」


「だが、兵器局に通すならその方がいい」


葛城も頷いた。


「現場の便利帳ではなく、返送品分析と一次確認の補助票か」


「はい。正式整備手順の代わりじゃなく、その前段です」


伊集院はしばらく黙っていたが、やがてぼそりと言った。


「……気に食わんが、通し方としては正しい」


「ありがとうございます」


「褒めてない」


「分かってます」


少しだけ、空気が緩む。


だが、その時だった。

試験棟の外から足早な音が近づき、若い兵が戸口に現れた。


「葛城中尉!」


「何だ」


「第二試験棟からです。搬送後確認を入れた乙型の一台で、再設置後の初期揺れが規定より大きいと」


伊集院が即座に顔を上げた。


「どの個体だ」


「昨日の記録では問題なし、搬送後に悪化したものです」


黒川が短く言う。


「行くぞ」


全員が動き出す。


榊も反射的に紙を机へ置いたが、その瞬間に一つだけ理解した。


もう、誰もこの改善を“榊の思いつき”として扱っていない。

問題が起きれば、搬送後確認の観点で見る。

初期揺れという言葉で共有される。

どの段階で崩れたかを追う。


それはつまり、改善が末端に届いただけでなく、現場の言葉そのものを少し変え始めているということだった。


第二試験棟へ向かう廊下を走りながら、榊は胸の奥に小さな熱を感じていた。


末端に届いた改善は、もう後戻りできない。

だったら次に必要なのは、止めることではなく、支えることだ。


広がるほど敵を作る。

だが広がるほど、味方もまた増えていく。


その手応えを、榊は確かに感じ始めていた。

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