第14.5話 現場では、紙一枚の方がありがたい
南方へ向かう輸送船の腹の中は、昼でも薄暗かった。
木箱。油の匂い。湿った空気。
波のたびに船体が低く唸り、積まれた資材がわずかに軋む。
その一角で、通信兵の柴山一等兵は膝をついたまま、無線機の外装を開けていた。
「またかよ……」
向かいで木箱に腰掛けていた整備兵の西村上等兵が、渋い顔で煙草の箱を指で弾く。
「今度は何だ」
「いや、まだ何とも言えません。さっき一回、受信が薄くなったんで」
「薄く、ねえ」
西村はそう言いながらも、怒鳴ったりはしなかった。
前なら「叩けば直るだろ」で終わっていたかもしれない。
だが最近は違う。少なくとも、この船に積まれた新しい紙のせいで、最初に見る順番だけは皆が共有し始めていた。
柴山は胸ポケットから、折り畳んだ紙を取り出した。
端がすでに汗で柔らかくなっている。
印刷ではなく、粗い複写の文字だ。
故障時点検順序
一、真空管の差し込み確認
二、接点の緩み・汚れ確認
三、電源部の異常発熱確認
四、配線の外れ・断線確認
西村が苦笑する。
「その紙、ずいぶん使い込んでるな」
「分かりやすいんですよ」
柴山はそう言って、まず真空管の根元を軽く押した。
「前は、どこから見ればいいかで止まってましたから」
「お前だけだろ、それ」
「先輩だって、前は配線から追ってたじゃないですか」
西村は返事の代わりに鼻を鳴らした。
たしかにその通りだった。
真空管か、配線か、電源か。
毎回、最初の一手で迷う。
迷っているうちに「とりあえず叩くか」になりがちで、それで直ったように見える時もあれば、そうでない時もある。
だが最近は、この紙が来てから少し違った。
柴山は真空管を抜き、根元を見て、それから差し直す。
もう一度固定を確かめる。
次に接点。
湿気のせいか、やはり少し嫌な曇りがあった。
「やっぱここか」
「何だ、当たりか」
「たぶんです。汚れてる。……あと、ちょっと食い付きが甘い」
西村が腰を上げる。
「見せろ」
柴山が手元を差し出すと、西村もすぐ顔つきを変えた。
「ああ、これは嫌だな。動いたり動かなかったりしそうだ」
「ですよね」
「前だったら絶対、“感度が悪い”で済ませてたぞ」
柴山は苦笑した。
「実際、この紙来る前はそうでした」
その時、船体がひときわ大きく揺れた。
吊られていた工具が小さく鳴る。
二人は無線機を押さえながら、同時に顔をしかめた。
西村がぼそりと言う。
「こういう時だよな、壊れるの」
「ですね」
「工場の連中も、最初からこういう揺れで試せばいいのに」
柴山は真空管を戻しながら、小さく笑った。
「最近は、そういうのも考えてるって話、聞きましたよ」
「誰から」
「前に戻ってきた整備兵です。試験場で、運んだ後の確認まで始めたとか」
西村は半信半疑の顔をした。
「ほんとかよ」
「さあ。でも、この紙が来たってことは、前よりは誰かが考えてるんじゃないですか」
西村は少し黙ってから言った。
「……まあ、前よりは助かってる」
それは、この人にしてはかなり素直な言い方だった。
通電を戻す。
真空管に灯がともり、受信音が立つ。
さっきまであった薄い揺れが、今はない。
柴山は耳を澄まし、しばらく待ってからようやく肩の力を抜いた。
「戻りました」
「ほんとか」
「たぶん大丈夫です」
西村は小さく息を吐いた。
「紙一枚で変わるもんだな」
「紙一枚っていうか、順番ですかね」
「同じだろ」
「いや、違いますよ」
柴山は畳んだ確認票を胸ポケットへ戻した。
「前は“何となく見てる”だけだったんです。今は“どこから見るか”がある」
西村はその言葉に少しだけ納得したような顔になった。
「……なるほどな」
船の外では波の音が続いている。
戦場はまだ先だ。
だが、こういう場所で壊れる機械は、たいてい前線でも壊れる。
西村は木箱へ腰を戻しながら言った。
「しかしよ、新型ってほどでもないのに、やたら紙ばっか増えたな最近」
柴山は笑った。
「でも前より静かですよ」
「何がだ」
「無線機です」
西村は一瞬だけきょとんとして、それから短く笑った。
「……たしかにな」
輸送船の腹の中で、無線機は小さく息をしていた。
派手な新兵器ではない。
誰もそれを名機とは呼ばないだろう。
だが、前より少し壊れにくく、前より少し戻しやすい。
それだけで、戦場では十分に意味がある。
柴山は胸ポケットの中の紙を指で確かめた。
誰が作ったのかは知らない。
工場の技師か、試験場の士官か、あるいはどこかの変わり者か。
そんなことは分からなくてもよかった。
現場では、紙一枚の方がありがたい。
少なくとも、役に立つならそれで十分だった。




