第5節 偽りの契約と、保留された答え 「一番安全な女」として契約結婚ならぬ契約恋人を申し込む尊。結衣は「答えを決めない」ままそれを受諾する。
第5節 偽りの契約と、保留された答え 「一番安全な女」として契約結婚ならぬ契約恋人を申し込む尊。結衣は「答えを決めない」ままそれを受諾する。
「私と、契約を結ばないか」
尊の言葉に、結衣はパチリと瞬きをした。
契約。
その響きは、この平穏な図書室には似つかわしくない。
「具体的には、どのようなことでしょうか?」
「私の『恋人』のフリをしてほしい」
尊は淡々と続けた。
麗華をはじめとする有力者の令嬢たちからの執拗なアプローチ。
親たちが勝手に進めようとする政略結婚の打診。
それらをすべて遮断するための「盾」が欲しいのだという。
「君なら、私に何も求めてこないだろう。権力も、金も、愛さえも。君はこの学園で最も権力欲がなく、私にとって最も『安全な女』だ」
普通なら、屈辱的だと怒るかもしれない。
あるいは、玉の輿のチャンスだと狂喜乱舞するかもしれない。
だが、結衣の胸に現れたのは、小さな戸惑いだけだった。
(……恋人。それは「生」の営みの中でも、特に煩わしいものの一つじゃないのかな)
すると、結衣の足元に、再び「おつまみ」が姿を現した。
おつまみは、結衣のふくらはぎにスリスリと体を寄せ、イメージを送る。
『良いではないか。物事の善悪、損得など「答えを決めない」まま保留しておくのも、一つの知恵だ。流れるままに、その波に乗ってみるがいい』
「……無記、ですね」
結衣は小さく呟いた。
物事の結果を今すぐ出そうとせず、ただ状況を受け入れる。
「分かりました、御影様。私であなたの平穏が守られるのであれば、お引き受けします」
「……いいのか? 私と関われば、君の日常は激変するぞ。非難も浴びるだろう」
「他の方の評価は、私の心の持ちようには関係ありませんから」
結衣は微笑んだ。
それは、聖女のような慈愛に満ちた、だが同時にすべてを悟りきったような不思議な微笑みだった。
「ただ、条件が一つあります」
「……なんだ? 金か?」
「いいえ。……放課後のこの時間は、今まで通り図書室で、本を直させてください。私のこの『雑用』を、邪魔しないと約束していただけるなら」
尊は目を見開いた。
自分の価値よりも、古い本を直す時間を優先する女。
「……ああ。約束しよう」
こうして、学園の絶対王者と、最底辺の特待生による、前代未聞の「契約」が成立した。
結衣は気づいていなかった。
彼女が手に入れた「自分軸の確立」が、これから学園のガチガチに固まった階級制度を、根底から崩壊させていくことになることを。
そして、冷徹な王者の心が、彼女の「透明な優しさ」によって、修復不可能なほどに奪われていくことを。
おつまみは、結衣の足元で満足げに一回転すると、また空気の中に溶けて消えていった。
「……さて、続きを始めましょう」
結衣は再び、和紙と糊を手に取った。
新しい運命の歯車が回り始めた音は、ページをめくる音の中に、静かに紛れていった。




