第八話 風が騒ぐ夜
宿泊研修地・風ヶ森。
夜が、ゆっくりと森を包み込んでいく。
虫の声、遠くで鳴る水のせせらぎ──そのすべてが、眠りを誘うはずの音だった。
宿の玄関先。
四月レンが、夜風を受けながら立っていた。
その姿は月光を背に、まるで闇と一体化しているようだった。
「四月さん?」
背後から黒八空の声。
黒髪をなびかせて近づく彼女の顔には、少しの不安が浮かんでいる。
「……すぐ、戻る」
短く、冷たく。それだけを言い残す。
四月の声は、風の音に掻き消されそうなほど淡かった。
彼女は“ⅩⅢ”の一員。
命令が下ったのだ。
一時的に、宮中潤と共にこの場を離れる必要があった。
黒八はその背を見送りながら、胸の奥に妙なざわつきを覚えた。
──嫌な風が吹いている。
一方その頃。
男子の更衣室では、夜騎士凶を中心に、いつものように軽口が飛び交っていた。
体操服を脱ぎながら、風悪の頭の翅に視線が集まる。
「風悪って、それ……頭、洗えんの?」
夜騎士が笑いながら言う。
「洗えるよ! 翅が邪魔だけどな」
風悪が苦笑して答えると、今度は二階堂秋枷に視線を向けた。
「なあ、二階堂。そのチョーカー、外さないのか?」
「え? ああ……これ?」
二階堂は指で黒いチョーカーをなぞる。どこか、言葉を濁した。
その会話を、こっそり覗いていた女子組の三人が耳にしていた。
三井野燦、妃愛主、そして七乃朝夏。
更衣室の戸口の影に身を潜め、こそこそと様子を伺っている。
「ねえねえ、今の聞いた? 風悪って頭に翅あるのに髪洗えるんだって!」
妃がひそひそと興奮気味に言う。
「愛主、声!」
三井野が慌てて口に指を立てた。
だが、七乃はいつもの明るさを失っていた。
二階堂のチョーカーを見つめたまま、瞳から光が消えている。
「七乃さん?」
三井野が不安そうに声をかける。
七乃はゆっくりと立ち上がり、目を伏せたまま言った。
「私が……愚かでした。戻りましょう」
短い言葉。だが、そこに何かの決意のような重さがあった。
三井野は咄嗟に妃の腕を引く。
「愛主も行こう!」
「そそ、こういうのは普通逆でしょ?」
妃は笑顔を見せながらも、どこか浮ついていた。
「ダメだよ!」
三井野が制すと、妃は両手を上げて肩をすくめた。
「分かってるって」
「ほんとかな?」
三井野が突っ込んだその瞬間だった。
“音”がした。
遠く、風を裂くようなざらついた音。
誰よりも先に反応したのは夜騎士だった。
「……今の、聞こえたか?」
空気が、変わる。
夜騎士の表情が一瞬にして引き締まる。
「どうした、凶?」
風悪が問う。
「外が──騒がしい」
彼の声に、全員の動きが止まった。
次の瞬間、宿の外でガラスが割れるような音が響いた。
風が荒れ、ざわざわと木々が悲鳴を上げる。
窓の向こう。
闇の中で、無数の赤い目が光っていた。
森が──蠢いている。
宿の周囲に、無数の魔物が出現していた。
そのどれもが、“魔”に侵された獣たち。
咆哮。
風悪たちの胸の奥まで響くような低い唸りが、森の闇を満たした。
宿の灯が、ひとつ、ふたつと消えていく。
風が逆流し、空気が凍りついた。
黒八が息を呑み、口元を押さえる。
七乃は祈るように手を組んだ。
二階堂のチョーカーが、かすかに震えた。
そして──
夜の静寂が、完全に破られた。
“風が騒ぐ夜”が始まった。
おびただしい数の魔物が、宿をめがけて駆けてくる。
その轟音は地鳴りのようで、森全体が唸っているかのようだった。
夜騎士は、いち早く異変を察知して外へ飛び出した。
王位富、風悪も体操服のまま、それに続く。
「これ……全部、“魔”の影響か?」
風悪が息を呑む。
「中には、昼間の大人しいタイプも混じってる」
王位が光の剣を握りしめ、使命感を宿した瞳で答える。
「行くぞ!」
夜騎士が声を張る。
その瞬間、空気が裂けた。
夜騎士の身体から青黒い影が溢れ、鎌の形を取る。
王位の剣が眩い光を帯び、夜を照らす。
二人は息を合わせ、襲い来る魔物を次々と切り伏せた。
しかし、一頭の魔物が彼らの死角から抜け、宿へと突進する。
その窓越しに映るのは、黒八の姿。
風悪は即座に風を巻き起こし、壁のような障壁を作り出した。
砂と枝葉が舞い、衝撃波が空気を震わせる。
「風悪君!」
黒八の声が宿の中から響いた。
「黒八はみんなと避難を!」
風悪は叫び返す。
その声は震えていたが、確かな決意があった。
風悪は風の刃を放ち、魔物を切り裂く。
血煙の中、息を荒げながら次の魔物へと構え直した。
宿の中。
二階堂と七乃が窓際に立っていた。
外の光と影の戦いを、固唾をのんで見守る。
「七乃さん……大丈夫かな?」
震える声で二階堂が問う。
七乃は、迷いのない瞳で彼の手を取った。
「大丈夫ですわ。何かあっても、わたくしがなんとかします!」
その目に宿る覚悟に、二階堂は言葉を失う。
「……ありがとう」
その一言に、七乃は小さく微笑んだ。
だが、外では状況が悪化していた。
魔物の数は減らず、次々と宿の壁を破壊し侵入してくる。
三井野は歌の異能で魔物を鎮めようとしたが、
“魔”に支配された個体には効果がなかった。
唄声が掻き消え、黒い影が迫る。
「燦っ!」
妃が飛び出し、三井野を庇った。
妃の異能は“洗脳”──だがそれは異性限定。
この場では、ただの少女に過ぎなかった。
爪が閃く。
妃の腕に、細い傷が走った。
「燦! 大丈夫!?」
妃が叫ぶ。
「私は大丈夫……愛主こそ……」
三井野が必死に支える。
「このくらい……! あたしは平気!」
妃は血を拭い、笑ってみせた。
だがその声は震えていた。
その時──
夜騎士が駆け込む。
青黒い鎌が弧を描き、魔物の群れを一掃する。
「凶君!」
「凶!」
「三井野! 愛主! 奥へ逃げろ!」
夜騎士の声が鋭く響く。
三井野が妃の手を握り、宿の奥へと駆けた。
「っ……! どんだけ居やがる!」
夜騎士は額の汗を拭いながら、低く唸る。
外では、風悪が孤軍奮闘していた。
風が唸り、土煙が舞い上がる。
地面には切り伏せられた魔物の死骸が散らばっていた。
「……数が多すぎる……」
息を切らし、風悪は立ち尽くす。
胸の奥で考えが巡る。
(なぜ、こんなにも魔物が……?)
脳裏に浮かぶのは、四月の言葉。
『“魔”は誰かの中にいる』
風悪は、ひとつの答えに行き着く。
──この中に、“魔”を宿す者がいる。
だが、すぐにその思考を振り払った。
(違う……考えたくない……!)
頭を振り、風を呼ぶ。
「なんとかする!」
風悪の全身から気流が立ち上る。
その風に、黒八の黒髪が揺れた。
「風悪君……」
黒八は、物陰に身を潜めながら彼を見つめていた。
避難しろと言われたのに、足が動かなかった。
ただ、彼が倒れるのを見たくなかった。
その瞬間──
魔物が背後から襲いかかる。
「きゃ──!」
悲鳴。
風悪は反射的に振り向いた。
「黒八!?」
風が渦を巻き、彼女を包もうとする。
だが一瞬、足がふらついた。
体力は限界に近かった。
視界が揺れる。
黒八と目が合った。
──彼女が、笑った。
(……笑った?)
「世話の焼ける宿主様だ」
その声音は、これまでの黒八とはまるで違っていた。
落ち着き払った冷たい声。
次の瞬間、炎が爆ぜた。
ゴオッ。
轟音とともに、魔物が一瞬で燃え上がる。
黒八は微動だにしない。
その背には、淡い紅の紋様が浮かんでいた。
それは太陽の紋。
風悪の胸が高鳴る。
(あれが……“太陽”か……!)
「さて、全て燃やしてやりたいところだが……」
黒八は静かに言う。右手から放たれる炎は制御され、揺らめく灯火のように美しかった。
「諸々への影響を考えると、どうもな……」
冷静な声。
森を焼かぬように、炎を小さく収めていく。
けれど、彼女の中に潜む力は確かに目覚めていた。
そして──
「必要はなさそうだ」
黒八が目を細めた。
風悪は顔を上げる。
森の奥。
閃光が走った。
稲妻の尾が、魔物の群れをまとめて貫く。
轟音。
炎と光が交差し、夜空が昼のように照らされた。
その光の中に立つのは、四月レン。
「戻るのに少しかかったが──私が来た以上、誰にも手は出させない」
その声は冷静で、だがどこまでも強かった。
王位と夜騎士が振り返る。
風悪は立ち上がり、息を呑む。
“ⅩⅢ”の名に相応しい力が、今、夜を裂いていた。
主なキャラ
・風悪…主人公。頭の左側に妖精の翅が生えている少年。
・一ノ瀬さわら(いちのせ)…鼻と首に傷のあるおさげの少女。
・二階堂秋枷…黒いチョーカーをつけている少年。
・三井野燦…左側にサイドテールのある少女。
・四月レン(しづき)…左腕にアームカバーをしている少女。
・五戸このしろ(いつと)…大きなリボンが特徴の廃課金少女。
・六澄わかし(むすみ)…黒髪に黒い瞳、黒い額縁の眼鏡に黒い爪の少年。
・七乃朝夏…軽くウェーブのかかった黒髪の少女。
・黒八空…長い黒髪の少女。お人よし。
・鳩絵かじか(はとえ)…赤いベレー帽が特徴的な少女。
・辻颭…物静かにしている少年。
・夜騎士凶…左眼を前髪で隠している顔の整った少年。
・妃愛主…亜麻色の髪を束ねる少女。
・王位富…普段は目を閉じ生活している少年。
・宮中潤…黒いマスクで顔下半分を覆う男性。担任。




