第七十四話 群集の胎動
四月レンは駆けていた。
風のように、影を追うように――。
目指すのは玄関ホール。
そこには、北乃ムラサキ。
(六澄わかし……もっと、過去が見えれば……)
靴音が硬い床に響く。
彼女の視界には、波のように揺れる光の残滓。
過去視の断片が、断続的にノイズのように点滅していた。
(本体の私ほどの力があれば……)
四月は、唇を噛む。
彼女はこの世界に投影された“分体”に過ぎない。
本体は“外の世界”にあり、ここではその力を完全に発揮できない。
それが、常に彼女の胸を苛む。
「……っ! 侵入者か」
一瞬、視界の端で影が動いた。
その気配を察知したが、四月は足を止めなかった。
* * *
一方その頃、風悪と六澄わかし。
二人もまた、四月を追って玄関ホールを目指していた。
「速いな、あの人……」
風悪が息を整えながら呟く。
六澄は眼鏡を指で押し上げ、淡々と答える。
「彼女は“感覚”が人と違う。焦っても無駄だ」
二人が角を曲がったその瞬間――。
ガシャン!
廊下の外側のガラスが砕け散る。
粉塵の向こうから、一人の青年が現れた。
冬芽直臣。
その瞳は濁った灰色。
唇の端から微かに笑みが漏れる。
「……敵か」
風悪は反射的に腕を構え、風を展開した。
渦が生まれ、空気が唸る――だが。
バシュッ。
風が、音もなく霧散した。
「なっ……!?」
冬芽の異能――《静破》。
音と振動、衝撃を完全に消去する能力。
風悪にとっては、最も相性の悪い相手だった。
「相殺された……」
風悪が焦る間もなく、六澄が一歩前に出た。
影が揺れる。
彼の足元から闇が伸び、細く鋭い“串”となって地面を貫く。
ドシュッ――!
黒い影の槍が、冬芽の身体を突き上げた。
吐血の音もなく、冬芽はその場で崩れ落ちた。
六澄の異能――《闇使い》。
形を変え、意思を持たぬまま、命令通りに“穿つ”。
風悪が息を呑む。
「……強い」
「必要最低限の動きだけで、十分だ」
六澄の声は、冷たく平板だった。
だが次の瞬間――。
「いいね、その異能!」
背後から声。
風悪だけが振り返る。
そこに立つもう一人の侵入者。
名を、流影。
彼の掌が光り、六澄と同じ“影の形”が展開されていく。
「お前……異能のコピーか」
「察しがいいな。短時間だけ、他者の波形を模唱できる」
模唱――他者の異能を一時的に再現する能力。
六澄の影の構造を、完璧にコピーしていた。
「真似……」
六澄は小さく息を吐き、振り返らずに影を広げる。
ザッ――。
壁のように立ち上がった影が、後方からの攻撃をすべて遮断した。
衝突の音すらない。
ただ闇と闇が擦れ合い、静かに溶け合う。
「……やはり強い」
風悪の口から短く漏れる。
「つか、あんた……この前、拠点に来てなかったか?」
流影が影の壁を見ながら、挑発するように言った。
「今は悪事はしない。このしろの命令だからな」
六澄は表情を変えず、淡々と答えた。
「……」
風悪は何も言えず、そのやり取りを見ていた。
信じるべきか、疑うべきか。
六澄の言葉には真も偽も混ざっていて、掴みどころがなかった。
* * *
同刻、玄関ホール。
割れた鏡の破片が床一面に散らばっている。
その中央に、白衣の女――久遠 礼巳が立っていた。
背後には二人の信徒。
足元には、北乃ムラサキの倒れた身体。
久遠は静かに呟く。
「ようやく、ここまで来た」
床に描かれた陣が、黒く蠢く。
学園全体を覆っていた結界が、逆流を始める。
封じていた“群集熱”が、今度は内側から溢れ出す。
「祈りは熱」
「熱は魔」
「魔は力」
久遠と信徒の声が重なる。
唱えのたびに、鏡の欠片が光を放つ。
その光はやがて形を持ち、空間そのものを歪め始めた。
「夢の再侵食……!」
四月が駆け込み、歯を食いしばる。
空気が震える。
壁が溶け、現実の輪郭がぼやける。
世界が、まるで誰かの“夢”に取り込まれていくようだった。
風悪が翅を震わせる。
「これは……音じゃない……“声”だ」
耳の奥に、誰かの囁きが響く。
――“願いを、還せ”。
床に描かれた陣が光を放ち、教室の床、廊下、空、すべてが溶けていく。
色も音も形も曖昧になり、ただ“熱”だけが世界を満たした。
風が逆巻き、風悪の視界が白く染まる。
次の瞬間、彼らは――夢の中にいた。
毒に侵された生徒たちが、
「生きたい」と願ったその想い。
その熱が“核”となり、形を持った“世界”。
風悪の周囲を、小学四年生ほどの子どもが走り抜けていく。
笑顔で、無邪気に。
その姿は、どこか現実の誰かに似ていた。
「なんだ、ここ……」
風悪が呟くと、隣の六澄が冷静に答える。
「夢の中、だな」
淡々とした声。
その目には恐れも驚きもない。
まるで、すべてを知っていたかのようだった。
子どもたちの声が、空気に溶けて響く。
「大きくなったらね、ⅩⅢに入るの」
「ボクもヒーローになるんだ」
「選ばれた! やった!」
歓喜と希望。
未来を信じて疑わない、小さな夢の断片。
風悪は立ち止まり、耳を澄ませた。
「子どもたちの声……」
ぽつりとこぼれた言葉は、風に溶けていく。
その笑い声は、まぶしいほどに明るかった。
だが次の瞬間――音が、歪んだ。
笑いが悲鳴へと変わる。
希望が、恐怖の音へと姿を変える。
* * *
先行していた四月レンが、足を止めた。
その瞳は、過去を見ている。
「やめろ……」
消え入るような声。
懇願にも似たその言葉は、誰にも届かない。
夢の中の子どもたちは、笑いながら泣いていた。
小さな手を伸ばし、どこかへ帰ろうとしていた。
「やめろ……やめてくれ……!」
四月の声は掻き消される。
笑い声が重なり、やがて悲鳴へと変わっていく。
世界がゆっくりと反転していった。
明るかった空が墨のように黒く染まり、
道は血のような赤に染まっていく。
――その光景を、四月は知っていた。
あの日。
「紅ノ災禍」と呼ばれた、異能暴走事件。
その記憶が、夢に“再生”されていた。
「……あれは、私たちの……原点……」
四月の肩が震える。
風悪は言葉を失った。
周囲の空気が波打つ。
風鈴の音のような高い音が、遠くで鳴った。
風悪は、胸の奥に熱を感じた。
(生きたい……という“風”が、吹いている)
風が形を持ち、淡い光となって舞い上がる。
夢の空が割れ、無数の光の粒が降り注いだ。
それは祈りの残滓――
かつて“選ばれた”子どもたちの願い。
「生きたい」
「帰りたい」
「名前を呼んで」
声が、重なる。
四月がゆっくりと目を閉じた。
「――夢は、まだ終わってない」
風が鳴る。
そして――再生が始まった。
主なキャラ
・風悪…主人公。頭の左側に妖精の翅が生えている少年。
・一ノ瀬さわら(いちのせ)…鼻と首に傷のあるおさげの少女。
・二階堂秋枷…黒いチョーカーをつけている少年。
・三井野燦…左側にサイドテールのある少女。
・四月レン(しづき)…左腕にアームカバーをしている少女。
・五戸このしろ(いつと)…大きなリボンが特徴の廃課金少女。
・六澄わかし(むすみ)…黒髪に黒い瞳、黒い額縁の眼鏡に黒い爪の少年。
・七乃朝夏…軽くウェーブのかかった黒髪の少女。
・黒八空…長い黒髪の少女。お人よし。
・鳩絵かじか(はとえ)…赤いベレー帽が特徴的な少女。
・辻颭…物静かにしている少年。
・夜騎士凶…左眼を前髪で隠している顔の整った少年。
・妃愛主…亜麻色の髪を束ねる少女。
・王位富…普段は目を閉じ生活している少年。
・宮中潤…黒いマスクで顔下半分を覆う男性。担任。




