第七十二話 風を取り込め
薄暗い空間に、ひとりの女が立っていた。
白衣の裾を引きずり、静かに壁を見つめている。
その瞳には、金色の輪のような紋。
名は――久遠 礼巳。
壁には、何枚もの写真が貼られていた。
風悪、四月レン、夜騎士、そして黒八空。
その中で、四月レンの写真だけが赤いバツで塗りつぶされている。
「“紅ノ災禍”からの計画、選ばれし子供たちが一人──」
久遠の声は静かだった。
けれど、その奥には焦りと渇望が混ざっている。
「やつさえいなければ、我々は還ることが出来る」
彼女にとって、“堕ちる”ことは敗北ではない。
“還る”――それが、一条会の教義だった。
二十五年前の異能暴走事件《紅ノ災禍》。
それは、異能者の力が暴走し、都市一つを焼き尽くした惨劇。
その後に形成された再生信仰団体こそが〈一条会〉である。
「祈りは熱、熱は魔、魔は力」
「ひとすじの理性を保ち、深淵を覗け」
「魔を恐れず、己を試せ」
久遠の周囲に、信者たちの声が反響する。
祈りというより、呪詛。
だが久遠の顔は恍惚としていた。
「……それでも、まだ足りない」
久遠は唇を噛み、焦燥を隠さず呟く。
いくら試しても、“真の魔堕ち”は実現しなかった。
理性を保ったまま堕ちる――それを成し遂げた信者はいない。
「どうして……」
その時、空気が揺れた。
暗闇の奥から、靴音がひとつ、またひとつと響いてくる。
黒い髪、黒い額縁の眼鏡、黒い爪の少年。
その顔は無表情。
六澄わかしが、そこに現れた。
久遠の金の瞳が動く。
「……あなたは?」
六澄は答えない。
ただ、無機質な声で言葉を落とした。
「風だ」
「……何?」
「足りないのは“風”だ」
六澄は壁に貼られた風悪の写真へ歩み寄る。
一歩ごとに、靴音が静かな室内に響いた。
「外の世界の者は“魔”の影響を受けない。なら、外の世界の者を使えばいい」
久遠の眉が動く。
「外の世界……? 影響を受けない……?」
「この世界の者ではそのほとんどが暴走する。
なら影響を受けない外の世界のものの因子を取り込むんだ」
久遠は息を呑む。
その意味を理解するのに、時間はかからなかった。
「つまり――」
六澄は最後の一歩を踏み出し、風悪の写真に指を置く。
「この風を、取り込む」
空気が震えた。
風もないのに、部屋の中の紙がひらりと舞う。
久遠はその光景を見て、口元を歪めた。
「……なるほど。風を堕としましょう」
六澄は何も返さず、ただ無言でその場を離れた。
背後で久遠の声が微かに響く。
「祈りは熱、熱は魔、魔は力……」
その祈りが終わるころ、室内の明かりがひとつ、またひとつと落ちていった。
* * *
北乃ムラサキの件から、一夜が明けた。
学園はどこか重たい空気に包まれていた。
生徒たちが持っていた“道具”はすべて回収された。
鏡も櫛も、紙刀も、願い札も――残らず、封印処分。
だが、生徒たちの間には不満と不安がまだ残っていた。
「でもこれで一安心……だよね?」
三井野が怯えたように言う。
「大丈夫ですよ、きっと」
黒八が優しく答えた。
「大元を何とかしないと、根本的な解決にはなってないけどね」
辻が淡々と確信を突いた。
風悪は机に肘をつきながら、深く息を吐く。
「一条会……か」
* * *
朝礼。
ホームルームの時間。
黒いマスクの教師――宮中潤が、教壇に立っていた。
その声はいつも通り静かで、しかし張り詰めている。
「合宿での封印結界を、今日はここで試す」
教室にざわめきが広がる。
「気づいているとは思うが、生徒間で“道具”が蔓延した。
このままでは、良くないものがやってくる」
「群集熱」
王位が低く呟いた。
「そうだ。
普段、学園には最低限の結界が張ってある。
今回はその補強も兼ねて、再展開を行う」
“群集熱”――人々の感情が熱として場に滞留する現象。
祭り、災害、戦、祈り……強い思いが集まった場所では、
空気そのものが記憶のように震え、時に“夢”や“音”として再生する。
今まさに、生徒たちの祈りと願いが、
その“群集熱”を再び呼び覚まそうとしていた。
宮中が静かに頷き、短く言う。
「これより作業に入る。各自、役割を果たせ」
* * *
昼下がりの校庭。
校舎を囲むように、生徒たちが配置についた。
山の分室で行った結界儀式を、今度は学園全域で再現する。
中央――結界核の位置に、王位が立つ。
「起動」
王位が剣を突き立て、光が走る。
刃先から放たれた波紋が地を這い、白い線となって校舎を囲った。
その周囲で風悪が両手を広げる。
「風の軌道、通す」
淡い風が王位の結界をなぞるように巡り、流れを安定させていく。
空気の“歪み”を抑える繊細な制御。
一ノ瀬が菌糸を放ち、光の結界点を固定する。
『ここ、繋ぐ』
菌糸が淡く光り、地面に縫い留めるように結び目を作った。
鳩絵が筆を走らせ、願いの残滓を絵に変えて封じる。
紙面の上で揺れる色が、そのまま札となって結界の“目”を塞ぐ。
「絵にして閉じれば、見えない熱も逃げない……っと」
七乃は精霊を呼び出し、全体の流れを整える。
淡い光の蝶が飛び、風悪と王位の結界線を優しく撫でた。
二階堂、黒八、辻は各結界点を巡回し、札を貼り直す。
「このあたり、波が不安定だね」
「了解です」
良からぬ“気配”を探るのは、三井野と夜騎士。
二人の感覚が交差し、微細な音と気流を捉える。
「異常なし……今のところは」
後方では、六澄・五戸・妃が物資を運びながら補給線を維持していた。
指示を出すのは宮中、全体の統括は四月レン。
「封印層、整ったぞ」
「よし。安定化処理に入れ」
再び、光が走る。
風、菌糸、剣、精霊、絵――それぞれの異能が一つの環へと繋がっていく。
重なり合った力が共鳴し、校舎全体を包む透明な膜が形成された。
それはまるで、淡い息吹のように光りながら脈打っていた。
* * *
「はー……終わったあ」
鳩絵が筆を放り出し、肩で息をつく。
「これで収まると良いのだけど」
妃が眉をひそめながら言った。
王位は剣を抜き、刃の光を見つめた。
「……一時的には、な」
風悪は空を見上げた。
校舎の屋根の上で、風鈴が一つだけ鳴る。
それはまるで――嵐の前の静けさのようだった。
主なキャラ
・風悪…主人公。頭の左側に妖精の翅が生えている少年。
・一ノ瀬さわら(いちのせ)…鼻と首に傷のあるおさげの少女。
・二階堂秋枷…黒いチョーカーをつけている少年。
・三井野燦…左側にサイドテールのある少女。
・四月レン(しづき)…左腕にアームカバーをしている少女。
・五戸このしろ(いつと)…大きなリボンが特徴の廃課金少女。
・六澄わかし(むすみ)…黒髪に黒い瞳、黒い額縁の眼鏡に黒い爪の少年。
・七乃朝夏…軽くウェーブのかかった黒髪の少女。
・黒八空…長い黒髪の少女。お人よし。
・鳩絵かじか(はとえ)…赤いベレー帽が特徴的な少女。
・辻颭…物静かにしている少年。
・夜騎士凶…左眼を前髪で隠している顔の整った少年。
・妃愛主…亜麻色の髪を束ねる少女。
・王位富…普段は目を閉じ生活している少年。
・宮中潤…黒いマスクで顔下半分を覆う男性。担任。




