第七十話 囁く願い、静かな感染
その日の放課後の教室は、いつになく静かだった。
夕陽が机を染め、長く伸びた影が壁を這っていく。
六澄わかしは、自分の席に腰を下ろしたまま動かない。
誰もいない教室で、ただ一点を見つめている。
机の上には、数枚のプリント。
そこに書かれているのは、風悪の因子コード、群衆熱残留記録──。
彼の手書きのメモがびっしりと走っていた。
中には読めない──古代の文法で書かれたものもあった。
(いいね、そうではくては)
六澄は静かにペンを転がした。
その音だけが、教室で生々しく響く。
(風悪、か……)
頭の中で、彼の名前を呼ぶ。
それは敵意でも友情でもない。
ただ「興味」──それだけ。
(いい線まで、行ったんだがな……)
六澄の唇がわずかに動いた。
その目は、誰かを見ているようで、誰も見ていない。
教室のドアが開く音がした。
黒八が顔を覗かせる。
「六澄君、まだ残っていんですか?」
「片付け」
六澄は淡々と答える。
そこに表情はない。
黒八は笑って手を振った。
「真面目ですね、あまり無理はしないでくださいね」
「ああ……」
その笑顔に見送られながら、六澄は机の上の紙を一枚めくった。
そこには四月レンの名前が記されていた。
「悪の主……か」
六澄はぽつりとつぶやいた。
名前の下には分析結果が、古代の文法で書かれていた。
『本体在真世界、分体烏発揮∀、本体∧分体悪主』
──謎の文字の羅列。
「群衆熱なら、あるいは──」
彼は立ち上がり、窓の外を見上げた。
夕焼けの向こう、学園の屋根の上に薄く光る結界の線が見えた。
(……さて)
風が一筋、頬を撫でる。
それに呼応するように、机の上の紙が一枚、ふわりと浮いた。
「人は恐れる。だから面白い」
六澄は小さく呟いた。
その声は、誰の耳にも届かない。
* * *
内部通達が届いたのは、朝のことだった。
十三部のメンバー全員に同時に回された簡潔な文面。
「六澄わかしに注意せよ」
その一文だけで、空気が変わった。
──特別対策室。
風悪、夜騎士、王位、辻、三井野が顔をそろえていた。
重い静寂。
誰も最初の一言を発せないまま、時間だけが流れていく。
「……六澄わかしが、か」
夜騎士がようやく口を開いた。
その声は低く、冷静で、それでいて奥に警戒が滲んでいる。
「一ノ瀬も言ってた。気をつけろって」
風悪が小さく答える。
「六澄が黒い妖精に似てるって。雰囲気も、しぐさも」
あの夢の中の存在――ラウロス。
風悪は確かに感じ取っていた。
けれど六澄には妖精の翅がない。
形としては繋がらない、けれど“匂い”が同じだった。
「何考えてるか分からないって、よく言うけど……」
風悪は息を吐いた。
「あいつの場合、本当に分からない」
「目的不明、か」
王位が低く呟く。
「六澄、それに一条会。いったい何が起きようとしてるんだ……」
風悪の声が少しだけ掠れた。
その横で辻が口を開く。
「……B組の信者も気になる」
その言葉に全員の視線が集まった。
十三部には、六澄以外にも「一条会」の信者が学園内にいるという情報が伝えられていた。
名は――北乃ムラサキ。
「噂を最初に流した生徒だよね」
三井野が確認するように言った。
「“高みに上がれば願いが叶う”って、真剣に信じてる」
夜騎士の声は冷たく響いた。
沈黙を破ったのは王位だった。
「……それぞれに接触してみるか」
全員が頷く。
「ただし、一人での行動は駄目だ。分担して動こう」
王位が静かに指示を出す。
「オレ、六澄に聞いてみる」
風悪が立ち上がった。
黒い妖精――ラウロスに接触したのは彼だけだ。
必然的に、適任でもあった。
「わかった、任せる」
王位が頷く。
「なら、俺がついていく」
辻が小さく手を上げた。
「風悪と辻が六澄、残りが北乃ムラサキ」
夜騎士が全体をまとめる。
空気が一気に引き締まった。
* * *
──翌日。
放課後の切ノ札学園は、ざわめきに包まれていた。
空気がどこか熱を帯びている。
誰もが笑っているのに、その笑顔がどこか“異様”だった。
「これで私も願いが叶う」
「私も」
「鏡、試した? すごいんだって」
「櫛もいいよ、髪が軽くなるみたいで」
生徒たちが口々に話す。
手には、鏡、櫛、短冊、紙刀。
あの“道具屋”で売られていたものばかりだ。
一夜にして噂は学園中に広がっていた。
いや――広がりすぎていた。
「……これは、いったい」
風悪は息を呑んだ。
「風悪、一旦聴取だ」
夜騎士が促す。
風悪はため息まじりに頷き、呼びかける。
「辻!」
辻は小さくうなずき、風悪の隣へ歩み寄った。
二人は視線を交わし、同時に歩き出す。
目指す先――六澄わかしのもとへ。
外ではまだ、誰かの声が響いていた。
「祈りは熱、熱は魔、魔は力」
それはまるで、誰かが空気に刻んだ“呪文”のように。
夕陽が沈み、校舎の影が長く伸びていく。
その影の奥で、何かが確実に蠢き始めていた。
主なキャラ
・風悪…主人公。頭の左側に妖精の翅が生えている少年。
・一ノ瀬さわら(いちのせ)…鼻と首に傷のあるおさげの少女。
・二階堂秋枷…黒いチョーカーをつけている少年。
・三井野燦…左側にサイドテールのある少女。
・四月レン(しづき)…左腕にアームカバーをしている少女。
・五戸このしろ(いつと)…大きなリボンが特徴の廃課金少女。
・六澄わかし(むすみ)…黒髪に黒い瞳、黒い額縁の眼鏡に黒い爪の少年。
・七乃朝夏…軽くウェーブのかかった黒髪の少女。
・黒八空…長い黒髪の少女。お人よし。
・鳩絵かじか(はとえ)…赤いベレー帽が特徴的な少女。
・辻颭…物静かにしている少年。
・夜騎士凶…左眼を前髪で隠している顔の整った少年。
・妃愛主…亜麻色の髪を束ねる少女。
・王位富…普段は目を閉じ生活している少年。
・宮中潤…黒いマスクで顔下半分を覆う男性。担任。




