第六十六話 朝の食卓、霧の中で
翌朝。
山の分室の食堂には、いつになく明るい匂いが満ちていた。
昨日の騒動が嘘のように、湯気と香ばしい匂いが立ちのぼっている。
――まずは目の前の「朝ごはん」という名の試練を乗り越えねばならない。
「なんだろうな。昨日まで意味深な展開してなかった?」
風悪がため息まじりに言う。
「しょうがないだろ!」
「そうそう、これ以上は手の打ちようもない」
夜騎士と王位が同時に返した。
息ぴったり。まるで最初からコンビのようだ。
「それに、腹が減っては戦はできぬって言うし」
王位がぴしゃりと締める。
分室の外では、朝霧がまだ山肌を包んでいた。
焚き火台の上では鍋がことことと鳴り、白い湯気がゆらゆらと空へ昇っていく。
合宿のルールはシンプル――自炊。
それだけにして、この班にとっては最難関の任務でもあった。
*
「凶って料理できるんだね」
秋枷が米を研ぎながら、淡々とした声で感心する。
「母子家庭だし? 自炊くらいするんだよ」
夜騎士は軽く笑い、包丁を滑らせた。
その手つきは驚くほど慣れていて、
リズムよく――シャク、トン、シャク。
切られた野菜が美しく並んでいく。
「凶君……」
三井野が小さく呟いた。
その声は湯気にまぎれて消えそうにかすれている。
風悪がすかさず茶化すように言った。
「おい、顔赤いぞ」
「ち、ちが……!」
三井野の頬はさらに赤く染まり、鍋の湯よりも熱そうだった。
一方の黒八は淡々と下味をつけ、味見も正確。
料理に関してだけは、異様な集中力を発揮していた。
「繊細すぎる味覚って、こういうとき便利だね。」
誰かが感心して呟くと、黒八はほんの少し照れ笑いを見せた。
*
問題は、別のところにあった。
「ぎゃあああ焦げた!」
「それ、油と水の順番逆ですわーっ!」
「レシピ……じゃなくて短冊、見てたんだけど……」
五戸このしろ、妃愛主、鳩絵かじか――この三人だ。
焦がす・こぼす・煙を上げる。まさに料理三重苦。
指示を出しても分量が理解できず、
誰かが火を止めれば、別の誰かが再点火。
――地獄絵図とは、まさにこのこと。
「だぁあああもう! いいんだよ! 現代なめんな!
自炊できなくても生きてけるんだよ!」
五戸が叫びながら、おたまを高々と掲げた。
妃と鳩絵も、なぜか力強くうなずいている。
「……なんか可哀想」
王位がぼそりと言った。
その顔には哀れみと、ほんの少しの優しさが混じっていた。
妃は心の中で泣き、
鳩絵はこっそりスケッチブックに“焦げ鍋”を描いてごまかし、
五戸は「誰が哀れだ!」と叫びながら焦げた鍋を抱えていた。
――朝の霧よりも濃い煙が、分室の天井を覆っていた。
*
その横で、七乃と二階堂は小さな鍋を囲んでいた。
七乃が丁寧にだしを取り、秋枷が具材を刻む。
その姿はまるで、どこにでもある家庭の朝のようだった。
「秋枷君の作るものでしたら、わたくし何でもおいしくいただけますわ!」
七乃の声は明るく、少し上ずっている。
二階堂は照れ隠しのように小さく笑った。
「ありがとう。……焦がさないようにね」
「は、はいっ!」
ふたりの小さな世界だけ、穏やかだった。
*
食堂に香りが広がり、誰かの腹の音が鳴る。
朝の光が窓から差し込み、鍋の中の湯気が虹を描いた。
四月、六澄、辻は静かにそれを眺めていた。
彼らは朝食を取らず、端末と資料を前に黙々と作業を続けている。
その姿に、風悪がぼそりと呟いた。
「お前ら、食べないのか?」
「小食……食べ過ぎると無理」
辻は気分悪そうに答えた。
「……自分は必要ない」
六澄は無表情のまま、淡々と返す。
四月は小さくため息をつき、笑いもせずに言った。
「管理された物しか、口に出来ないんだよ。
でも、匂いは――悪くない」
その言葉に、風悪は少しだけ笑った。
淡々としたやり取りが、どこか懐かしい日常を思い出させた。
*
こうして、合宿の朝は穏やかに過ぎていった。
皿の上には少し焦げた焼き魚、焦がしバターの香り、そして笑い声。
それぞれの思惑と不安は胸の奥に沈んだまま。
けれど、今だけは――
誰もが“仲間”として、ひとつのテーブルを囲んでいた。
山の空気が、少し甘く感じられた。
*
昼過ぎ。
分室の門前に二台のバスが並ぶ。
荷物を積み込みながら、生徒たちはそれぞれの空を見上げていた。
「帰ったら……また授業かぁ」
「宿題あるよね、地味に」
「なかったことにしようぜ」
笑いが起きる。
風悪は最後に荷物を置き、ふと振り返った。
結界杭の跡、風鈴の鳴った枝、まだ薄く残る風の匂い。
すべてが、昨日より少しだけ“静か”だった。
夜騎士が隣に立つ。
「どうした、風悪」
「……風が、穏やかになった気がして」
「お前のせいかもな」
「え?」
「風ってのは、持ち主の気分に似るんだよ」
夜騎士はそれだけ言って、先に歩き出した。
風悪は目を細め、山の上に流れる雲を見送った。
翅が淡く光り、風がやさしく鳴る。
――それは、“嵐の終わり”の音だった。
バスのドアが閉まり、エンジンの音が山に溶けていく。
夏の合宿は、こうして幕を閉じた。
主なキャラ
・風悪…主人公。頭の左側に妖精の翅が生えている少年。
・一ノ瀬さわら(いちのせ)…鼻と首に傷のあるおさげの少女。
・二階堂秋枷…黒いチョーカーをつけている少年。
・三井野燦…左側にサイドテールのある少女。
・四月レン(しづき)…左腕にアームカバーをしている少女。
・五戸このしろ(いつと)…大きなリボンが特徴の廃課金少女。
・六澄わかし(むすみ)…黒髪に黒い瞳、黒い額縁の眼鏡に黒い爪の少年。
・七乃朝夏…軽くウェーブのかかった黒髪の少女。
・黒八空…長い黒髪の少女。お人よし。
・鳩絵かじか(はとえ)…赤いベレー帽が特徴的な少女。
・辻颭…物静かにしている少年。
・夜騎士凶…左眼を前髪で隠している顔の整った少年。
・妃愛主…亜麻色の髪を束ねる少女。
・王位富…普段は目を閉じ生活している少年。
・宮中潤…黒いマスクで顔下半分を覆う男性。担任。




