第六十話 夏の幻、描きかけの空
夏の午後、蝉の声が遠くで鳴いている。
部屋の中は静かで、扇風機の風が絵の具をかすかに揺らしていた。
机の上にはスケッチブック。
白いページの上に、途中まで描かれた“空”がある。
雲の端だけを残して、筆が止まっていた。
「……んー、どうしても“音”が足りないなぁ」
鳩絵かじかは、あごを手に乗せて呟いた。
描いた風鈴が鳴るように見せたい。
でも、音は描けない。
どんなに色を重ねても、風の“匂い”までは映らない。
「ねえ、どうしたら、“風の音”って描けるんだろ」
独り言に、返事はない。
部屋には鳩絵と、乾きかけた絵の具の匂いだけ。
いつの間にか、まぶたが重くなっていた。
筆を握ったまま、鳩絵は机にうつ伏せる。
*
――夢を見ていた。
スケッチブックの中の空。
描きかけの雲が動いていた。
風鈴が鳴り、短冊が風にそよぐ。
その音が、耳ではなく“胸”に届いた。
「わ……動いてる」
鳩絵は夢の中で立ち上がる。
足元は白い。
地面のない空の上を歩くような感覚。
風鈴が、ひとつ、目の前に浮かんでいた。
透明なガラスの中に、絵の具が渦を巻いている。
「……あたしの描いたやつ、だ」
短冊には自分の字があった。
『みんなが笑っていられますように』
音が鳴るたび、短冊の文字が少しずつ薄れていく。
そして、音の形をした光が、空の方へ吸い込まれていった。
「待って、どこ行くの……?」
鳩絵は手を伸ばす。
届かない。
その光は、まるで“願い”そのもののように、どこかへ消えていく。
足元の空がひび割れた。
音が逆に鳴る。
――チリン、リン。
風鈴が裏返って、色が反転する。
青い空が、夜の群青に変わっていく。
「……夢?」
誰かの声がした。
聞き覚えのある声。
でも、姿は見えなかった。
『“描いたもの”は、時々、見返してくるんだよ』
その声とともに、風が吹いた。
風鈴の音が鳩絵の胸に重なり、光の粒が弾けた。
*
――目を覚ます。
机の上には、乾ききったスケッチブック。
描きかけの空の上に、知らない筆跡で小さな線がひとつ増えていた。
それは、風鈴の糸のような細い線。
「……え?」
鳩絵は小さく息を呑む。
部屋の中に風はない。
それなのに、どこかで風鈴が鳴った気がした。
――チリン。
窓の外の空は、昼と夜のあいだ。
雲の切れ間から一筋の光が差し込んでいた。
「夢、だったのかな」
鳩絵は笑って、筆を握り直した。
もう一度、風鈴の絵に手を伸ばす。
「ううん、夢でもいいや。
だって、描けたもん。“風の音”――ね!」
夏の午後の光がスケッチブックを照らす。
鳩絵の筆が紙の上を走り、透明な空の音が、そこに宿っていった。
――チリン。
小さな音が、部屋の空気を震わせた。
風もないのに、どこかで風鈴が鳴った。
鳩絵かじかは、スケッチブックの前で目を瞬いた。
さっき夢の中で見た“風鈴の音”が、まだ胸の奥に残っている。
「……もしかして、これ?」
机の上に広がった絵の中で、
描きかけの風鈴の糸が――ゆっくりと、動いた。
まるで、風に触れたみたいに。
「わっ……動いた!」
鳩絵は慌てて筆を握り、目を凝らす。
絵の具が光を反射し、風鈴の輪郭が淡く揺れていた。
次の瞬間、音が――逆に鳴った。
――リン、チリ……。
「……逆鳴り?」
鳩絵は息を呑んだ。
どこかで、何かが“返してきた”音だった。
*
同じころ。
切ノ札学園・寄宿舎の屋上。
風悪は夜の風を浴びながら、空を見上げていた。
夏の終わりの風が、どこかざらついていたのだ。
ふと、耳の奥に小さな音が届く。
――チリン。
それは、鳩絵が夢で聞いたのと同じ音。
けれど、風悪にとっては“風そのものの声”のように聞こえた。
「……誰だ?」
風悪は呟く。
翅が微かに光り、風が一瞬だけ逆流した。
音がまた、返ってくる。
今度は少し遠く、しかし確かに届いた。
――リン……チリ。
風悪は目を細め、空気の流れを読む。
どこかで、“誰か”が風を鳴らしている。
けれどその波形は、自然の風ではなかった。
「鳩絵……?」
無意識に名前を呼んでいた。
翅が応えるように震える。
風が上へと伸び、空に描かれた見えない線を撫でていく。
夜空の向こうで、わずかに光が走った。
それは、誰かの願いがまだ消えていない証。
*
翌朝。
鳩絵はスケッチブックを開いたまま机に突っ伏していた。
眠りながらも、笑っている。
そのページの上には、完成した“風鈴の絵”。
透き通るガラスの中に、淡い風の線が描かれていた。
ページの隅に、知らない筆跡で小さく文字が残っていた。
『ありがとう、かじかちゃん』
「……?」
鳩絵は寝ぼけまなこでそれを見つめ、
そして小さく笑った。
「どういたしまして、だよ」
風がカーテンを揺らす。
どこかで、風鈴が一度だけ鳴った。
――チリン。
夏の幻は、静かに終わりを告げた。
主なキャラ
・風悪…主人公。頭の左側に妖精の翅が生えている少年。
・一ノ瀬さわら(いちのせ)…鼻と首に傷のあるおさげの少女。
・二階堂秋枷…黒いチョーカーをつけている少年。
・三井野燦…左側にサイドテールのある少女。
・四月レン(しづき)…左腕にアームカバーをしている少女。
・五戸このしろ(いつと)…大きなリボンが特徴の廃課金少女。
・六澄わかし(むすみ)…黒髪に黒い瞳、黒い額縁の眼鏡に黒い爪の少年。
・七乃朝夏…軽くウェーブのかかった黒髪の少女。
・黒八空…長い黒髪の少女。お人よし。
・鳩絵かじか(はとえ)…赤いベレー帽が特徴的な少女。
・辻颭…物静かにしている少年。
・夜騎士凶…左眼を前髪で隠している顔の整った少年。
・妃愛主…亜麻色の髪を束ねる少女。
・王位富…普段は目を閉じ生活している少年。
・宮中潤…黒いマスクで顔下半分を覆う男性。担任。




