第六話 風が誘う日
四月(しづきとい特殊読み)レンという名前があるので、あえて暦は卯月(旧暦)表記にしています。
未だ卯月──。
来月に控えた宿泊研修の準備が、少しずつ始まろうとしていた。
魔の暴走、十三部の結成、試練──目まぐるしい出来事が続いたが、あれからまだ一か月も経っていなかった。
春の陽光が差し込む教室。
いつも通りのざわめきの中、黒八空が風悪の席に歩み寄る。
「風悪君、一緒に買い物に行きましょう!」
満面の笑み。
その明るさは、このクラスでも特に眩しい。
「買い物?」
「宿泊研修の準備です! いろいろ足りないものがあるので!」
黒八の提案に、風悪は少し戸惑いながらも頷いた。
この学校に来てまだ日が浅い。頼ってもらえるのが、なんだか嬉しかった。
「いいよ。オレも何買えばいいか分かんないし、助かる」
「よかった! じゃあ今度の休日にでも!」
黒八がぱっと笑顔を弾けさせた瞬間、風悪はふと――視線を感じた。
……誰かがこちらを見ている。
目線の先。
斜め前の席、辻颭。
目が合った。
だが彼は、すぐに顔を背けた。
まるで“関わりたくない”というように。
風悪は一瞬ためらったが、心のどこかで引っかかりを覚えた。
「辻! 一緒に来る?」
声をかけると、黒八がすぐに反応する。
「おお! いいですね! 行きましょう、辻君!」
朗らかな声に、教室の空気が一瞬やわらぐ。
だが辻は、机に視線を落としたまま口を開いた。
「オレは……いい」
短く、冷たく。
それ以上の言葉はなかった。
風悪は小さく息をついた。
そういえば――彼のことをほとんど知らない。
四月や夜騎士、王位とはよく話す。
一ノ瀬や黒八、二階堂ともそれなりに言葉を交わす。
五戸や妃たちの顔も覚えた。
けれど、辻だけはいつも“そこにいるのに、いない”。
クラスの一角、風の通らない場所にひっそりと立っているような存在だった。
(クラスで浮かないようにしてる……とか?)
そんな考えが浮かんだ。
けれど、どうしてだか“放っておけない”という気持ちが勝った。
「辻!」
風悪は立ち上がり、辻の席に歩み寄る。
その背後で黒八が、まるで応援するかのようにうんうんと頷いていた。
「頼む、手伝ってくれないか?」
不意に差し出された手に、辻は眉をひそめる。
「辻君、風悪君を助けましょう!」
黒八が力強く言うと、教室の空気がわずかに和んだ。
しかし辻は依然として表情を変えず、机に肘をついてぼそりと答える。
「別にオレじゃなくても……夜騎士とかでいいんじゃ?」
「うっ……それは、まあ……」
風悪は言葉に詰まる。
確かにもっと適任はいる。
だが、そうじゃない。そういうことじゃないんだ。
その空気を察したのか、黒八がふわりと笑みを浮かべた。
「せっかくですし、私も辻君と話してみたいです」
柔らかな声。
その言葉に、辻はようやく顔を上げた。
「……えー」
小さく、力なく。
そこには、拒絶とも戸惑いともつかない微妙な影が差していた。
その表情を見た瞬間、風悪の胸にざらりとした違和感が残った。
まるで“誰かに似ている”ような――
しかし、その正体を掴む前に、昼休みの鐘が鳴った。
教室が一斉にざわめき出し、辻はその中に静かに溶け込んでいった。
春の陽が傾き始める。
その窓辺で、風悪はぼんやりと呟いた。
「……辻、やっぱり、気になるな」
黒八は、笑顔のまま答えた。
「じゃあ、今度、みんなで行きましょう」
何気ないその一言が、
この日の“分岐点”になることを、
風悪はまだ知らなかった。
卯月も半ば。
春の風が柔らかく街を撫でていた。
来月の宿泊研修を前に、必要な物を買い揃えようという話になった。
今日は休日。
顔ぶれは、風悪、辻颭、黒八空、夜騎士凶、王位富の五人。
「てか、なんで凶たちも?」
風悪が苦笑しながら問う。
「なんか困ってるって言うから?」
夜騎士は肩を竦めて、当然だろという顔で答える。
「えへへ。せっかくなので夜騎士君と王位君も呼んじゃいました!」
黒八が嬉しそうに笑う。どこか得意げに胸を張って。
「……余計オレ、いらなくない?」
辻がぽつりとこぼす。
「まあ、いいじゃないか」
王位が柔らかく笑いながら答えた。
風悪はその空気に小さく笑い、肩の力を抜いた。
何でもない会話が、やけに心地よく思えた。
ショッピングモールに到着すると、それぞれが思い思いの方向へ散っていった。
食料、衣類、日用品。
雑踏の中で、五人の姿はすぐに見えなくなる。
穏やかな休日。
そんな言葉が似合う光景だった――あの悲鳴が響くまでは。
――キャアアアアッ!!
甲高い悲鳴が、フロアの奥から響いた。
その瞬間、空気が変わる。
風悪たちは一斉に顔を上げた。
視線の先で、人々が押し合い、逃げ惑っている。
黒い靄のようなものをまとった人間が、獣のように暴れていた。
一人、二人ではない。五人、六人。
「魔」に支配された者たち。
「行くか、“十三部”!」
夜騎士が叫ぶ。
だが、足が止まる。
人の波。
逃げ惑う群衆が視界を遮り、下手に動けば巻き込むだけだ。
「流石に人が多すぎる!」
王位が焦りの声を上げる。
「風で上から……!」
風悪が提案しかけたその瞬間。
――ドンッ。
乾いた衝撃音が響いた。
風悪の背筋が、ぞくりと震えた。
知っている。この音を。
あの夜――雷鳴の音だ。
稲光が走る。
眩しい閃光が、暴徒たちの群れを一瞬で薙ぎ倒していった。
出力を巧みに調整された雷が、見事に“人間だけ”を避けている。
「……四月」
風悪が、ぽつりとその名を呟く。
人々の間を縫って見えるあの姿。
白い肌、黒髪、そして電光のような瞳。
――四月レン。
彼女の指先から放たれた稲妻が、正確に“魔”を打ち抜く。
その一撃一撃が、まるで“舞”のようだった。
数分。
それだけで戦闘は終わった。
静寂。
焼け焦げた床の上に、暴徒たちだけが倒れている。
「ⅩⅢだ……!」
誰かの呟きが人混みの中から漏れた。
次の瞬間、拍手と歓声が広がる。
英雄を称えるように。
その中心に、四月が立っていた。
スマホを耳に当て、冷静に報告をしている。
「任務完了──」
短い言葉。
だがそれだけで、すべてを支配していた。
「え、まじ? 四月が?」
最初に声を上げたのは夜騎士だった。
驚きと憧れの入り混じった目で、その背中を見つめている。
「風悪より戦えるって……なるほどね」
王位が静かに呟いた。
その声には納得と、少しの寂しさが混じっていた。
風悪もただ見つめていた。
“選ばれし子どもたち”――教室で聞いたあの話が頭をよぎる。
「強いわけ……だ」
誰に言うでもなく呟いた。
胸の奥に、妙な重たさが残った。
黒八は胸に手を当てて、小さく息をつく。
「助かった……」
その安堵が、ほんの少しの涙に滲んだ。
「黒八、大丈夫だった?」
辻がぽつりと尋ねる。
「はい。大丈夫ですよ」
黒八が明るく笑う。
そのやり取りを見つめながら、風悪はふと辻の横顔に目を留めた。
無表情。
喜びも驚きも、まるで何も感じていないようだった。
そのとき、黒いマスクの男が人混みを割って現れた。
宮中潤だ。
「師、そろそろ」
宮中の低い声。
四月は頷き、スマホを閉じた。
「ああ」
短い返答。
彼女は振り返ることなく、宮中と共に歩き去った。
清掃班が現れ、焼けた床を片付け始める。
日常が、何事もなかったかのように戻っていく。
「……すげえ」
夜騎士は興奮冷めやらぬ様子で拳を握る。
「やっぱ、ああいうのが本物のⅩⅢなんだな」
隣で王位は小さく笑う。
黒八は髪を揺らし、いつもの笑顔を見せる。
「でも、誰も死ななくてよかったです」
三人は買い出しを再開した。
その少し後ろで、風悪と辻が並んで歩く。
辻の横顔は影のように沈んでいた。
その表情に、風悪は一瞬、声をかけかけて――やめた。
無理に踏み込むことじゃない。
けれど、確かに感じた。
彼の中に、何かが“うごめいている”気配を。
モールの外に出ると、春風が通り抜けた。
ほんの少し冷たい風。
その風が去ったあと、空気が妙に静まり返っていた。
風悪は振り返り、四月が立っていた方向を見つめる。
英雄と呼ばれる者。
その背中が、今も焼き付いて離れなかった。
不穏な風が、頬を撫でていく。
少しの不安と、大きな期待を胸に。
――宿泊研修が、始まろうとしていた。
主なキャラ
・風悪…主人公。頭の左側に妖精の翅が生えている少年。
・一ノ瀬さわら(いちのせ)…鼻と首に傷のあるおさげの少女。
・二階堂秋枷…黒いチョーカーをつけている少年。
・三井野燦…左側にサイドテールのある少女。
・四月レン(しづき)…左腕にアームカバーをしている少女。
・五戸このしろ(いつと)…大きなリボンが特徴の廃課金少女。
・六澄わかし(むすみ)…黒髪に黒い瞳、黒い額縁の眼鏡に黒い爪の少年。
・七乃朝夏…軽くウェーブのかかった黒髪の少女。
・黒八空…長い黒髪の少女。お人よし。
・鳩絵かじか(はとえ)…赤いベレー帽が特徴的な少女。
・辻颭…物静かにしている少年。
・夜騎士凶…左眼を前髪で隠している顔の整った少年。
・妃愛主…亜麻色の髪を束ねる少女。
・王位富…普段は目を閉じ生活している少年。
・宮中潤…黒いマスクで顔下半分を覆う男性。担任。




