第五十四話 因子の影、揺らぐ
風が止んでいた。
文月も半ば。
ⅩⅢ本部・監察医療棟――白を基調としたその廊下には、消毒液の匂いと、機械の小さな電子音だけが響いていた。
東風心地は、静かにベッドに横たわっていた。
あの〈連携戦術試験〉から、すでに二日。
外傷はほぼ癒え、呼吸も穏やかだった。
だが、医療スタッフの誰もが、彼女の“内部”に潜む異常を見逃せずにいた。
――因子の残響。
沈黙したはずのそれが、彼女の体内で、まだ微かに蠢いている。
四月レンは端末を操作し、波形データを凝視していた。
モニターには安定した律動。けれど、その奥に、細く、震えるような乱れが走る。
「……おかしいな。安定しているはずだが、ここだけ波が乱れている」
隣で宮中潤が腕を組み、画面を覗き込む。
冷静な声が、機械の音に混ざって落ちた。
「例の〈-02y〉か……」
宮中の問いに、四月は端末から目を離さない。
「師、これは〈-02〉とは別物……と考えていいのですか?」
四月はしばし沈黙した。
スクリーンの微かな揺らぎを見つめながら、淡い光を瞳に映す。
「“魔”ではない。……けれど、“魔”に似たもの」
その声音は低く、重かった。
「五戸の過去と繋がり……そして、一ノ瀬が追う、もうひとつの“魔”のような存在」
宮中が息を詰める。
「ある意味、“魔”が二つ……あるということですか?」
四月は何も答えず、そっと端末を閉じた。
電子音が途切れる。
その瞬間、窓の外で、ひと筋の風が鳴った。
――因子の影は、まだ消えていない。
東風心地は、その音で目を覚ました。
隔離された静かな室内。
薄いカーテン越しに光が射し、天井の蛍光灯と交わって淡く滲む。
ぼんやりとした頭で、彼女は思考をめぐらせた。
(……なぜ、私はA組に負けたの?)
悔しさよりも、空白のような感情が胸を占める。
あの少年――夜騎士凶の笑顔が、脳裏に浮かんだ。
(……彼を、手に入れたい。どうすれば……)
そのとき。
どこからともなく、声が聞こえた。
『あなたに、力を与えましょうね』
「……だれ?」
東風は身を起こし、周囲を見渡した。
誰もいない。
だが、確かに声はそこにあった。
『ね、これを使って。これに魂を集めて。集めきったら――あなたの願いを叶えてあげる』
金属の擦れる音が響く。
カラン、と床に何かが転がった。
視線を向けると、そこには――大きな“ハサミ”があった。
異様な光沢を放つ銀の刃。
冷たい気配が、空気ごと彼女の頬を撫でた。
東風は直感した。
このハサミで人を切り、魂を集めればいい。
そうすれば、あの声が願いを叶えてくれる。
その思考は、いつのまにか自然に心へ染み込んでいた。
「……そう、ね」
彼女はハサミを手に取った。
まるでそれが、自分の身体の一部であるかのように。
次の瞬間、警備システムの赤いランプが点滅した。
監察医療棟の隔離室の扉が音もなく開く。
東風心地は、静かに外へ歩き出した。
一ノ瀬さわらは、その異変を感じ取っていた。
実技試験で顕わにした東風の異能――あの暴走の“波”を、肌で感じたのだ。
(このしろちゃんの友達を誑かした……あの“声”のせい……)
怒りと焦りが交錯する。
一ノ瀬は制服のポケットから端末を取り出し、監察医療棟の監視マップを開いた。
異常波形反応――ひとつ。
(……東風さん)
彼女は迷わなかった。
足早に、監察医療棟へ向かう。
その途中、廊下の角を曲がった瞬間。
金属音。
――そして、黒い風。
隔離室から出てきた東風心地が、そこに立っていた。
その手には、鈍く光る大きなハサミ。
その刃先を、一ノ瀬に向ける。
次の瞬間、風が爆ぜた。
銀の大鋏が月光を弾き、一ノ瀬へと一直線に迫る――
だが、見えない糸が先に走った。
床から立ちのぼる白い菌糸が、空中で編み目を描き、刃もろとも東風の腕を絡め取る。
「なっ!?」
東風心地の動きがぴたりと止まる。困惑と驚愕が同時に表情を走った。
一ノ瀬は一歩、踏み出した。
怒気を宿したまま視線を外さず、指先を払う。
菌糸がきりりと締まり、手首を鋭く切り裂く。
「きゃぁぁっ!?」
鋭い痛みに膝が落ちる。
東風の指から力が抜け、握られていた大鋏がカランと乾いた音を立てて床に転がった。
一ノ瀬は近づくと、その刃を靴底で踏み据える。
何度も、何度も。
(こんなものがあるせいで……)
声にはしない。
それでも、繰り返される足音だけで、その怒りと決意は十分に伝わった。
東風は歯を食いしばり、風を起こそうとした――その瞬間、黒い縄が彼女の腰に絡みつく。
影のように伸びたそれはぐんと引き上げ、東風の体を宙へと吊り上げた。
「なっ!? なんですの!? 次から次にっ!」
叫びもむなしく、黒縄はふっとほどける。
支えを失った身体が短く落ち、床に打たれた衝撃で東風は意識を手放した。
「さわらちゃん! やるなら呼んでよね!」
背後から弾む声。振り向けば五戸このしろ。
そのさらに後ろ、六澄と鳩絵が無表情/にこやかに続いていた。
『ごめん』
一ノ瀬はスマホに短く文字を打ち、画面を掲げる。
五戸は肩をすくめた。
「別にいいけど、かじかちゃん!」
「はーい!」
鳩絵がしゃがみ込み、転がった大鋏をさらさらと一筆でなぞる。
金属の輪郭は紙の線へと変わり、すべては一枚の絵へ吸い込まれていった。
「これでまた増えたね」
鳩絵は満足そうに、その絵をファイルに収める。
「聞きたいことあったけど、気絶してるか……。まあ、聞いたところで“声が聞こえたー”くらいしか言わないんだろうけど〜」
五戸が悪態をつく。
ほどなく監察医療棟のスタッフが駆けつけ、騒ぎは収束へ向かった。
監視映像の確認で、事態は正当防衛と判断される。
一ノ瀬は何も言わず、強くスマホを握りしめた。
まだ熱の残る怒りを、掌に押しとどめるように。
六澄はそんな彼女を、黙って見ていた。
主なキャラ
・風悪…主人公。頭の左側に妖精の翅が生えている少年。
・一ノ瀬さわら(いちのせ)…鼻と首に傷のあるおさげの少女。
・二階堂秋枷…黒いチョーカーをつけている少年。
・三井野燦…左側にサイドテールのある少女。
・四月レン(しづき)…左腕にアームカバーをしている少女。
・五戸このしろ(いつと)…大きなリボンが特徴の廃課金少女。
・六澄わかし(むすみ)…黒髪に黒い瞳、黒い額縁の眼鏡に黒い爪の少年。
・七乃朝夏…軽くウェーブのかかった黒髪の少女。
・黒八空…長い黒髪の少女。お人よし。
・鳩絵かじか(はとえ)…赤いベレー帽が特徴的な少女。
・辻颭…物静かにしている少年。
・夜騎士凶…左眼を前髪で隠している顔の整った少年。
・妃愛主…亜麻色の髪を束ねる少女。
・王位富…普段は目を閉じ生活している少年。
・宮中潤…黒いマスクで顔下半分を覆う男性。担任。




