第四十四話 影、再び
──風が、止まった。
夜。
公園に、風悪は一人立っていた。
水無月の空気は湿っていて、遠くの街灯がぼんやり滲んでいる。
この世界に来てから、幾度目の夜になるだろうか。
“外の世界”――あの霞んだ記憶の向こうからここに来て以来、
風悪の胸の奥では、いつも何かが静かに軋んでいた。
(……この世界は、オレのいた場所とは違う)
空気の重さも、風の響きも、奇妙な感覚。
その違和感に気づいたのは、ほんの数日前。
夜騎士たちとの決闘が終わり、静けさが戻ったはずの夜だった。
翅が、ふっと震える。
透明な羽根が、微かな光を反射した。
胸の奥で、見えない“何か”が囁く。
――また、夢を見よう。
低く、柔らかい声。
ただ耳の奥で響く“声”だった。
風悪は、息を詰めた。
空気が変わる。
視界の端が、黒い波のように滲んでいく。
世界が――“反転”した。
気づけば、彼は夜の教室に立っていた。
窓の外に月が浮かび、机の上には誰もいないはずのノートが散らばっている。
教壇の上。
そこに、“誰か”が座っていた。
黒い外套を羽織った影。
顔は霞んで見えない。
ただ、その声だけが、やけに鮮明だった。
「ずいぶんと、つまらない顔をしているな」
風悪は声の主を見つめた。
その存在は、まるで自分自身の影が具現化したようだった。
「……お前は、誰だ」
「名前なんて、今はどうでもいい。
ただ――君の中にいる“創造者の因子”、それが自分さ」
瞬間、風悪の背筋に冷たい電流が走る。
言葉の意味を理解するより先に、心臓の鼓動が早まっていく。
「創造者……?」
「そう。
この世界を“作った”存在。
お前の中にも、ちゃんと欠片は残っていた。
かつて、外の世界で改造された、瞬間にな」
影が立ち上がる。
足音ひとつ立てず、机の上を歩く。
その度に、黒い波紋が空間に広がった。
「自分は人の感情が動くところを見たい。
“この世界”でも――面白いものを見せてほしい」
風悪は一歩、後ずさる。
影は笑った。
その笑みは、神にも悪魔にも似ていなかった。
ただ、純粋な“創造の欲求”――破壊の延長にある歓喜のようなもの。
「……面白いものって、何を――」
「お前の“感情”だよ。
怒り、迷い、憎しみ、喜び。
お前が感じたすべてが、世界を変える。
それを見たい、そう思った。
だから、暴れろ、風悪。
この世界を――もう一度、作り変えてみせろ」
その言葉と共に、影の手が風悪の胸に触れた。
透明な翅が震え、黒い光が走る。
風が弾け、校舎の窓ガラスが音もなく砕け散った。
風悪の視界が、白く染まる。
心臓の鼓動が、何か異質なリズムで刻まれていく。
“創造の因子”が、彼の中で目を覚ましたのだ。
――そして、その瞬間。
どこか遠くで、四月レンがモニターを見つめながら呟いた。
「……動いただと?」
電子の光が、ひとつだけ異常値を弾き出す。
因子コード:L-13
――風悪。
――白い光が、風悪の全身を包み込んだ。
目を開けると、世界が歪んでいた。
地面は透け、空は裏返り、遠くの街並みが水の底のように揺れている。
風が吹くたびに、世界の“形”そのものが波打って見えた。
(……なんだ、これ……?)
手を伸ばすと、空気が音を立てて裂けた。
世界の境界が、まるで薄い膜のように脆く、指先で簡単に破れていく。
「そう、それでいい。
お前は、“外側の妖精”だ。
この世界の制約に縛られる必要なんてない」
影の声が、どこまでも穏やかに響く。
だがその言葉には、確かな誘惑があった。
「壊せばいい。形を変えればいい。
お前が望むままに――それが“創造者の欠片”だ」
風悪の周囲で、木々が形を変えていく。
枝が溶け、葉が逆流し、空に吸い込まれていく。
まるで時間の流れさえ逆転しているかのようだった。
「やめろ……!」
風悪は叫んだ。
だがその声もまた、空間の中に吸い込まれていく。
自分の声が、世界の一部として“書き換えられていく”感覚。
恐怖よりも先に、圧倒的な異質さがあった。
「怖がることはない。
世界を動かすのは“意思”だ。
お前が感情を放てば放つほど、世界は新しくなる」
影が指を鳴らす。
その瞬間、周囲の風景が一瞬で切り替わった。
教室。廊下。校庭。夜の街。
風悪の記憶にある景色が次々と現れ、融合し、また崩れていく。
それはまるで“世界を再生する映像”のようだった。
(……オレが、作り変えてる……?)
指先が震える。
触れるものすべてが、粒子になって崩れていく。
風悪は膝をつき、額を押さえた。
胸の奥から、誰かの笑い声が聞こえる。
「いいね、いい顔だ。
怒りでも悲しみでもいい――もっと“心”を動かせ」
風悪は歯を食いしばり、息を吐いた。
そして、自分の影を見下ろした。
足元に広がる影は、まるで別の生命のように蠢いていた。
その中で、もう一人の“自分”がゆっくりと笑った。
「さあ、風悪。
――創れよ、“新しい世界”を」
耳鳴りがする。
視界が歪む。
夜空の雲が割れ、光が地上を切り裂いた。
その瞬間、世界の“線”がほどけるように解けていった。
* * *
同時刻。〈ⅩⅢ本部・観測室〉
警報が鳴り響き、モニターのデータが赤く染まった。
宮中潤は瞬時に操作を開始し、因子波を解析する。
「――異常発生、座標A-03。風悪の波形が暴走してる!」
モニターに表示される数値が、制御上限を超えて跳ね上がる。
電磁波ではない。因子そのものが“再構築”を始めていた。
「これは……再生現象!?
まさか、世界構造が……!」
宮中が、スクリーンを覗き込む。
画面の中心、ひとつの名前が明滅していた。
〈L-13:反応開始〉
「……創造者の因子が、動いたか」
四月は拳を握った。
恐怖ではない。
「流石に“これ”ではまずいか」
言葉を終えるより先に、観測室の窓が震えた。
外の景色が、微かに“書き換わる”。
空の色、雲の形、街の輪郭。
ほんの数秒の間に、何かが確実に変化していた。
四月は深く息を吐く。
そして、静かに呟いた。
「今は駄目だ……風悪」
モニターの中で、風が逆流するように波形が乱れる。
その中心に、風悪の名が浮かんでいた。
〈L-13:覚醒〉
世界は、再び“創られ”始めていた。
主なキャラ
・風悪…主人公。頭の左側に妖精の翅が生えている少年。
・一ノ瀬さわら(いちのせ)…鼻と首に傷のあるおさげの少女。
・二階堂秋枷…黒いチョーカーをつけている少年。
・三井野燦…左側にサイドテールのある少女。
・四月レン(しづき)…左腕にアームカバーをしている少女。
・五戸このしろ(いつと)…大きなリボンが特徴の廃課金少女。
・六澄わかし(むすみ)…黒髪に黒い瞳、黒い額縁の眼鏡に黒い爪の少年。
・七乃朝夏…軽くウェーブのかかった黒髪の少女。
・黒八空…長い黒髪の少女。お人よし。
・鳩絵かじか(はとえ)…赤いベレー帽が特徴的な少女。
・辻颭…物静かにしている少年。
・夜騎士凶…左眼を前髪で隠している顔の整った少年。
・妃愛主…亜麻色の髪を束ねる少女。
・王位富…普段は目を閉じ生活している少年。
・宮中潤…黒いマスクで顔下半分を覆う男性。担任。




