第三十八話 赦されざる音(前編)
──数週間後。
暴走事件の余波で、海王中学は一時休校となった。
校舎の壁は補修の跡が痛々しく、割れた窓は新しいガラスに替えられている。
それでも、空気にはまだ“焦げた匂い”が残っていた。
鯱氷凶は、病室を出られるようになってからもしばらく登校できなかった。
左眼の包帯が取れた今も、視界には常に霞がかかっていた。
だが、その代わりに――音が世界を“形づくる”ようになった。
人の足音、風の流れ、心臓の鼓動。
音が空間を描き、世界を見せる。
それはまるで、世界が新たな感覚で塗り替えられていくようだった。
そんなある日。
王位富は、教室の入り口で足を止めた。
彼の席の隣――いつも鯱氷が座っていた場所に、もうひとりの影がなかった。
海豚悪天。
事件以来、彼の姿は消えていた。
転校の届けもなく、家族にも連絡が取れない。
まるで最初から、この世に存在しなかったかのように。
「……逃げたのか、それとも……」
王位は低く呟いた。
怒りでも悲しみでもない、ただ空虚な声。
「海豚の家……誰もいなかった。荷物も、家具も、全部無い」
(……まるで消されたみたいだな)
空間を、沈黙が流れた。
*
その夜。
“それ”は、夜の校舎に現れた。
壊れた窓の向こうから、黒い霧が這うように入り込み、
音もなく廊下を滑る。
照明が一瞬、パチパチと明滅し、
掲示板の前に、人影が立った。
──海豚悪天。
制服のまま、瞳の奥にダイヤ型の燐光を宿していた。
その表情はいつもの不敵な笑みを浮かべながらも、
その奥では――何か別のものが、静かに蠢いていた。
「……ずるいよね、凶君ばかり」
吐き出すような声。
その手には、異様な形をした“魔結晶”が握られていた。
紫黒色のそれは、まるで脈を打つように微かに震えている。
「“魔”は言ったんだ。
――“君の音を、力に変えてやろう”って」
次の瞬間、海豚の背中から音があふれ出した。
高周波のようなノイズ、叫び声、鳴き声。
世界中の“悲鳴”を寄せ集めたような不協和音が、夜の校舎を揺らす。
壁が割れ、窓が震え、蛍光灯が一斉に弾け飛ぶ。
「凶君……ボクはもう、赦されない。
だからせめて、赦せないものの象徴になってキミを──」
その言葉を最後に、海豚悪天の姿は霧の中に溶けて消えた。
残されたのは、割れたガラスと、脈打つ“魔”の残滓だけだった。
*
翌朝。
ⅩⅢの調査班が現場に入った。
彼らは現場検証を終えると、ひとつの仮説を立てた。
――海豚悪天は、“魔”に堕ちた。
それがこの世界で最も禁じられた行為。
“魔”に墜ちた者は、人間であることを捨てる。
その代償として手に入るのは、異能の暴走と、永遠の孤独。
ただし、理性は保ったまま――それが、彼の異質さだった。
王位は報告書を読み、手を震わせた。
「……だから、あんな音が……」
鯱氷凶は沈黙したまま、包帯の下の左眼を押さえた。
そこにはまだ、あの夜の光が残っている。
「“魔”は、手を差し伸べた」
鯱氷の声は低く、掠れていた。
「海豚が、自分から手を取ったんだ。あいつは、そういうやつだ」
「じゃあ、止めることは──」
「できなかったんだ、あの時も」
王位の問いを遮るように、凶が言う。
そして続けた。
「だから、オレが決めた。
次にあいつが現れたら、オレがケリをつける」
夕暮れの光が差し込み、二人の影が重なる。
その横顔に、もう“少年”の面影はなかった。
*
その後、海豚悪天の行方は一時的に掴めなくなった。
だが数ヶ月後――彼は〈海皇高校〉に在籍していることが確認される。
公的記録上は「転校扱い」とされていたが、実際には、
ⅩⅢの内部記録にのみ、次の注記が残っていた。
> 【注記】
> 被験体イルカ・アクテン、魔因子適合率98%。
> 対象は“魔”と完全融合しつつあり、実験的存在と推定。
> 追跡を中止し、封印区画にて観察継続。
つまり、彼は“監視下”に置かれたということだった。
それを知った王位は、報告書を閉じ、静かに目を伏せる。
「凶、あの時ボクが折った角で、お前を救えた。
でも、アイツの心までは救えなかった……」
風が吹き抜け、書類を揺らす。
遠くで、鈍く響く雷鳴。
それは、まるで海豚悪天がどこかで笑っているような音だった。
──そして時は流れ。
雷鳴が、過去と現在を繋ぐ。
あの夜、海王の校舎を震わせた“音”が、再び世界を震わせた。
場所は、ⅩⅢ監査局の仮想異能結界――〈A.R.E.N.A.〉。
決闘の舞台として構築されたその空間が、
突如として不穏な振動を帯びはじめる。
観測機器が警告を発し、結界の波形が乱れる。
そして、音が走った。
それは衝撃波でも爆発でもない。
ただ、怒りと痛みの“残響”だった。
青黒い影が地を這い、アリーナの空気を軋ませる。
その中心に――夜騎士凶がいた。
「……悪天……」
低く、押し殺した声。
次の瞬間、影が膨張し、光を呑み込む。
闘志と憎悪、そして“魔”の因子が混ざりあい、
彼の中で何かが、ゆっくりと“目を覚ました”。
「凶の影装が……暴走反応……!」
監視端末の前で、四月レンが腕を組む。
画面には、青黒い影がアリーナ全域に広がっていく様が映し出されていた。
赦されざる音が、再び鳴り響く。
過去の罪と現在の怒りが、ひとつに重なった瞬間だった。
遠く、風悪の羽が震えた。
──夜が、再び裂ける。
主なキャラ
・風悪…主人公。頭の左側に妖精の翅が生えている少年。
・一ノ瀬さわら(いちのせ)…鼻と首に傷のあるおさげの少女。
・二階堂秋枷…黒いチョーカーをつけている少年。
・三井野燦…左側にサイドテールのある少女。
・四月レン(しづき)…左腕にアームカバーをしている少女。
・五戸このしろ(いつと)…大きなリボンが特徴の廃課金少女。
・六澄わかし(むすみ)…黒髪に黒い瞳、黒い額縁の眼鏡に黒い爪の少年。
・七乃朝夏…軽くウェーブのかかった黒髪の少女。
・黒八空…長い黒髪の少女。お人よし。
・鳩絵かじか(はとえ)…赤いベレー帽が特徴的な少女。
・辻颭…物静かにしている少年。
・夜騎士凶…左眼を前髪で隠している顔の整った少年。
・妃愛主…亜麻色の髪を束ねる少女。
・王位富…普段は目を閉じ生活している少年。
・宮中潤…黒いマスクで顔下半分を覆う男性。担任。




