第二十七話 赤い手紙
「これは……いったい……」
風悪は声を失っていた。
壁に浮かぶ赤い文字――血のように濃く、しかし乾いて鈍く光っている。
『きょうくんへ、ぼくも、かんかされちゃったよ!』
(きょうくんへ……きょう……か)
風悪は、胸の奥でその名を繰り返した。
“きょう”――夜騎士凶。彼のことしか思い浮かばない。
風悪はすぐにスマホを取り出し、その文字を写真におさめた。
文字の線は震え、滲み、どこか苦悶にも似た歪みを帯びている。
「風悪君、どうでした?」
少し離れた場所で待っていた黒八空が声をかける。
風悪は写真を見せ、低く答えた。
「きょうって……凶のことかな?」
「彼にも伝えましょう!」
黒八の提案に頷き、風悪は夜騎士へと写真を送信した。
──同刻、夜騎士宅。
夜騎士凶は自室で机に向かっていた。
静かな部屋に、ペンの走る音だけが響いている。
彼の右眼には淡い光が宿っていたが、左眼は前髪の下で沈黙していた。
その眼は、中学の頃の戦闘で傷を負い、二度と光を取り戻すことはなかった。
スマホが震えた。
画面に表示された名前は――風悪。
添付された写真を開いた瞬間、夜騎士の表情が固まった。
見覚えのある筆跡。
震える指先が、無意識にその名を呟く。
「……海豚悪天……」
彼の脳裏に、中学時代の記憶が蘇る。
海王中学――そこには、夜騎士、王位、妃、そして三井野がいた。
海豚悪天もまた、その同級生のひとりだった。
高校進学を機に道は分かれた。
彼は別の学校へと進み、この切ノ札学園にはいないはず。
なのに、なぜ――この学園の壁に、あの筆跡が。
夜騎士は眉を寄せ、スマホを握りしめた。
「……侵入した、のか?」
だが、わざわざ他校の生徒が危険を冒してまで残した理由が分からない。
挑発か、あるいは何かの警告か。
答えのないまま、夜騎士は長く息を吐いた。
──翌日。
昨日の“赤い文字”の件は、すでに学園中の話題になっていた。
休み時間のたびに、誰もが噂を交わす。
「血で書いたらしい」「呪いじゃないか」――そんな声が廊下に広がる。
七乃朝夏は心配そうに二階堂秋枷を見つめていた。
彼女の視線に気づいた二階堂は、微笑んで「大丈夫だよ」と短く返す。
その声は穏やかだったが、どこか無理をしているようにも聞こえた。
教室の後方では、風悪、夜騎士、王位が小声で話していた。
「凶、昨日の……」
「ああ、多分オレ宛だ」
夜騎士は風悪の言葉を遮り、低く答えた。
視線は机の上の一点に落ちている。
「あの文字、海豚悪天のだよね」
王位が静かに続けた。
「いるか、あくてん?」
風悪は聞き慣れない名を繰り返す。
「同じ海王中学だった奴。高校は別だ。
わざわざ書きに来たってことは……挑発、だろうな」
夜騎士の声には、警戒と怒りが滲んでいた。
「この、“かんかされた”ってのは?」
風悪が問うと、王位がゆっくりと口を開いた。
「多分だけど、“魔”に感化された、じゃないか?」
目を閉じたままの王位の声が、静かに教室に落ちる。
この世界の人間は、誰もが“魔”の影響を受ける可能性を持っている。
しかし、暴徒と化して暴れる者ばかりではない。
理性を保ち、静かに、しかし確実に“魔”の意思を遂行する者もいる。
海豚悪天――それはまさに後者だった。
理性を残したまま、冷酷に標的を追い詰める“異常な正気”の持ち主。
「また……か。本当に厄介だ」
夜騎士が低く呟く。
その声には、怒りよりも哀しみに近い色が混じっていた。
窓の外では、曇天の雲が風に流れていく。
黒八空はそんな三人を、心配そうに見つめていた。
その瞳には、微かな不安と、何かを予感するような光が宿っていた。
小休憩の時間。
教室のざわめきが一瞬ゆるむ。
その中で――
「風悪君、ちょっといいかな?」
三井野燦の声が、控えめに響いた。
風悪は首を傾げながらも立ち上がり、彼女と一緒に廊下へ出る。
「三井野、どうした?」
「風悪君、凶君と仲良さげだから……言っておこうかと思って」
「?」
三井野の表情はどこか沈んでいた。
言葉を探すように小さく息を吸い込み、話し始める。
「私、中学の後半だけ、凶君と王位君と同じ海王中学に行ってたの」
その声には、少しの緊張と躊躇いが混じっていた。
彼女は窓際に視線を向ける。
午後の光が差し込んで、頬に柔らかな影を作っていた。
「私が来た時にはもう、事件は起こった後だったの」
「事件?」
風悪が問い返す。
三井野は一瞬、言葉を選ぶように沈黙した後、ゆっくりと続けた。
「転校してきた私は、詳しくは知らないの。
でも、海豚悪天って人とひと悶着あったって聞いた」
「海豚悪天!」
風悪の目が見開かれる。
今朝、王位の口から出た名が頭をよぎった。
「そう、文字の……」
三井野が小さく頷き、続けた。
「凶君も王位君も大変な目に遭ったって聞いた。
凶君が左眼を隠しているのも、その時の……らしい」
声がかすかに震えていた。
風悪は黙ってその言葉を受け止める。
窓の外で風が木々を揺らし、光が一瞬翳った。
「そっか、教えてくれてありがとう」
「う、うん」
三井野は短く返し、胸の前で指を絡めた。
何かを言いかけて、言葉を飲み込むように俯く。
「私の異能は戦闘系じゃないから……
私の分も、力になってあげて」
その声には、祈りにも似た響きがあった。
そう言い残すと、三井野はくるりと背を向け、教室へと戻ろうとする。
「三井野……」
風悪が小さく呼び止めた。
「どうして、そこまで……」
ふとした疑問が口をついて出る。
三井野が振り返り、目を泳がせる。
「あ、いや、これは!」
慌てて手を振り、顔がみるみる赤くなる。
「深い意味はない! 深い意味はないから!」
その必死な声に、風悪は思わず苦笑した。
わざとらしく視線を逸らし、ぽつりと呟く。
「あの顔立ちだもんな……」
その一言に、三井野の頬がさらに真っ赤に染まった。
胸の奥に隠していた気持ちが、風の音に混じって消えていく。
彼女はそっと背を向け、教室へ戻っていった。
──風悪はその背中を静かに見送った。
あの赤い文字の謎と、夜騎士の過去。
どちらも、まだ風の向こうに隠されたままだった。
主なキャラ
・風悪…主人公。頭の左側に妖精の翅が生えている少年。
・一ノ瀬さわら(いちのせ)…鼻と首に傷のあるおさげの少女。
・二階堂秋枷…黒いチョーカーをつけている少年。
・三井野燦…左側にサイドテールのある少女。
・四月レン(しづき)…左腕にアームカバーをしている少女。
・五戸このしろ(いつと)…大きなリボンが特徴の廃課金少女。
・六澄わかし(むすみ)…黒髪に黒い瞳、黒い額縁の眼鏡に黒い爪の少年。
・七乃朝夏…軽くウェーブのかかった黒髪の少女。
・黒八空…長い黒髪の少女。お人よし。
・鳩絵かじか(はとえ)…赤いベレー帽が特徴的な少女。
・辻颭…物静かにしている少年。
・夜騎士凶…左眼を前髪で隠している顔の整った少年。
・妃愛主…亜麻色の髪を束ねる少女。
・王位富…普段は目を閉じ生活している少年。
・宮中潤…黒いマスクで顔下半分を覆う男性。担任。




