第十九話 鎌鼬の記憶
辻颭は、いつだって静かだった。
教室の窓際に座れば、風の中へと溶けていくように存在が薄れ、放課後の校門では誰よりも早く人の群れから離れた。
その外見は穏やかで、誰にでも無害に見える。
けれど、その胸の奥には――絶えず疼く何かがあった。
名づけるなら、それは“斬りたい”という衝動。
理屈も意味もない。ただ、鋭く確かな欲求。
最初は虫だった。
翅の動きを止めるだけで、ほんの少しだけ心が静まる気がした。
次に小さな動物。
やがて、もう少し大きな命へと手を伸ばしていく。
それでも彼は、人を傷つけることだけは避けていた。
自分の中に巣くう「異質さ」を外へ吐き出すように、他の生き物でどうにか発散していたのだ。
けれど――限界は、すぐに来た。
中学に上がる頃、辻は人を選び始めた。
夜の路地裏。
噂話の中で「悪」と呼ばれる者たち。
他人を踏みにじり、誰かを傷つける人間。
辻は静かに、その影を断っていった。
罪悪感はなかった。
相手が悪である限り、それは“正しいこと”だと信じられた。
正義を掲げるその行為は、彼にとって免罪符のようなものだった。
だからこそ、警察もⅩⅢも動かなかった。
斬られたのが悪人ばかりなら、世界は沈黙を選ぶ。
けれど――心は満たされなかった。
刃を振るうたび、渇きは深くなり、次第に胸の中で何かがざわめき出す。
“もっと”――と。
それは好奇心にも似た願い。
けれど、それ以上に、魔物の血が囁く声でもあった。
そして、彼は一つの問いに辿り着く。
「もし、善い人を斬ったら……オレは、どうなるんだろう」
その瞬間から、心の歯車はゆっくりと狂い始めた。
正義と興味、理性と渇望。
その境界が曖昧に溶けていく。
そんなある日。
放課後の帰り道、辻は見てしまった。
黒八空が、倒れた何かを抱き上げていた。
街灯の光の下、その存在は人の形をしていたが、どこか人ではなかった。
薄く透き通った肌。かすかな光をこぼす胸元。
息は弱く、まるで消えかけた灯のようだった。
黒八はその小さな命を見下ろし、躊躇うことなく言った。
「助けます」
その一言に、辻の胸がざらりと波打った。
誰もが恐れるものに、何の見返りもなく手を差し出す――それが黒八空という少女だった。
後に知ることになる。
あの存在は“太陽神”と呼ばれるもの、そのものだったという。
世界の“外”から取り込まれ、壊れかけていた光。
それを救うには、魂を新たな“器”へと移す必要があった。
黒八はその役目を、自ら引き受けた。
その優しさも、その無謀さも、彼女らしいと思った。
――そして、その瞬間を見た辻の心は、決定的に歪んだ。
黒八空は、善人だった。
だからこそ、美しく、そして許せなかった。
黒八の善は、辻の中の闇をより濃くした。
その輝きが強ければ強いほど、彼の刃は震えた。
「善人を、斬りたい」
その願いはやがて、ひとりの名を呟くほどにまで育っていた。
――黒八空を、斬りたい。
そう思った時、辻は初めて自分の闇の“形”を知った。
それは、哀しみのようでもあり、恋のようでもあった。
主なキャラ
・風悪…主人公。頭の左側に妖精の翅が生えている少年。
・一ノ瀬さわら(いちのせ)…鼻と首に傷のあるおさげの少女。
・二階堂秋枷…黒いチョーカーをつけている少年。
・三井野燦…左側にサイドテールのある少女。
・四月レン(しづき)…左腕にアームカバーをしている少女。
・五戸このしろ(いつと)…大きなリボンが特徴の廃課金少女。
・六澄わかし(むすみ)…黒髪に黒い瞳、黒い額縁の眼鏡に黒い爪の少年。
・七乃朝夏…軽くウェーブのかかった黒髪の少女。
・黒八空…長い黒髪の少女。お人よし。
・鳩絵かじか(はとえ)…赤いベレー帽が特徴的な少女。
・辻颭…物静かにしている少年。
・夜騎士凶…左眼を前髪で隠している顔の整った少年。
・妃愛主…亜麻色の髪を束ねる少女。
・王位富…普段は目を閉じ生活している少年。
・宮中潤…黒いマスクで顔下半分を覆う男性。担任。




