第十三話 風が読む文字
皐月の陽射しが柔らかく差し込む午後。
中間テストを前に、教室には鉛筆の走る音とため息が混じっていた。
異能戦線の喧騒が嘘のように、静かな時間。
だが――その沈黙の中で、ひとりの少年だけが違和感に囚われていた。
「……あれ?」
風悪は、古典の教科書を見つめながら小さく首をかしげる。
文法に違和感を覚えたからだ。
「何かおかしいところでも?」
黒八空が、心配そうにのぞき込む。
風悪は答えずに、視線を落としたまま考えていた。
まぶしいほど白い空間。
無数の文字列が、宙を漂うように浮かんでいる。
意味を持たない記号の群れが、呼吸するように動いていた。
それが、急に記憶の底から蘇る。
「そっか……あれは――思い出した!」
風悪が立ち上がる。
椅子の脚が音を立て、クラスの視線が集まった。
「ここに来るとき、“世界のはざま”みたいな場所を通ったんだ。
そこに、無数の文字が書かれてて――!」
息を荒げながら、言葉を続ける。
「“魔の居る世界”って、書かれてあったんだ!」
教室が一瞬、静まり返った。
その「居る」という言葉に、風悪自身が違和感を覚えていた。
“在る”ではなく、“居る”。
まるで“魔”が意思を持ってこの世界に“棲みついている”かのようだ。
四月レンの言っていた言葉――
“誰かの中にいる”――
その記憶が、風悪の背筋を冷たく撫でた。
「“魔の居る世界”か……他には?」
夜騎士凶が、身を乗り出すように問う。
「えっと……文字が多すぎて、情報が一気に流れ込んで、もう……」
風悪は苦笑して首を振った。
「無理に思い出さなくていい」
夜騎士の声は、どこか優しかった。
「その文字、こっちの文法とは違ってた?」
王位富が興味深そうに尋ねる。
「うん。似てるけど、どこか違う感じだった」
「なるほど。“外”の世界の文法ってわけか」
夜騎士がそう言い切る。
その言葉に、王位は納得したように頷いた。
「風悪や黒八の“太陽”も“外”から来た存在。
つまり、この世界そのものが“外”と繋がってる可能性がある」
王位の言葉が、空気を変えた。
“外の世界”――あの夢の記号群が、現実と地続きである可能性。
風悪の見た文字列は、確かにこの世界とは異なる「外の法則」で書かれていた。
つまりそれは――
「なんかさー、それって“外”の奴がこの世界作ったみたいじゃん?」
五戸このしろが、スマホを片手に気の抜けた声を出した。
「そのアイディア、もらった! かじかは漫画にします!」
鳩絵かじかが勢いよく立ち上がる。
「かじかちゃん、それ漫画のネタじゃないのよ」
五戸がため息まじりに突っ込む。
「どうせ描かないで終わるでしょ」
「ぐぬぬっ!」
鳩絵が悔しそうに唸る横で、夜騎士が机を叩く。
「お前ら勉強しろって!」
「ちょっと休憩よー!」
五戸が机の上に突っ伏す。
そんな騒がしさの中で、六澄わかしは無言のまま教科書をめくっていた。
淡々と、冷ややかに。
その黒縁の眼鏡の奥で、何を考えているのかは分からなかった。
「世界の成り立ちとかどうでもいい! 女の子に出会えたことに感謝ー!」
妃愛主が胸に手を当て、目を閉じる。
「お前も勉強しろ」
王位が即座にツッコミを入れる。
「なにぃ!? 男は要らん! 特に富! お前は駄目だ!!」
教室に妃の叫びが響き渡り、黒八が苦笑いをこぼす。
「愛主、落ち着いて……」
三井野燦が諭すように声をかける。
しかし妃は机の上でジタバタ暴れながら、聞く耳を持たなかった。
そんな騒動を横目に、風悪は再び思考を深めていた。
(この世界を“外”の誰かが作ったとしたら――
何故、“魔”なんて存在を作ったんだ?)
思考が沈み込む。
その瞬間、頭の中に白い閃光が走った。
――白い空間。
――浮遊する文字列。
それらがひとつに繋がる。
あのとき見た言葉。
『魔の居る世界』
そして、その隣に小さく書かれていたもう一文が脳裏に浮かぶ。
『創造者、干渉中』
(創造者……? 誰だ……?)
風悪の手が止まる。
胸の奥がざわついた。
同じころ、中庭では二人の生徒が向かい合っていた。
二階堂秋枷と七乃朝夏。
「……“何とかする”って、言いましたので」
七乃は俯きながら、研修での言葉を繰り返す。
「い、いや……そんな、無理しなくていいよ」
二階堂が慌てて笑う。
七乃の手が小さく震えていた。
「現状、わたくしにできるのは……これくらいしか。すみません」
声が震えていた。
どこか怯えるように、胸の奥に暗い影を落としている。
「いや、ありがとう。七乃さん、助かるよ」
二階堂は微笑む。
その笑顔に、七乃の頬が少しだけ和らいだ。
「そういえば――今秋発売予定の“ましゅまろちゃん”の新作、見ました!?」
突然、七乃の声が弾む。
大好きなゆるキャラの話題だ。
「え!? もう見たの!? オレ、まだ情報だけで……!」
二階堂が顔を輝かせる。
七乃は少し照れながら笑い返した。
――二階堂の笑顔の奥に、ほんのかすかな陰が差していることに、
彼女はまだ気づいていなかった。
──翌日。
空は澄み、風はやわらかく流れていた。
まるで昨日までの議論が、夢のように遠く感じられるほどに、穏やかな朝だった。
「おはよ~」
「おはようございます」
教室の扉を開けて入る風悪を、隣の席の黒八空がいつもの笑顔で迎えた。
陽光が差し込み、彼女の髪がやわらかく輝く。
ほんの一瞬、その穏やかさに風悪の胸も少し軽くなった。
「……あれから自分で勉強してみたけど、全然わかんねぇ!」
机に突っ伏しながら、風悪が呻く。
「また、みんなで勉強会しましょう」
黒八は微笑みながら提案した。
その言葉は優しく、風悪の肩の力を少しだけ抜いてくれる。
「でも、この程度でへこたれてたら“期末”はさらに大変ですよ?」
さらりと続けられたその一言に、風悪は目を見開いた。
「……期末!?」
教室中に、彼の声が響き渡った。
ちょうどその時、辻颭が登校してきた。
ドアの向こうから差す朝の光を背負いながら、どこか影をまとっている。
「あ、辻! おはよ」
風悪が声をかけると、彼は一瞬だけ視線を向け、短く返した。
「ん。」
それだけだった。
けれど風悪はめげずに笑う。
「辻は勉強、どう?」
「別に。普通だけど」
短い返答。
その口調には、どこか距離を取ろうとする冷たさがあった。
(やっぱ、壁があるよな……)
風悪は胸の中で呟く。
けれどそれでも――彼を放っておけなかった。
「一緒に勉強しないか? 嫌なら、いいけど」
その言葉に、辻の手が止まる。
ほんの一瞬、瞳が揺れた。
「……なんで、そんなに構うの?」
その問いに、風悪は言葉を失った。
ただ、心の奥から零れ出るように呟く。
「ごめん。お節介だった」
「いや、気にしてないよ」
辻は視線を逸らしながら答える。
その横顔には、淡い諦めのような影が落ちていた。
「オレは正直、補習でもいいかなって思ってる」
辻は小さく笑う――笑っているようで、どこか壊れたような表情だった。
「……そっちの方が、気も紛れるし」
淡々と、しかし妙に重い声で言葉を続ける。
「テスト勉強も、気が紛れるからやってるだけ」
教室の空気が一瞬、冷たくなった。
風悪は言葉を失い、ただ彼の背中を見つめるしかなかった。
その表情の奥にあるものが、何なのか――掴めない。
ただ、何かを“抱えている”ことだけは分かった。
「……っていうか、言っておく」
辻は顔を上げずに言葉を落とす。
「オレに関わらない方がいいよ」
その声は、まるで警告のように低く響いた。
それだけ告げて、辻は自分の席へと歩いていく。
足音が、やけに重く響いていた。
その様子を、ちょうど教室に入ってきた夜騎士凶が目にする。
「……なんかあった?」
夜騎士が小声で風悪に尋ねた。
だが、風悪は首を横に振るだけだった。
説明できなかった。
辻の言葉の真意も、あの一瞬の表情の意味も分からなかったからだ。
窓の外では、春の風が静かに吹き抜けていた。
どこか遠くで、鳥の鳴き声が聞こえる。
黒八が心配そうに風悪の方を見ていた。
彼女の瞳は優しく、けれどどこか、不安の色を帯びている。
「……辻。」
風悪は小さく呟く。
その声は、誰にも届かぬまま、風に溶けていった。
静かな教室に、風の音だけが残っていた。
主なキャラ
・風悪…主人公。頭の左側に妖精の翅が生えている少年。
・一ノ瀬さわら(いちのせ)…鼻と首に傷のあるおさげの少女。
・二階堂秋枷…黒いチョーカーをつけている少年。
・三井野燦…左側にサイドテールのある少女。
・四月レン(しづき)…左腕にアームカバーをしている少女。
・五戸このしろ(いつと)…大きなリボンが特徴の廃課金少女。
・六澄わかし(むすみ)…黒髪に黒い瞳、黒い額縁の眼鏡に黒い爪の少年。
・七乃朝夏…軽くウェーブのかかった黒髪の少女。
・黒八空…長い黒髪の少女。お人よし。
・鳩絵かじか(はとえ)…赤いベレー帽が特徴的な少女。
・辻颭…物静かにしている少年。
・夜騎士凶…左眼を前髪で隠している顔の整った少年。
・妃愛主…亜麻色の髪を束ねる少女。
・王位富…普段は目を閉じ生活している少年。
・宮中潤…黒いマスクで顔下半分を覆う男性。担任。




