第百十一話 凶の影
夜騎士凶――今でこそ仲間思いで、冷静な少年として知られている。
だが、その過去を知る者は少ない。
かつて彼は、名の通り“凶悪”だった。
幼い心には、善も悪も区別がなかった。
泣くことよりも、壊すことのほうが早かった。
ただ思うがままに、力を振るうだけ。
それが幼い日の彼のすべてだった。
“夜騎士”になる前――
彼の両親の離婚前の名は、鯱氷凶。
鯱氷家は〈鯱の魔物〉の血を引く末裔だった。
海と氷の魔物を統べる者たち。
彼らは代々、影を纏い、鯱のように滑らかに動く。
その異能は――影装。
自らの影を装備し、鋭い鯱の四肢のように変化させる術。
反響定位で敵の位置を読み、音波を操ることさえできた。
だが、凶はその力を制御できなかった。
幼稚園に通っていたある日、彼は暴走した。
止める者もなく、力は周囲を呑み込み、同じ園にいた子どもたちは――帰らなかった。
それでも、誰も凶を理解できなかった。
叱責と恐怖だけが日常になった。
小学校に進んでも、その状況は変わらなかった。
父は世間体を気にし、凶を厳しくしつけた。
だが、罰を与えても力は抑えられず、心だけが歪んでいった。
善悪を知らない。
暴走することを悪いことだと、教えてくれる人がいなかった。
だから、壊すたびに怒鳴られ、泣かされ、また壊す。
何も分からないまま大人に叱られ、何も分からないまま少しだけ成長していく。
――そんな日々だった。
ただひとり、彼に優しくしてくれた人がいた。
年の離れた姉。
彼女だけは、凶の異能を恐れなかった。
凶が暴走すれば、身を挺して止めに入り、
泣く彼の手を握りながら、何度でも教えた。
「どうせ力を振るうなら、味方のために」
その言葉を、姉はいつも微笑みながら言った。
叱らず、否定せず、ただまっすぐに。
姉の存在が、凶の中で唯一の“光”だった。
その光が、やがて消える。
ある日、姉は任務の途中で帰らなかった。
〈ⅩⅢ〉の一員として活動していた姉は、任務中に命を落としたのだ。
――殉職。
その言葉の意味が、幼い凶にはすぐには理解できなかった。
けれど、二度と声を聞けない現実だけは、身体の芯で分かった。
初めて“命の重さ”を知った。
一度失われたものは、もう二度と戻らない。
当たり前のことに気づくまでに、どれほどの血を流しただろう。
小学三年の冬。
雪の積もる夜、凶は凍えた手で姉の形見を握りしめ、泣いた。
もう二度と誰も傷つけたくない。
そう願ったのは、そのときが初めてだった。
――だが、遅すぎた。
彼の歩んできた道には、血が染みついていた。
どれだけ拭っても消えない、紅い跡。
それが“鯱氷凶”という名に刻まれた呪いだった。
凶は、自分を責めた。
何度も、何度も。
どうしてあのとき止められなかったのか。
どうして、もっと早く気づけなかったのか。
血に染まった両手を見下ろすたび、胸が締めつけられる。
それでも、立ち止まるわけにはいかなかった。
――過ちを、繰り返さないために。
――姉の意志を、継ぐために。
彼は影を操る異能を、何度も何度も練り直した。
失敗しても、叱られても、また立ち上がった。
それだけが、贖罪の形だと信じて。
いつの間にか、彼の中で姉は“英雄”の象徴となっていた。
ⅩⅢ。姉が所属していた組織。
それを目指すことが、彼の生きる理由になった。
中学に入った頃、凶はさらに変わっていった。
他人を傷つける力ではなく、
“誰かを守る力”を信じるようになった。
その中で出会ったのが――王位富だった。
友達を大事にする――その一点を、信条にした。
王位富と出会い、凶は初めて“友”という言葉の意味を見た。
だからこそ、守りたかった。
それでも、運命は残酷だった。
〈海豚悪天〉
彼に目をつけられたことで、凶はついに“魔”に呑まれた。
怒りも悲しみも、全てが混ざり合って意識が途切れる。
気づいたときには、周囲が傷つき、
自らの左目には深い傷が刻まれていた。
――そして王位が、彼を救った。
“魔”に喰われた凶を救うために、
王位は自身の角――異能の核を犠牲にした。
そのことを後で聞かされた時、
胸にのしかかるものがあった。
重く、息ができないほどの罪悪感。
また、自分のせいで誰かが傷ついた。
何度やっても力に呑まれる。
“魔”に呑まれる。
そのたびに、周りが傷ついていく。
凶の歩む道には、いつも血があった。
それでも――立ち止まらなかった。
放課後の誰もいない演習場で、
凶は影を操る訓練を繰り返していた。
影が暴れれば、自らの腕を噛ませて止めた。
何度も、何度も。
ある日、その姿を三井野燦が見つけた。
彼女の声に、凶は初めて気づいたように振り返った。
そして、不器用に笑った。
“どうせ力を振るうなら、味方のために”。
その言葉が、心の奥に再び灯をともした。
それからの凶は、以前よりもさらに制御に打ち込んだ。
流れる汗も、痛む腕も、すべてが赦しへの道だった。
高校に入ってから、仲間が増えた。
風悪、四月、黒八、五戸たち、夜を照らすような明るい者たち。
気づけば、笑い合える日々があった。
――それでも、また暴走した。
何度目かも分からない。
“魔”に呑まれ、理性を失い、また誰かを傷つけた。
過去も、中学も、高校も。
どの記憶を辿っても、血の匂いが消えない。
苦く、鉄の味がする日々。
それでも――彼は諦めなかった。
姉の言葉が、まだ胸の奥で響いていたからだ。
「どうせ力を振るうなら、味方のために」
それが、夜騎士凶という少年を立たせ続ける唯一の祈りだった。
主なキャラ
・風悪…主人公。頭の左側に妖精の翅が生えている少年。
・一ノ瀬さわら(いちのせ)…鼻と首に傷のあるおさげの少女。
・二階堂秋枷…黒いチョーカーをつけている少年。
・三井野燦…左側にサイドテールのある少女。
・四月レン(しづき)…左腕にアームカバーをしている少女。
・五戸このしろ(いつと)…大きなリボンが特徴の廃課金少女。
・六澄わかし(むすみ)…黒髪に黒い瞳、黒い額縁の眼鏡に黒い爪の少年。
・七乃朝夏…軽くウェーブのかかった黒髪の少女。
・黒八空…長い黒髪の少女。お人よし。
・鳩絵かじか(はとえ)…赤いベレー帽が特徴的な少女。
・辻颭…物静かにしている少年。
・夜騎士凶…左眼を前髪で隠している顔の整った少年。
・妃愛主…亜麻色の髪を束ねる少女。
・王位富…普段は目を閉じ生活している少年。
・宮中潤…黒いマスクで顔下半分を覆う男性。担任。




