第百八話 夢の残響
──夢が、覚めていく。
白と黒が溶け合い、音のない世界が色を取り戻していく。
ゆっくりと、現実が戻ってきた。
気がつけば、A組は一年B組の教室の前に立っていた。
封印されていたはずの結界は消え、扉は何事もなかったかのように静かに佇んでいる。
「戻ってきた!?」
妃の声が響く。
「……そうみたい」
三井野が息を吐き、胸に手を当てた。
安堵の笑みが、その顔に浮かぶ。
だが――
「ふ、ははは……あははははは……」
突然、笑い声が響いた。
その場にいた全員が、息を呑む。
笑っていたのは六澄わかしだった。
いつも無表情で、冷えた空気のようだった少年が、
今は人間らしく――まるで“楽しむように”笑っていた。
「わかし……?」
五戸が戸惑いの声を上げる。
風悪も言葉を失っていた。
六澄の笑い声は、どこか違和感を伴っていた。
喜びとも悲しみともつかない。
それは“何か別のもの”が笑っているような、底のない音だった。
B組の教室前で、ただその笑いだけが響き渡る。
静かな校舎に、反響するように。
誰も、何も言えなかった。
風が止み、空気が凍りつく。
* * *
同時刻――ⅩⅢ監視棟。
「――-02Y、完全消滅を確認!」
管制室の警報が鳴り響く。
オペレーターの声が震えた。
「何だと!?」
宮中潤が黒いマスク越しに声を上げる。
モニターには、封印波の崩壊ログ。
〈対象ユニット消滅〉の文字が赤く点滅していた。
「……風悪」
四月レンが呟く。
モニターの前に立つ職員たちは、息をするのも忘れて画面を見つめていた。
誰もが、いま起きたことの意味を理解できていなかった。
封印局長――“封獄の番人”と呼ばれる女が静かに立ち上がる。
漆黒の封印装束をまとい、冷たいヴェールが光を反射する。
「命令は絶対。だが、標的が消えたのなら……遂行のしようもない」
淡々とそう言い残し、踵を返す。
足音が遠ざかるたびに、部屋の温度がわずかに上がっていくようだった。
宮中は拳の握りを緩めた。
四月はただ、モニターの残光を見つめ続ける。
そこに映るのは、静かに消えた“願い”の痕跡。
──ユイは、もういない。
それが、確かな事実だった。
* * *
夜。
風悪はベッドの上で目を閉じていた。
疲れた身体が眠りに落ちると同時に、夢が再び始まる。
いつもの電車。
何も映らない窓。
光も、風も、遠くで流れるだけの空虚な世界。
「ユイは消えた……オレが、消した……」
膝の上に手を置き、風悪は小さく呟く。
その声に、返事があった。
「どのみち、世界に消されていたさ」
不意に視線を上げると、目の前の座席に“黒い妖精”が座っていた。
ラウロス。
闇を纏い、脚を組み、窓の外を見ながら微笑んでいる。
「お前……」
風悪が睨む。
しかし、ラウロスは相変わらず穏やかな声で言った。
「楽しいものを見せてもらった。人の願いというのは、実に愚かで、面白い」
その声音には、神とも悪魔ともつかぬ響きがあった。
風悪は、わずかに声を震わせながら問う。
「お前……六澄、だろ」
沈黙。
ラウロスの横顔が、ゆっくりとこちらを向く。
その瞳の奥に、確かに“人の形”が宿っていた。
「ラウロス……お前がいた時、六澄の姿だけがなかった」
風悪は確信を込めて言った。
夢と現実の狭間――
そこにいなかった“六澄”の代わりに、ずっと隣にいた“闇”。
ラウロスの口元が、静かに歪む。
「だったら、どうする?」
その声が響いた瞬間、風悪の目の前で、黒い影がゆらめいた。
ラウロスの姿が、ゆっくりと溶けていく。
そして――
そこに座っていたのは、六澄わかしだった。
「知ってることを、全部言えよ」
風悪の低い声が、電車の静寂に響いた。
その声には怒りでも恐れでもなく、確かめようとする意志があった。
「断る」
六澄は即答した。
表情はいつもと変わらない。
ただ、無造作に指で眼鏡の縁を押し上げる仕草だけが、彼の中の“人間的な”部分を僅かに覗かせた。
「お前が……この世界を作ったのか?」
風悪が問いかける。
六澄は視線を窓の外へ向けた。
そこには何も映らない。
ただ、終わりなき夜の闇と、遠くを流れる光だけ。
「妖精の力を使って願いを叶えた。世界を作った。その時に――妖精としての力は失われた」
その声は淡々としていた。
独白のようであり、告白のようでもあった。
六澄には、妖精の翅がない。
風悪が初めて彼を見たときから、そうだった。
その理由が、いま繋がった。
力を使い果たした妖精。
しかし、肉体はなお妖精としての構造を保ち続けている。
毒は効かず、眠りも人より必要としない。
食事もまた、人とは感覚が違う。
外の文法で文字を書いたのも、すべてが「外側の存在」としての名残だった。
「なんで……“魔”なんてものを生んだんだよ」
風悪の声が震える。
それは怒りではなく、ただ知りたかった。
この世界に渦巻く苦しみの根を。
ユイも、北乃ムラサキも、あの“願い”も――すべてその結果だった。
だが、六澄は何も答えない。
「全てを教えたらつまらない。それに、自分の知らない範疇の答えを出してくれた方が――面白い」
それだけを言い、再び沈黙。
電車は止まることなく、どこまでも同じ場所を巡り続けていた。
窓の外の景色は、永遠に変わらない。
まるで、彼らの世界そのもののように。
* * *
翌日。
切ノ札学園は、何事もなかったかのように朝を迎えた。
陽光が差し込み、ざわめきが戻ってくる。
B組もA組も、久しぶりに全員が揃っていた。
「体育祭終わったの!?」
「文化祭も不完全燃焼だったのに!」
B組の教室からは騒がしい声。
その賑やかさに、A組の面々もつられて笑う。
「元気、良いね」
二階堂が呟くと、七乃はやわらかく微笑んだ。
「はー……これで私の敵討ちはおわりかー」
五戸はスマホを弄りながら気怠げに言う。
「課金、そろそろやめたら?」
鳩絵が呆れたように言っても、五戸は「やめない」と短く返す。
そんな他愛のない会話が、いつもの日常を連れ戻していた。
六澄は教室の一番前の席に座っていた。
無表情で、ただページをめくる。
意味のない動作のようでいて、それが彼にとって“生きる演技”だった。
――けれど、その瞳の奥で、まだ闇が微かに瞬いていた。
『でもまだ。”魔”は残っている』
一ノ瀬のスマホにはそう文字を記した。
教室の前では、夜騎士が立ち上がる。
「なあ、お前ら……“十三部”やらね?」
その言葉に、教室の空気が和らぐ。
王位が小さく笑って答える。
「A組みんなで十三部。――これまでと変わらないね」
五戸がスマホを片手に顔を上げた。
「“魔”の模造品騒ぎも終わったし、まあ、いいか。手伝ってやるよ、十三部」
その声は、気怠げでいて、確かな温度を持っていた。
窓の外。
風がそっと吹き抜ける。
木の葉が一枚、教室の中に舞い込んだ。
少年少女たちは笑っていた。
けれど――その風の奥に、まだ微かな“ざらつき”が残っている。
『――魔は、誰かの中に』
誰の声かも分からぬ囁きが、ほんの一瞬、風悪の耳をかすめた。
彼は顔を上げる。
穏やかな風が頬を撫でた。
だが、その風は、どこか寂しく、冷たかった。
“まだ終わってはいない”――
風悪の瞳に、そんな決意が宿る。
そして、学園の日常が再び動き出した。
少年少女たちの物語は、なお続いていく。
主なキャラ
・風悪…主人公。頭の左側に妖精の翅が生えている少年。
・一ノ瀬さわら(いちのせ)…鼻と首に傷のあるおさげの少女。
・二階堂秋枷…黒いチョーカーをつけている少年。
・三井野燦…左側にサイドテールのある少女。
・四月レン(しづき)…左腕にアームカバーをしている少女。
・五戸このしろ(いつと)…大きなリボンが特徴の廃課金少女。
・六澄わかし(むすみ)…黒髪に黒い瞳、黒い額縁の眼鏡に黒い爪の少年。
・七乃朝夏…軽くウェーブのかかった黒髪の少女。
・黒八空…長い黒髪の少女。お人よし。
・鳩絵かじか(はとえ)…赤いベレー帽が特徴的な少女。
・辻颭…物静かにしている少年。
・夜騎士凶…左眼を前髪で隠している顔の整った少年。
・妃愛主…亜麻色の髪を束ねる少女。
・王位富…普段は目を閉じ生活している少年。
・宮中潤…黒いマスクで顔下半分を覆う男性。担任。




