第百七話 風と願い
そこは、虚空に浮かぶ無限の闘技場だった。
黒と白の境界が曖昧に揺れ、空間そのものが脈動している。
足元の床は光と影が溶け合い、まるで夢と現実の狭間に立っているようだった。
円形の舞台の周囲には、淡い光に包まれた観客席。
そこにはA組の仲間たちの姿があった。
全員が息を呑み、驚愕と不安の入り混じった表情で立ち尽くしている。
舞台の中央――
風悪とユイが向かい合っていた。
白と白。
風と願い。
存在そのものが、世界の均衡を測るように対峙する。
「オレは……勝たなきゃいけない」
「私は消えない」
ふたりの言葉が同時に重なった。
その瞬間、空気が爆ぜた。
ユイが動く。
風を裂くように一歩で間合いを詰め、手に光を宿す。
その光が細く伸び、一本のレイピアとなった。
「あなたを消してでも、私が残る」
細身の刃が閃く。
一突き。
風悪はわずかに身体を傾け、その軌跡を紙一重で躱した。
風が弾ける。
風悪は空気の流れを読んで背後へ回り込み、反撃の風を展開。
ユイを吹き飛ばそうとする――が。
ユイの手の中で、レイピアが変形した。
白銀の櫛。
それをゆるやかに風へとかざす。
櫛の歯が、風を撫でた。
次の瞬間、風が音もなく――ほどけて消えた。
「っ……!?」
風悪の瞳が見開かれる。
自身の風が、解かされた。
観客席の王位がすぐに理解した。
「風悪の風が無効化された……」
彼の分析を聞きながら、妃が拳を握る。
「風悪! 負けたら承知しないんだからね!」
その声が、闘技場に反響する。
ユイは櫛をくるりと回し、今度はそれを大鋏へと変えた。
双刃が重なり、冷たい光を放つ。
次の瞬間、大鋏が風悪の足元から振り上げられる。
風悪は即座に反応した。
刃の間に飛び乗り、風を纏って跳躍。
その勢いのまま、ユイの正面へ脚を突き出す。
蹴撃。
衝撃が走り、ユイの身体が後方へ弾けた。
その胸元から、光の粒が零れ落ちる。
――“願い”の欠片。
その光は舞い上がり、空間を伝ってA組の観客席へと届いた。
「これは……東風さんの願い……」
三井野が小さく呟く。
夜騎士は頭を押さえ、苦しげに声を漏らした。
「……風悪」
空中に漂う願いは、淡い桃色の光。
“夜騎士凶を手に入れ、A組に勝ちたい”――
そんな、青春のように痛く、幼い祈りの形。
ユイはゆっくりと立ち上がる。
手に再びレイピアを呼び戻し、突きを放った。
細やかな刃の連撃。
何度も、何度も。
風悪は全てを読み切り、最小限の動きで躱す。
そして――懐に潜り込み、一撃を放った。
金属音と共に、ユイの身体が揺れる。
再び光が散った。
今度は、紫色の“願い”。
北乃ムラサキの祈り。
――「友達と離れたくない」。
観客席で五戸が拳を握りしめた。
「……全部、利用してたってわけね」
鳩絵は唇を噛み、震える声で呟く。
「武器の持ち主の願い……それを全部、糧にしてるんだ」
風悪は風を再び展開しようとする。
しかし、ユイが櫛を構えた瞬間――
風は再び、無音の中で“解かれた”。
二階堂が息を呑む。
「ダメだ……櫛の時に、風は──」
「信じましょう、風悪君を」
七乃が両手を胸に組み、祈るように呟いた。
ユイは再び形を変える。
櫛が槍へ、槍が斧へ、斧が剣へ――
そのたびに、光が瞬き、空気が軋んだ。
鋭い一撃ごとに、風悪は身を翻し、ユイの懐へ一閃。
打撃の度に、ユイの身体から“願い”が零れ出す。
その数は、数え切れないほど。
東風、北乃、無名の誰か。
悲しみ、嫉妬、祈り、後悔――
それらすべてがユイの中で溶け合い、彼女の存在を支えていた。
「……いったい、どれだけの願いを抱えてるんだ」
辻が呟いた。
黒八は両手を握りしめ、叫ぶ。
「風悪君、頑張って!」
観客席の声が、風のように届いていく。
風が渦を巻いた。
白と黒の空間が鳴動する。
風悪は手をかざし、風を展開しようとした。
対するユイは、即座に反応して櫛を手に取る。
――風を解かすための武器。
しかし、風悪はその一瞬の動きを見逃さなかった。
彼は風を止め、足に力を込めて駆け出した。
風を使わず、肉体だけで間合いを詰める。
ユイが櫛を振りかざした瞬間――
風悪の蹴りが彼女の胸を打ち抜いた。
鈍い音。
ユイの身体が宙を舞い、床に叩きつけられる。
(……風を囮に、攻撃力のない櫛を誘い出した)
一ノ瀬は観客席で息を呑みながら、心の中で分析していた。
(頭を使え、物理的な意味じゃないぞ)
――四月の声が、風悪の記憶の奥で響く。
その言葉が、彼の足を止めさせなかった。
風悪は再び走る。
風を使わず、拳と脚だけでユイを追い詰めていく。
その姿はまるで“人間としての風”。
ユイの身体が揺れるたび、光の粒が零れ落ちる。
――消えたくない。
――私は失敗作じゃない。
――私も、風に……。
その願いの断片が空に漂う。
ユイの声が、微かに泣いていた。
「ユイ……」
風悪はその名を静かに呼んだ。
闘技場の外では、ラウロスがずっと黙って見ていた。
表情ひとつ変えず、ただ“観測者”として。
ユイは立ち上がる。
身体中に傷を負い、血の代わりに光を滴らせながら。
「私は、私は、私は――!」
悲鳴にも似た叫び。
彼女の周囲に、無数の武器が浮かび上がった。
レイピア、槍、斧、剣、櫛、鎖、杖……。
願いの欠片たちが、彼女の最後の力で具現化していく。
「失敗作じゃない!!」
咆哮と共に、すべての武器が風悪へと殺到した。
無数の光線が風を裂き、空間を切り刻む。
だが――風悪は歩いた。
ゆっくりと、確かな足取りで。
吹き荒れる殺意の中を、一歩、また一歩と進む。
すべての刃を、わずかな動きで避けながら。
彼の周囲に流れる風が、優しく彼を包む。
「っ……!? どうして……」
ユイの瞳が大きく見開かれた。
自分の願いの産物たちが、彼に触れられない。
風悪の表情は、哀しみを湛えていた。
「――終わりだ」
その声は、憐れみと祈りを含んでいた。
風悪の拳が振るわれる。
その一撃は、破壊ではなく――解放だった。
ユイの身体が光に包まれる。
全ての武器が砕け、光の粒となって舞い上がる。
「勝負あったな」
ラウロスの声が、無表情に響いた。
ユイは膝をつき、崩れ落ちながらも、まだ微かに笑っていた。
光が彼女を包み、輪郭が溶けていく。
「私は……」
掠れた声。
その続きを言う前に、言葉が風に溶けた。
風悪は静かに目を閉じ、囁いた。
「なれるさ――風に」
ユイの瞳が、驚きに見開かれる。
その後、わずかに頬が緩んだ。
涙がひとすじ、光の中に流れた。
そして彼女は、微笑みながら消えていった。
風が、優しく吹いた。
まるでその存在を抱きしめるように。
――世界に、風が戻った。
主なキャラ
・風悪…主人公。頭の左側に妖精の翅が生えている少年。
・一ノ瀬さわら(いちのせ)…鼻と首に傷のあるおさげの少女。
・二階堂秋枷…黒いチョーカーをつけている少年。
・三井野燦…左側にサイドテールのある少女。
・四月レン(しづき)…左腕にアームカバーをしている少女。
・五戸このしろ(いつと)…大きなリボンが特徴の廃課金少女。
・六澄わかし(むすみ)…黒髪に黒い瞳、黒い額縁の眼鏡に黒い爪の少年。
・七乃朝夏…軽くウェーブのかかった黒髪の少女。
・黒八空…長い黒髪の少女。お人よし。
・鳩絵かじか(はとえ)…赤いベレー帽が特徴的な少女。
・辻颭…物静かにしている少年。
・夜騎士凶…左眼を前髪で隠している顔の整った少年。
・妃愛主…亜麻色の髪を束ねる少女。
・王位富…普段は目を閉じ生活している少年。
・宮中潤…黒いマスクで顔下半分を覆う男性。担任。




