第百六話 封印の夢
北乃ムラサキには、友達が一人しかいなかった。
その子の名は――南ライ。
明るくて、誰にでも笑顔を向ける子。
教室の中心にいるような存在。
そんな彼女が、ある日ふとムラサキに声をかけてくれた。
「一緒に帰ろ?」
それだけの言葉が、世界を変えた。
北乃にとって、それは初めての“居場所”だった。
けれど、南ライには他にも友達がいた。
昼休みには別のグループで笑っていて、放課後には誰かと出かけていた。
その姿を見るたびに、胸の奥がきゅっと痛んだ。
――本当は、独り占めしたかった。
その夜、北乃ムラサキの背後に“それ”は舞い降りた。
細身のレイピア。
何の前触れもなく、ただ彼女の影から現れた。
そして、耳の奥で囁く声がした。
『……これに魂を集めきったら、願いを叶えましょうね』
甘く、優しい声。
けれど、その優しさの奥には、底の知れぬ深淵が潜んでいた。
北乃はその刃を見つめ、震える手で触れた。
けれど、すぐに恐ろしくなって、レイピアをそっとしまった。
――それが、すべての始まりだった。
* * *
ある日の放課後。
静まり返った校舎の廊下で、背後から声がした。
「……キミ、願いがあるんだろう?」
そこには六澄わかしが立っていた。
眼鏡の奥の瞳が冷たく光る。
「一条会を知ってるか? “願い”を形にできる場所だよ」
北乃が振り向いた瞬間――彼の姿は消えていた。
まるで幻のように。
彼女は半信半疑のまま、一条会の名を追った。
そして、行き着いた。
そこは祈りを利用し、願いを喰らう“装置”。
北乃の純粋な思いは、利用され、歪められた。
――ただ一人の友を、失いたくなかった。
――独り占めしたかった。
利用され、裏切られ、それでもなお
北乃の心には、南ライへの想いが消えなかった。
* * *
封印されたB組の中。
光の膜の向こうには、静かに眠る南ライの姿があった。
北乃は封印越しに手を伸ばす。
指先が震える。
――助けたい。
その思いだけが、彼女を動かしていた。
けれど、その純粋な“願い”を――ユイが利用した。
光が脈動する。
風が逆巻く。
封印が、夢と現の境界を壊し始めていた。
* * *
――夢と現実の狭間。
色のない世界が広がっていた。
音も風も、まるで遠い昔の記憶のようにぼやけている。
辻の目の前に、ひとりの“自分”が立っていた。
血に染まった腕。
瞳に宿る、獣のような光。
「オレ……オレは……」
辻は頭を抱え、膝をついた。
あの日、魔物の血に呑まれた自分。
抗えず、誰かを傷つけた過去。
その映像が、目の前で繰り返される。
「大丈夫ですよ、辻君」
優しい声。
黒八空が彼の肩をそっと抱いた。
その温もりが、現実へのわずかな錨となる。
* * *
鳩絵の前では、スケッチブックの中の絵が蠢いていた。
キャンバスから這い出すように、描かれた線が形を持ち始める。
『ちゃんと見て』
『もっと描いて』
耳の奥で声が木霊した。
鳩絵は恐怖に震えながらも目を逸らせない。
その時、五戸が縄を放ち、絵を吊り上げた。
「かじかちゃん、聞いちゃダメ」
低く、それでいて優しい声。
鳩絵ははっとして顔を上げ、五戸を見た。
その瞬間、声は霧のように消えた。
* * *
一ノ瀬の前には、体育祭で見た“暴走した友達”の影が立っていた。
彼女はその姿を見て、静かに目を伏せる。
(……大丈夫。これは夢)
彼女は手を胸に当て、深く息を吸った。
その呼吸の音が、闇の中で唯一の現実の証だった。
二階堂は虚ろな目で立ち尽くしていた。
七乃がそっと手を取る。
「大丈夫ですわ。目を開けてください」
夜騎士は膝をつき、俯いていた。
幼い日の記憶。
魔物の血が暴走し、何もかもを壊したあの日。
その惨状を、再び見せつけられていた。
三井野と妃、そして王位が心配そうに彼の側へ寄る。
「凶君……!」
「大丈夫、ここにいるよ」
彼らの声が、闇の中でわずかな灯となる。
* * *
そして――風悪の前に、黒い妖精が現れた。
ラウロス。
黒い髪に黒い瞳、薄笑いを浮かべている。
「人間はこれだから面白い」
ラウロスは指を横に向けた。
その先にいたのは――北乃ムラサキ。
彼女は、眠るように南ライを抱きしめていた。
微笑みながら、動かない。
その姿はまるで“夢”の中の幸福そのもの。
「夢を見ているのね」
柔らかな声が響く。
どこからともなく、ユイの声が聞こえた。
「幸せそう……きっと、彼女を手に入れた夢を見ているのね」
光が揺らめく。
ユイが、風悪の前に姿を現した。
制服に身を包んだ白髪の少女。
笑顔は穏やかで――けれど、その瞳の奥には、確かに“闇”があった。
白と黒が混ざり合う、何処とも知れぬ空間。
音も風も、ただ遠い残響のように揺れている。
風悪の目の前に、二つの影が並び立っていた。
一人は、黒い妖精――ラウロス。
もう一人は、白い少女――ユイ。
風悪は無意識に風を展開しようとした。
空気が渦を描き、微かに翅が震える。
だが、その瞬間――
「しかし、この展開には、飽きたな」
低く響く声。
ラウロスが無感情な瞳をこちらに向けた。
ユイの表情が凍りつく。
その視線が、ラウロスに縋るように向けられる。
「B組が人質である以上、封印と解放のイタチごっこ。……面白くない」
ラウロスの言葉は冷たく、まるでこの世界そのものを見下ろしているようだった。
「待ってください、創造主様! 私は──」
ユイが声を上げる。
その声音は必死で、恐怖と執念が混じっていた。
だが、ラウロスは一瞥もくれずに言い捨てる。
「魔の模造品。真似事では、物足りん」
その一言で、ユイの全身が震えた。
「違う、私は……!」
彼女の叫びは闇にかき消される。
ラウロスがゆるやかに手をかざす。
瞬間、空間に闇が広がった。
濃く、重い、光を拒む闇。
B組の教室が、その闇に包まれていく。
「B組と模造品の連結を遮断した。これで道連れには出来ない」
ラウロスは淡々と宣言する。
ユイの顔が苦悶に歪んだ。
「なっ……!」
風悪は息を呑んだ。
その光景が何を意味するのか、理解できないまま――ただ本能的な寒気を覚えた。
ユイは、かすれた声で言葉を搾り出す。
「模造品でも、私は世界に必要です!」
叫びは必死だった。
けれど、ラウロスは微動だにしない。
「お前……」
風悪は、思わず声を漏らした。
その視線の先で、ラウロスの闇がゆっくりと広がる。
「そうだ。ならば――この世界らしく、決闘で決めようか」
乾いた音が響いた。
ラウロスが指を鳴らす。
世界が、反転した。
視界が暗転し、光が消える。
代わりに現れたのは、虚空の闘技場のような無限の空間。
黒と白の境界が曖昧に揺れ、中央には円形の舞台が浮かんでいる。
観客席のような場所に、A組の仲間たちの姿が見えた。
全員が驚愕の表情で立ち尽くしている。
「決闘――代表戦だ」
ラウロスの声が響く。
その声には、神々の宣告にも似た重さがあった。
「負けた方は、この世界から消えてもらう」
中央に立つ黒い妖精。
ラウロスは風悪とユイを見据えた。
ユイは震える唇を噛みしめ、立ち上がる。
「消え……? 私は、必要なはずです!」
声が掠れている。
けれど、その瞳の奥にはまだ光があった。
ラウロスはそれを見ようともせず、無感情に言葉を紡ぐ。
「少なくとも必要なのは、風悪の方だ。
模造品は要らん。この世界には、すでに“魔”が存在しているのだからな」
ユイの表情が歪む。
それは怒りでも悲しみでもなく――孤独の色だった。
「勝てばいい、それだけだ」
ラウロスが言い放つと同時に、空間が震えた。
風が吹き、光が二人の間を裂く。
ユイは諦めたように小さく息を吐き、そして風悪を見つめた。
「……私は、消えない」
その声は静かで、どこか誇りすら感じさせた。
赤みを帯びた瞳に、ゆっくりと闘志が灯る。
風悪は拳を握りしめ、問いかけた。
「オレが勝てば……みんなを解放してくれるのか?」
ラウロスは短く頷いた。
「――ああ」
その言葉は、あまりにも簡潔で、あまりにも重かった。
* * *
観客席のA組は騒然となる。
「何? どういうこと!?」
「これ、ユイと風悪の決闘ってこと?」
「B組は? かじかたちはどうなるの!?」
鳩絵の声が震え、黒八が祈るように手を組む。
王位は眉をひそめ、四月と宮中の姿を探したが、いなかった。
夜騎士は拳を握り、低く呟く。
「……やるしかないのか、風悪」
誰もが見守る中。
風悪は一歩、前へ出た。
風が彼の足元を撫でる。
髪が揺れ、翅が光を返す。
封印再起動の“決闘”が、今――幕を開けた。
主なキャラ
・風悪…主人公。頭の左側に妖精の翅が生えている少年。
・一ノ瀬さわら(いちのせ)…鼻と首に傷のあるおさげの少女。
・二階堂秋枷…黒いチョーカーをつけている少年。
・三井野燦…左側にサイドテールのある少女。
・四月レン(しづき)…左腕にアームカバーをしている少女。
・五戸このしろ(いつと)…大きなリボンが特徴の廃課金少女。
・六澄わかし(むすみ)…黒髪に黒い瞳、黒い額縁の眼鏡に黒い爪の少年。
・七乃朝夏…軽くウェーブのかかった黒髪の少女。
・黒八空…長い黒髪の少女。お人よし。
・鳩絵かじか(はとえ)…赤いベレー帽が特徴的な少女。
・辻颭…物静かにしている少年。
・夜騎士凶…左眼を前髪で隠している顔の整った少年。
・妃愛主…亜麻色の髪を束ねる少女。
・王位富…普段は目を閉じ生活している少年。
・宮中潤…黒いマスクで顔下半分を覆う男性。担任。




