第百四話 風、囁く朝
神無月。
体育祭から二日が経った。
切ノ札学園は穏やかな日常を取り戻し、校内には勝利の余韻がまだ漂っていた。
だが――その中で、ひとつだけ変わらない教室があった。
一年B組。
今も白い結界に包まれ、封印は解かれていない。
* * *
特別対策部室――今のA組仮教室。
勝利の浮ついた空気とは裏腹に、部屋にはどこか沈んだ影が漂っていた。
「勝ったけど……B組の戦いも見たかったな」
辻がぽつりと呟いた。
彼の声は、誰もが心の奥にしまい込んでいた感情を引き出すようだった。
妃が小さく息を吐く。
「東風……」
名を呼ぶ声は、かすれて震えていた。
風悪は机の上のペンを指先で回しながら、黙っていた。
目を閉じると、あの夢の中の声が蘇る。
――一人、お忘れですか?
(誰を……?)
心の奥に、ざらついた風が通り抜けた。
* * *
朝の光が校舎の窓を透かして差し込む。
その光の中に、ひとりの少女の姿があった。
北乃ムラサキ。
白いカーディガンを羽織り、黒髪に混じる紫のメッシュが風に揺れる。
長い休学を経て、ようやく今日、登校の日を迎えた。
「……戻ってきたんだ、私」
胸の奥で小さく呟く。
その声には、かすかな決意が混じっていた。
北乃ムラサキ――
かつて“一条会”に利用され、“群集熱事件”に巻き込まれた少女。
意識を失い、長い間眠り続けていた彼女は、ようやく学園へと戻ってきたのだ。
だが、足を踏み入れた校内の空気は、どこか異質だった。
廊下を歩いても、談笑の声も足音も聞こえない。
まるで、校舎全体が“息を潜めている”ようだった。
昇降口の掲示板に、目を留める。
そこには、無機質な赤文字で記されていた。
――【一年B組・封鎖区域】
その瞬間、彼女の表情が凍りつく。
(……嘘)
足が震えた。
信じられないまま、彼女は廊下を駆け出す。
靴音が響くたび、心臓の鼓動が強まっていった。
――教室の前に立つ。
白い膜が、彼女の視界を覆った。
柔らかく、しかし確かな力で拒むような“壁”。
中の景色は霞のように歪み、机や椅子が、まるで時を止められたように凍りついている。
壁面を覆う封印結界が、淡い光を放ちながら脈打っていた。
「……そんな、うそ……」
その声は掠れ、涙に滲んだ。
かつて群集熱事件で見た“消えていく光”の記憶がよみがえる。
廃校を利用した育成校、泣き叫ぶ子どもたち。
その中心で、彼女は何もできず立ち尽くしていた――。
「どうして……」
手を伸ばした指先に、冷たい風が触れた。
その瞬間――耳の奥に、微かな声が響く。
『……たすけて、ムラサキ……』
風が吹いた。
結界の膜が波紋のように揺れ、花びらのような光片がふわりと舞い上がる。
「……いるの? みんな、そこに……?」
ムラサキは両手を胸に当て、祈るように目を閉じた。
静寂の中で、確かに感じた。
――封印の向こうに、まだ“心”が息づいている。
そして、彼女の祈りに呼応するように、
結界の光が、わずかに脈を打った。
まるで、眠っていた何かが“息を吹き返した”かのように。
ⅩⅢ監視棟。
夜の静寂を切り裂くように、甲高い警報音が鳴り響いた。
モニターの波形が急上昇。
画面いっぱいに、紅いグラフが跳ね上がる。
宮中潤が振り向きざまに叫んだ。
「封印値、急上昇! 誰かが“内側”に干渉している!」
その声に、管制室がざわめく。
各端末に警告ウィンドウが次々と展開され、モニターの光が不気味に揺れた。
四月レンは一歩前へ出て、静かに端末を操作する。
指先が迷いなく走り、次の瞬間、彼女の唇がわずかに動いた。
「名前は――北乃ムラサキ」
彼女の瞳が、淡く光る画面を映す。
「封印外の唯一のB組生存者」
四月の声は冷静だった。
だがその瞳の奥には、かすかな興味と警戒が混ざっていた。
宮中は歯を食いしばる。
「くそ……まさか、封印の外側から干渉できるとは!」
その瞬間、モニターの中央に新たな波形が現れた。
青と白の線が重なり合い、まるで鼓動のように脈動している。
――“B組封印エリア:感情波、再起動”。
四月が低く呟いた。
「……始まった、か」
* * *
風が校舎を吹き抜けた。
封印教室の前に立つ北乃ムラサキの髪が、静かに舞い上がる。
頬をなぞる風は冷たく、それでいてどこか優しい。
彼女は両の拳を握りしめ、泣きそうな笑みを浮かべた。
「――みんなを、取り戻す」
その一言が、結界の光に触れた瞬間。
白い膜が呼吸するように脈打ち、光の粒が波のように走る。
風の流れが変わる。
世界が、再び“風”に囁き始めていた。
* * *
静かな足音。
背後から、ひとつの影が近づく。
北乃が振り返ると、そこに立っていたのは――六澄わかしだった。
黒髪を整え、眼鏡の奥で冷たい光が揺れている。
「ⅩⅢの封印局長が動いた。
中には“群集熱の核”もいる」
淡々とした声。
まるでそれが世間話でもあるかのように。
北乃は目を見開いた。
「あなたは……?」
「自分のことなんてどうでもいい」
六澄は首を傾け、かすかに口角を上げた。
「それより、助けたくはないか?」
その問いに、北乃は言葉を失う。
胸の奥で何かが疼く。
「……どうすれば……」
彼女の声は震えていた。
六澄はその問いに、静かに微笑んだ。
「“群集熱”が配っていた道具――あの武器を集めればいい」
「武器……」
「そうすれば、封印は“内側”から開く。
それを望むなら、止めはしない」
それだけ言うと、六澄は踵を返し、歩き出した。
闇の中へ溶けていく背中。
振り返ることは一度もなかった。
北乃はその場に立ち尽くし、唇を噛む。
「……武器……」
脳裏に、あの日の記憶が蘇る。
“群集熱”が配っていた、魂を吸い上げる武具。
それは破壊の象徴であり、同時に“願い”の結晶でもあった。
彼女の瞳に、決意の光が宿る。
「……それがあれば……きっと、みんなを――」
封印の風が、再び彼女の頬を撫でた。
まるで「行け」と囁くように。
北乃ムラサキは一歩を踏み出す。
かつての友たちを取り戻すために。
――その足音が、封印の鼓動と重なっていった。
主なキャラ
・風悪…主人公。頭の左側に妖精の翅が生えている少年。
・一ノ瀬さわら(いちのせ)…鼻と首に傷のあるおさげの少女。
・二階堂秋枷…黒いチョーカーをつけている少年。
・三井野燦…左側にサイドテールのある少女。
・四月レン(しづき)…左腕にアームカバーをしている少女。
・五戸このしろ(いつと)…大きなリボンが特徴の廃課金少女。
・六澄わかし(むすみ)…黒髪に黒い瞳、黒い額縁の眼鏡に黒い爪の少年。
・七乃朝夏…軽くウェーブのかかった黒髪の少女。
・黒八空…長い黒髪の少女。お人よし。
・鳩絵かじか(はとえ)…赤いベレー帽が特徴的な少女。
・辻颭…物静かにしている少年。
・夜騎士凶…左眼を前髪で隠している顔の整った少年。
・妃愛主…亜麻色の髪を束ねる少女。
・王位富…普段は目を閉じ生活している少年。
・宮中潤…黒いマスクで顔下半分を覆う男性。担任。




