異世界少女、大家さんに会う。
『第1章 いつもと違う休日』
「ほれではえりはま? ひょうのよへいh」
「とりあえず、食べ物を口に入れたまましゃべるのはやめような。」
目の前で2枚、トーストを完食したイーリスに、3枚目のトーストを手渡しながら呆れた顔でツッコミを入れる還。
パンの粉やら卵の黄身で汚れているイーリスの顔を、見兼ねた還がウェットティッシュで拭うと、彼女も特に抵抗することなく自分の顔を差し出している。それだけ還に心を許している、ということらしい。
還の手が顔から離れ、自分の顔がきれいになったことを確認すると、イーリスはしばらく食事の手を止め、嬉しそうに目を細めた。
……子を持つ親のような気持ちを、イーリスとの食事で体験することになるとは。
イーリスのお世話を終え、自分の皿にある目玉焼きの白身の部分から箸をつけると、彼女の口の中が空になる頃合いを見て、先程発した謎言語の内容を確認する還。
「で? 結局何を言おうとしてたんだ?」
「わたくし達の、今日の予定を聞きたかったんですの。」
還の問いかけにニコニコと笑いながら答えると、再びトーストにかじりつくイーリス。
今彼女の問いかけに答えても、食事に夢中な様子を見る限り、内容が頭に入るとは到底思えなかった。
美味しそうに食べるのは結構だが、そのひょろっちい身体のどこにトースト3枚と目玉焼きが収まるのか。
しかも最初のトースト2枚は、ホットサンドのように真ん中に目玉焼きを挟んで食べていた。一生懸命口を動かして食事をする様子は小動物のようで微笑ましいが、この調子でお腹いっぱいになってしまうと、このあとソファでまったり、気づけば夜、なんてことになりかねない。
還は目の前で食事に夢中になっている小動物に気づかれないように、そっと食パンの袋を冷蔵庫にしまう。
還が皿の目玉焼きを食べ終わり、食器を食洗機に放り込むと同時に、イーリスもようやく3枚目のトーストを完食したようで、口をむぐむぐと動かし最後のひとくちを飲み込んだ。
「…………。」
「……? どうした?」
「ごちそうさまですの。とっても美味しかったですわ。」
……絶対4枚目のトーストを待ってただろこの子。 ひょろいのに 俺より食べる とんでもねぇ。
イーリスの分の食器も食洗機へ。スイッチをオンにすると、機械音とともに水の流れる音が聞こえた。あとは放っておけば大丈夫だろう。
テーブルの方を見ると、イーリスは碧の目を細めてコーヒー牛乳を飲んでいる最中だった。
こっちの世界に転移してきて12時間程度なのに、妙に馴染んでいる異世界人。
そのまま一気に飲み干し、ぷはっ、と息継ぎ。空っぽになったカップを満足げに“ついっ”と還に突き出す。
「還様、もう一杯いただいても……?」
……誰だ、“満足げに”って言ったやつ。
終わりのない食欲に少々胸焼けを感じつつ、還は2杯目のコーヒー牛乳をイーリスのカップに注ぐと、彼女はその碧眼を輝かせながらカップに口をつけ、今度こそ満足そうにその味を堪能している。
「イル? 今日の予定の前に……。」
「食後のデザート、でしょ? 楽しみですの。」
「なんで朝食の後にデザートを食うんだよ……。」
イーリスの面倒を見るにあたって、本気で食費の心配をする必要がありそうだ。外見は銀髪碧眼も相まって、誰が見ても美少女。身体も華奢。そんな女の子が、男性の還よりも健啖な食欲おばけだと誰が想像できただろうか。
デザートが出ないと聞いて、明らかにしょんぼりした様子で残りのコーヒー牛乳をちびちび味わうイーリス。……なんだか罪悪感が半端ない。特売の時にでもコーヒー牛乳を何本か買っておこう。デザートより全然安いし。
還は、気を取り直して自分のマグカップのコーヒー牛乳を一気に飲み干すと、イーリスに今後の提案を持ちかけた。
「なあ、イル。家の中を一通り見ておかないか? 大したものは無いけど、使い方を知らないと困るものもあるからな。」
還の提案に、カップから口を離すと柔らかい微笑みを彼に向けるイーリス。
「ふふっ。新居の見学……。還様のお嫁さんになったみたい、ですの。」
「食欲おばけがお嫁さんか……。食費で家計が火の車になりそうだ……。」
「誰が食欲おばけ……! あ、あの? ……否定、しないんですの?」
「……? 実際俺より食ってt」
「いえ、そこじゃなくて。その……か、還様のお嫁さんってところ……。」
「………あれ? え?」
イーリスはいたずらっぽく笑いながら、上機嫌でリビングへ移動している。
こうして音浦家のお部屋ツアーが始まったのだった。
【バスルーム】
「ここが、風呂だな。お湯はそこの蛇口とシャワーから出せる。やけどしないように注意するんだぞ?」
「湯船の形は草海にあるものと変わらないんですのね。意外ですの。」
「草海の湯船ってどんな感じなんだ?」
「基本的に全て木製ですわ。木の香りが身も心も癒やしてくれますわよ?」
「いいな、それ。はぁ……この風呂もそうだったらなぁ……。」
「えっと、還様? 癒やしでしたら、わたくしが毎日でもお背中を……。」
「よ、よし。風呂はこれくらいでいいだろ。次行こう、次。」
【トイレ】
「……どう説明すればいいか……。“お花を摘む”ってイルに言ってわかるものなのか?」
「『語律共有』のおかげで、理解できますの。」
「あー…その、これの使い方まではさすがに……。」
「わ、わかりませんの。でも何となく、たぶん大丈夫ですわ。それに……。」
「それに?」
「還様に“教えてほしい”ってお願いしたら、説明してくれますの?」
「勘弁してくれ……。」
「でしょ?」
【洗濯機】
「還様? この扉のついた、四角の大きな箱はなんですの?」
「洗濯機、だな。衣類を洗って乾かしてくれる。使い方も簡単。」
「お洗濯の機械……。でも、なんだかたくさん記号が並んでますわ……。」
「特に触ることはないだろ。この扉を開けて、汚れた衣類を放り込んで、スタートってボタンを押せばいい。」
「すたーと? 『語律共有』は話すことはできても、文字の読み書きは無理ですの……。」
「えっと、この一番大きいボタンだ。ちなみに途中で止める時もこのボタン。」
「あの……。わたくしがお洗濯する時は、お風呂で水魔法を使っても……?」
「衣類を入れてボタンを押すだけなのに……?」
一通り部屋を周り終え、リビングのソファに腰掛ける2人。
ふと時計を見ると、午前10時がそろそろ終わろうとしている。いつもと違う休日を過ごしているせいか、時間の流れがものすごく早く感じる還だった。とにかく次は、周辺住民への配慮……とはいっても、このご時世、部屋の住人が増えるくらいで、ご丁寧に挨拶して回るほど殊勝な人間はいない。各々会った時にでも紹介する程度でいいだろう。
──ただ一人の例外を除いては。
たしかこのアパートの……。
「……還様? あの、還様? 折り言ってお願いがあるんですの……。」
「……あ、あぁ、悪い。どうした? 何か気になることがあれば、遠慮なく言ってくれ。」
集中していると周りの声が聞こえなくなるのは、還の悪いところだ。気がついて視線をイーリスへ向けると、彼女はもじもじと恥ずかしそうに話を始める。
「わたくし、その……お風呂に入りたいのですけど……。」
消え入りそうな声でそう言うと、段々と困り顔になるイーリス。この世界に転移して12時間以上経つ。転移する前の異世界で、その日をどう過ごしていたか知る由もないが、怪異との戦闘などあれば、なかなかにハードスケジュールだったであろうことは、今朝に見た“カエリ”の記憶から容易に想像できた。
異世界でもちゃんとしたお風呂を見つけたら、入りたくなるのは十分理解できる。人間だもの。
そして、扉で区切られているとはいえ、異性が近くにいるのは確かに抵抗があるだろう。還としては、その間にやるべきことをやればいい。
「わかった。それじゃ、俺はちょっと外出してくる。今身に着けているものは、洗濯機を使えば風呂から上がってしばらくすれば、また着られるからな?」
「あの、そうじゃなくて!」
着替えようと寝室のクローゼットへ向かっていた還は、イーリスの予想外に大きな声にその動きを止めると反射的に振り返る。
「わたくし、いま身に着けているもの以外、この世界に持ち込んでいませんの……。」
──と、言うことは。
何かの原因で服が汚れるたびに洗濯機で洗う。
待ってる間はあられもない下着姿。
ひょっとすると服を洗濯するなら下着も……とかいう事になっちゃったり?!
バスタオル1枚で部屋をうろつくイーリス……。
動画サイトのサムネにありそうな語群でできた、他人には絶対見せられないえっちい感じのワークフロー。おまわりさんこっちです。
「えーっと、イル?」
「はい、還様。」
「買い物……行くか?」
「お買い物ですの? 草海では、守り人さんが服を仕立ててましたの。」
「この世界には、いろんな服があるぞ。可愛かったり、かっこよかったり。それらは、対価を払えば交換できる。」
「え…と、ごめんなさい、還様。『語律共有』で言葉の意味は理解できても、白の草海にそういう場所はなかったので……。」
「百聞は一見にしかず、ってな。イルの服と他に“いろいろ”揃えに行こう。」
……下着を、とは言えなかった。
さすがに自分でも、年頃の女の子に“よし、下着買いに行くぞ!”と宣言するおっさんはどうかと思う。
イーリスは買い物について困惑の表情を見せているが、外出すると聞いて寝室に置いてあった自分のブーツを持参すると、器用に履いて準備を整えている。部屋着だった還は、イーリスと入れ替わりで寝室に入るとジーンズとTシャツに着替え玄関へ。40秒で支度した。
「イル、外では一つだけ注意してくれ。」
「はい、何をでしょう……?」
「外で、絶対にイルの魔法は使っちゃダメだ。」
「……わかりましたの。この世界のルール、ですのね?」
「やりにくいだろうけど、そういう事だ。」
還は外出に必要なものをポケットに押し込むと、玄関の扉を開けアパートの外廊下に出る。
施錠して振り返ると、イーリスはその外廊下から身を乗り出して、初めて見る異世界の景色を珍しそうに見渡していた。風を受けて流れる銀髪や、陽の光を受けて輝く碧の瞳。加えて胸元の碧いリボン以外、白で統一されたケープワンピース。……目立つよなぁ絶対。
「そろそろ行こうか?」
「あっ……。はい、還様。わたくし、なんだか……すごく緊張してきましたの。」
「普通にしてれば、イルは“可愛い外国人”だ。観光に来たつもりで歩けばいいだろ。」
「で、ですわよね? “可愛いは正義”って言いますし。」
「……ん??」
「……えっ??」
歩き出した大きな足音についていくように、歩幅の狭い小さな足音が続く。
やがて2人分の足音は、同じ歩調でアパートの下の階へと消えていった。
『第2章 芹野 芹 24歳』
休日でゆっくりゴロゴロしていたせいもあって、芹が日課の掃除機がけを終えた頃には、午前11時を少し過ぎてしまっていた。いつもならそろそろ昼食を作る時間でエプロンまでかけているが、コンビニ弁当の手軽さやスイーツの誘惑と葛藤する芹だった。
「たまにはいいよね? 私、毎日超頑張ってるし。」
「いやいや。でも作り置きしておけば、節約だよね。超節約。」
「でもご褒美のスイーツがないと、張り合いがないよぅ……。」
言っておくが、これらは全て芹の独り言だ。
普段はアパートの管理人としての業務と、家事全般をそつなくこなす“デキる女性”ではあるのだが、ひとたび業務や家事から離れて自由な時間をエンジョイしだすと、大体こうなってしまう。
確かにちょっと危ない気もするが想像、というか妄想が口に出てしまいやすい体質? だったりするだけ。……いや十分危ないのか? これ。
「よしっ、今日はコンビニのお弁当、あ〜んど、スイーツの日〜! やったね~!」
結局、どの芹の意見が通ったのか知る由もないが、嬉々としてエプロンを外すと普段のTシャツ、デニムのショートパンツ姿に早変わり。鏡の前で外出前のチェックを始めている。
背中まである栗色のロングヘアは一つに編まれており、先を紺色の小さいリボンで留めてある。前髪は目にかからない程度で切り揃えられ、視界を邪魔することはない。目はぱっちり二重で茶色の瞳。年齢の割には童顔で、身長も同年齢の女性に比べてかなり低め。自主的に受診している健康診断で測った時は143cmとなっていたが、芹自身はあまり気にしてはいないようだ。……スリーサイズと体重は内緒。
こう見えて、芹は24歳のれっきとした大人の女性である。
ただ、この性格や顔、身長のせいで、未だに高校生と間違われることもしばしば。
平日の昼間に買い物に出かけて補導されていたところを、たまたま通りかかった還に助けられたこともあったほどだ。 おかしいぞ 大人要素が 出てこない。
「よ〜し。準備おっけ~。いざ、コンビニへ! れっつご~!」
気合充分。体制整って出走準備完了。……早く走れるかは知らんけど。
──芹が玄関を開けて外へ出ようとしたその時。
鉄製の扉をノックする音と聞き覚えのある声が、芹の出走を止めてしまった。
かけっこの“よーい、どん”の“よーい”のポーズで停止する芹。
「芹野さん、いらっしゃいますか? 音浦です。」
芹野。もちろん芹の名字だったりする。芹野 芹。それがフルネーム。
親が“上から読んでも、下から読んでも……”などと言って命名したらしい。……殴られればいいのにそんな親。
キラキラネームよりかは遥かにマシだと思うが、そんな“海苔とお茶を製造している老舗の食品メーカー”のノリで名前をつけられても。海苔だけに。
「あれ? いないのか。参ったな……。」
声の主は芹が管理するアパートの3階に住んでいる、“音浦 還”のようだった。彼は一向に返事がない様子に、留守だと思ったらしい。一方の芹はといえば、居留守で乗り切る気まんまんで、そのままマネキンのように停止していた。
折角の休日に管理人業務を依頼しに来たに違いない還を、このまま居留守を使って乗り切る作戦を決行中。……こいつも一回殴られた方がいいんじゃないだろうか。
「還様。こちらは、どちら様のお宅になりますの?」
「このアパートの管理人さんの部屋なんだけど、留守みたいだな。」
「あの、大丈夫ですの? わたくしがお会いしても。」
「大丈夫……というか、賃貸契約の話になるから、会っておかないと後々面倒なんだよ。」
だからって、お休みの日に来なくてもいいのに~。
心の中で静かに反論し、“よーい”ポーズのまま、ぷぅっと頬を膨らます芹。
「そうなんですの? お買い物の後にでも、お会いすればいいのではなくて?」
「いや、その“買い物に同行”してもらいたかったんだけどな……。」
“買い物に同行”。芹の耳に届いた還の声が、マネキンと化していた芹を人間に戻していく。
お昼近い時間 ←イマココ
音浦さんのお買い物に同行するよっ
よかったら昼飯奢りますよ、からの~
コンビニ弁当よりもゴージャスなお昼ごはん! やったぁ~!
「は~い! ごめんなさい。手が離せなくって~!」
お返事は 見えてなくても にっこりと。
ドアの前からわざわざ室内に移動して、返事をする芹だった。
わざとらしくパタパタと足音を立てて再び玄関に到着すると、鍵を開け鉄製の扉を開ける。
小さく開けた扉の隙間から、還の姿が見えた。後ろにもう一人いるようだが、ここからでは確認できなかった。もう一人の声の主、女性であることは間違いなさそうだ。
「お休みの日に、すみません。部屋の契約内容に変更があるので、その更新に来たんです。」
「音浦さん、平日はお忙しいですもんね~。で、どういった内容なんでしょう。」
「居住人員の変更です。お願いできますか?」
さっきの会話を聞いておおよそ解っていたが、あまり手間がかからない変更だと確信した芹は、この場でやってしまうことにした。
「わかりました。じゃあ、ご本人さんの署名が必要なので、契約書に追記をお願いしますね。」
「えっと、ご本人さん、というのは。」
「もちろん、新たに居住される方の、です。」
ほえほえモードからお仕事モードに変わった芹は、テキパキと業務をこなしていく。奥の引き出しから入居時に作成した還の契約書を引っ張り出すと、居住者のページを開き還の名前が記入されている下の空欄を指差す。
「あ、玄関じゃなんですから、奥にどうぞ。」
「すみません、失礼します。」
女性の声がしていたことを知っていた芹でも、その少女の姿を見て自分の目を疑った。
同性の芹でも羨むほどのきれいなストレートの銀髪。不安げに芹を見る碧の瞳に、あどけなくも整った顔立ち。白のケープワンピースがよく似合う細身の華奢な身体。どこか現実離れした姿に、我を忘れる芹。
「音浦さん、私……。」
「言いたいことはわかります。でも話を聞いt」
「冷静さを欠こうとしています。」
「ち、違うんですよ。説明しますからちゃんと聞いてk」
「かっ……。」
「か?」
「かわいい~~~っ!! なんですか音浦さんこの子ファンタジーから出てきたようなまるでそう妖精のy」
「ちょちょちょっ! 芹野さん、落ち着いて! とにかく話を聞いて下さい。」
還が怯える少女の目前に立ち、芹との接触を一時的に断つと、少女は還の背中に隠れるように身を潜めてしまった。無理もない。初対面でこれだけ暴走されれば、異世界人じゃなくても大抵の人間は怯える。やっぱ一発殴ったほうがいいんじゃないだろうか。目覚まし的な意味で。
スゥ~。ハァ~。スゥ~。ハァ~。スゥッ…ゲホッゴホッ!
芹の深呼吸の音が、部屋に異様な雰囲気を醸し出している。ひょっとすると深呼吸するふりをして、少女の匂いでも嗅いでいるんじゃないかと疑いたくなるレベルで。途中で咳き込んでるし。
「し、失礼しました。じゃあ音浦さん、そこの女の子に署名をお願いしてもいいですか?」
落ち着きを取り戻し、お仕事モードに変わった芹。署名を要求して契約書の居住者ページを開き、サインペンを銀髪の少女に手渡す。
「えっと、日本語で話してもいいんでしょうか。私の言葉、わかりますか?」
これも大丈夫なことは知っていたが、相手の少女に配慮した芹。見た目が外国人の少女に確認もせず、いきなり日本語で話しかけるのはどうかと思ったらしい。
「はい。大丈夫ですの。でも、わたくし、その……。」
流暢な日本語を話す少女は不安そうに還の顔を見ると、還はその視線に気づき、無言で頷く。
芹には、還がどこか焦っているように見える……。気のせいだろうか。
「芹野さん、代筆は可能ですか? 彼女、日本語は話せても、文字の読み書きは全くできないみたいで。」
「それなら、母国語のサインでもいいですよ? 形式だけなので、日本語で書く必要はありませんから。」
還の表情に余裕がなくなっているのは、どうやら気のせいではなさそうだ。
不思議そうな顔をして手続きを進める芹に、少女が困り顔で話す。
「あの、わたくしの国の文字は、このせか……国の方には読めないってよく言われますの。」
「あぁ~。確かに。私も外国の方の筆記体って、読める自信、ないですね~。」
その言葉を聞いた少女は少し安心したような表情を見せ、サインペンを握り直しグリグリと円を描くようにサインを記入。名前の下にさっと線を書き加える。……なるほど、わからん。
「イル、これは……?」
「やっぱり、還様にもわかりませんわよね?」
少女は還にペロッと舌を出すと、片目を閉じてみせた。
はい可愛い~。もうこのサインが嘘でも許しちゃう。この間テレビでやってた某国の大統領、ドナルドさんの署名式でも署名はこんな感じで読めなかったし、外国人の署名なんてこんなもんでしょ。っていうか居住者名簿にこんな可愛い女の子の名前が記入されたことなんてない。家宝にしようそうしよう。
こんなのが管理人なんだから、この国のセキュリティは結構ザルなんじゃないだろうか、と心配になる思考内容だった。
うっとりとサインを見つめる芹。重要なことを忘れていたことに気付き、慌てた様子で少女に尋ねた。
「えっと、ごめんなさい。私も読めませんでした。お名前を伺っても?」
名前を聞かれた少女は、優雅にスカート部分の裾を持ち上げ、足を少し曲げて挨拶をする。
「はい。わたくしは、イーリス。……イーリス・イル・イール、と申します。以後お見知りおきを。」
「音浦さん、彼女……イーリスちゃんは、どちらから日本へ?」
「えぇっ?! そ、それはですね。」
「あぁ、すみません。プライベートなことですよね? 話せないなら大丈夫……。」
芹としては、本人たちが話したくない内容を無理やり聞く気は毛頭なかったのだが、意外なことにイーリスと名乗った少女が自ら口を開いた。
「えっと、雪で覆われている国、ですの。ね? 還様。」
「雪で覆われている国……そ、そう。スウェーデンっぽい国です。」
「……ぽい?」
「プライベートなことなので……ごめんなさい、ですの。」
ある程度聞けるところまで聞いて納得した芹。
今しがたサインされた居住者名簿のページをコピーにかけると、出力された複製を還に手渡し、契約書を再び奥の引き出しに収める。むしろ、ここからが彼女にとっては本番。なにせコンビニ弁当よりもゴージャスなお昼ごはんが待っているのだ。それとなくそういう方向に話を進めなくては。
ここからは芹もプライベート。お昼ごはんのために、作戦開始。
「で~。音浦さんとイーリスちゃんは、これからお部屋に戻るんですか~?」
自然に、お仕事モードからほえほえモードにチェンジして話しかけると、還が彼女の質問に答えた。その質問の先に下心があるとも知らずに。
「いや、これから買い物に出かけようと思ってたんですよ。それで……あの、女性物の“いろいろ”って俺じゃわからないんで、芹野さんが一緒に来てくれたら助かr」
「行きます行きます~。善は急げ~! さあ、行きましょう~!」
来客2人の背中を押して、扉から飛び出すように玄関を出ると素早く施錠。先頭に立って還の車のある駐車場までさっさと移動を開始する芹。
あっけにとられながらも、向日葵が咲いたような笑顔を還に向けるイーリス。
「面白い方ですわね。芹野様って。」
「頼れる管理人なんだけどさ……。オンとオフが極端だから、びっくりしただろう?」
「いいえ? どちらかといえば、サインのこととか国のことを聞かれた時の、還様の応対にびっくりでしたの。」
その時の還の様子を思い出しているのか、口元を片手で隠し、おかしそうに微笑むイーリス。
「イルの機転が助け舟だったな。それっぽい筆記体は、よく書けてたぞ?」
「『語律共有』のおかげですわね。……意味のない線ですから、芹野様に悪い気がしますけど。」
スキップしながら先を行く芹の背中を見つめながら、イーリスは少し申し訳無さそうにそう言った。
「バレたら怒られるんだろうなぁ。」
「そうですわね。でもその時は……。」
「……一緒に怒られるか?」
「喜んで。」
ニッと笑う還に、穏やかに頷くイーリス。
2人並んで駐車場へ向かう道を歩いていると、芹がこちらを向いて大きく“おいでおいで”をしているのが見える。
「ほ~ら~! 二人共、はやくはやくぅ~! お昼ごはんが逃げちゃうよ~!!」
頭の中は、すっかりお昼ごはん一色。
還とイーリスは顔を見合わせ笑い合うと、そんな芹のもとへと急ぐのだった。




