異世界少女はそばにいたい。
『第1章 白の草海』
白と黒だけで紡がれたこの世界を駆け抜ける風は、すべての存在を優しく揺らし、それぞれの音を奏でる。
空を覆い尽くすほど枝を伸ばす大樹、浄化の木。
草原の草花、そして──。
月光を編んだようなイーリスの銀髪もまた、風に舞うたび、静かに煌めきを描いていた。
彼女はまるで小動物が飼い主に甘えるように、その華奢な両手を思い切り伸ばし、カエリの身体を抱きしめている。
この世界で唯一鮮やかな色を持つ、その透き通るような碧の瞳で彼の姿を捉え続け、無邪気な微笑みを浮かべながらぴたりと寄り添っていた。
「今日のカエリ様は、とってもお寝坊さんなんですのね? 他の守り人さん達はすでに出発していますの。」
「もうこんなに陽が高く……。すまない。昨日の怪異討伐が、なかなか上手くいかなくてね。」
「カエリ様が苦労なさるほどの脅威度だったんですの……?」
“上手くいかなかった”と言うカエリの言葉が、イーリスの微笑みに僅かな影を落とす。
その微妙な表情の変化を見逃さなかったカエリは、わざとおどけて否定すると、事の顛末を続けた。
「いやいや。そうじゃないんだよな、これが。」
「昨日カエリ様の区域に発現した怪異は、確か……。あっ…!」
「そう、浄化の木の幹付近。しかもかなりの至近距離。」
「カエリ様の攻撃に巻き込まれて木が傷つくことがあっては、本末転倒ですわね。」
「奴さんの注意を引きつつ、俺の魔法の影響が及ばない距離まで仲良くお空の散歩ってわけさ。」
「お手伝いできれば良かったのですけれど……ごめんなさい。」
先程の無邪気な微笑みはどこへやら。
カエリの役に立てなかったと思ったのか、イーリスはぴたりと寄り添っていた身体を離すと、申し訳無さそうに瞳を伏せてしまう。
しょんぼりしているイーリスの表情は、カエリに罪悪感を感じさせるのに十分なほどだった。
カエリとしては、責めているわけではなかったのだが。
「気にするな。お互い正反対の場所で怪異の相手をしてたんだ。結局、俺が雑魚に振り回されてたって話さ。イーリスも一人だったんだろ? よく頑張ったな。」
カエリが労いの言葉をかけてイーリスの頭を優しく撫でると、伏せていた瞳はその手の主を再び視界に映す。
その顔に負の感情が浮かんでいないことを確認した彼女は、安堵したように再び穏やかな表情を浮かべた。
「ちなみにカエリ様? その“お散歩”はどれくらいの時間だったんですの?」
「半日。」
「……………。」
色々聞きたいことが喉を押し通ろうとするのを、ぐっと堪えるイーリス。
陽の光はそろそろ真上から降り注ごうとしている。
いつものこの時間は、二人とも浄化の木の周りを警戒して文字通り飛び回っている頃だ。
いくら魔法で空を飛べても、そろそろ巡回を開始しなければ、何かあってからでは手遅れになりかねない。
「すまんな。…どうも近頃魔力を使いすぎると、翌朝が辛いんだよなぁ。」
イーリスの僅かな焦燥を感じ取ったのか、カエリは申し訳無さそうに頭を掻いた。
次の瞬間、展開される中級魔法『飛翔』。
二人の身体が重力から解放され、宙に浮く。
その高さはすでに、低く流れる雲が目下にあるほどだ。
「カエリ様? 先程“魔力を使いすぎると翌朝が辛い”と仰ったばかりですのに。」
「半日飛び続けるのに比べれば、俺とイーリスにつける飛翔効果なんて、朝飯前……いや、もう昼だけどさ。」
その言葉を聞いて、碧眼を細めて笑うイーリス。
カエリもその表情を見てニヤリとおどけて笑い、担当する区域の巡回に飛び立っていく。
イーリスは小さくなる彼の背中に自分の声を届けようと、両手を口元に添える。
「もしご迷惑でなければ! 明日からは私が! お目覚めのお手伝いを致しますわ~!!」
その声に反応し、イーリスの方へ振り返るとその場に留まるカエリ。
かなり距離が離れてしまったが、よく見るとカエリは右手の親指を立てて高く掲げている。
「~~~~!」
カエリからの承諾を確認し、声にならない喜びで満たされていくイーリス。
遠く離れていくカエリに大きく手を振ると、くるくると宙を舞いながら自らも担当する区域へ飛び立つ。
その姿は、銀髪の妖精が碧の眼を輝かせ、軽やかに喜びの舞を踊っているかのようだった。
『第2章 夜明け』
突如、イーリスの身体は重力に捕われ、短めの落下感の後、その身体を鈍い衝撃が襲う。
「ぐべぅっ!」
おおよそヒロインが出しちゃいけない悲鳴というか、うめき声のような何かが、落下の衝撃で肺の空気とともに吐き出された。
あたりは薄暗い。一体どこからどうやってどこに落ちたのか、全く見当もつかない。
あの高度から真っ逆さまに落ちたのだろうか? それにしては受けた衝撃が弱すぎる。
いや、正確に言えば落ちたことがないのでわからないが、きっと口から品のない擬音が漏れる程度ではすまない。
背中はすごく痛いけど、幸い呼吸をするのに問題はなさそうだ。
……“落とされた”のであれば、早急に対応しなくては。
これまでの戦闘経験から、条件反射的に紡がれた『対物理防御魔法』が、イーリスの身体を光の被膜で覆っていく。
落ちた時の背中の痛みは、あとに残るものではないのが幸いだった。
瞬時に立ち上がり右の手のひらを前に突き出し予備詠唱を終え、右腕にいくつものブレスレット状の魔法陣を展開。いつでも次の魔法を放てるように構えた。
……のだが。
「あ……ら?」
そこはイーリスが生活していた白と黒の世界ではなく、見慣れないどこかの部屋。
天井から優しく光を放つ白い円盤のようなもののおかげで、部屋の様子を知ることができた。
隅にベッドがおいてあり、その近くに白いカーテンのついた窓や机と椅子。
そして彼女が履いていたブーツが、ベッドの足元の床にきれいに並べておいてある。
「さっきのは……夢? やっ……やだ、わたくしったら……。」
ここ数時間での出来事を思い出したイーリスは、慌てて対物理防御魔法と腕の魔法陣を解除。
同時に、ちょっとかっこつけて構えていた右手を、すっと胸の前に移動させる。
ここは異世界。守るべき浄化の木も、倒すべき怪異も存在しない。
「還様と食事をして……。その後、わたくしは眠ってしまったのですね。」
最後に見た光景とは違う場所にいるということは、還がここまで運んでくれたに違いない。
どうやら先程背中に受けた衝撃は、このベッドから転がり落ちた時の衝撃と考えて良いようだ。
……何回寝返りを打ったんだろう。寝相は良い方だと思っていたのに。
「……還様はどこかしら? 別の部屋でお休みに……?」
窓の方を見ると、空が若干明るみを帯びているのか、きれいなオレンジ色が見える。
彼女が眠りにつき、ベッドから落っこちて目が覚めるまで、それほど時間は経っていないようだ。
本来ならもう少し眠ったほうがいいのだが、誤って魔法を発動させたり、還の事を考えるうちにイーリスの意識は完全に覚醒してしまっていた。
……というより、彼女は少しでも早く還の姿を見つけたかった。
この部屋にある扉はひとつだけ。
扉を開ければきっと彼の姿はそこに、ある。
気が遠くなるほど探して、やっと逢えた──一番大切な人。
「還様……?」
扉を開けるためにノブに掛けた手が、緊張で小刻みに震える。
──カチャリ。
少しの金属音を伴い開いた扉は、イーリスが通過し手を離すと自然にあるべき場所へと戻っていく。
扉を抜けた先、そこは確かに見覚えのある部屋だった。
魔法陣が繋いだ始まりの場所。
還と初めて話をした、ふかふかのソファ。
その奥には、還と食事をしたテーブルと椅子。
数時間前の光景がはっきりとイーリスの頭の中で再生される。
……ただそこに、探し求めた還の姿は見当たらなかった。
「そ……んな……。」
心臓が、その音が聞こえるのではないかと錯覚するほど激しく、イーリスのその華奢な身体を内側から打ち付けている。
還の名前を呼ぼうと口を開いても、言葉すらまともに話せないくらい荒い呼吸が邪魔をする。
頭がクラクラする……立っているのもやっとなくらい。
……いやだ。いやだいやだ。……いやだっっ!
頭をよぎるのは、白の草海から消息を絶ったカエリを必死に探す、悲しみと絶望の日々。
星の数ほどある異世界の中から、運命的な再会を果たしたのに。
涙が、還のいた部屋の輪郭を歪めていく。
次から次へと溢れ出る悲哀の雫を両手で拭い、喉の奥から絞り出す切望。
「もう……わたくし……を、おいて……いかないでっ……。」
ひたひたと、ゆっくり部屋の中央にあるソファへ近づいた時、イーリスは息を呑んだ。
そこには、リュックを枕にして穏やかな寝息をたてている黒縁眼鏡の男性。
テーブルを挟んだ一対のソファの背もたれが見えている方に、彼は横になっていた。彼女のいた寝室のドアからは、その背もたれのせいで横になっている還が見えなかったのだ。
「うう……。還様は、何でこうもわたくしをハラハラさせるんですのっ……?」
自分の早とちりを恥じながら、何も知らずに眠っている還に小声で抗議。
激しく身体の内側から打ち付けていた心臓は、徐々に穏やかな鼓動を刻み、荒い呼吸で邪魔されていた言葉も、今はすんなりと流れ出る。
ぐしぐしと両手で涙を拭うイーリス。座面の方へ回り込むと、還の頭がある傍らの床に腰を下ろした。
よっぽど疲れていたのか眼鏡を掛けたまま眠っている還の顔から、そっとそれを外しテーブルの上に置くと、その存在を確かめるように愛おしげに還の頬に触れるイーリス。
温かい。確かに還はここにいるという事実が、悲哀で覆われた心を優しく癒やしていく。
……これで起きてしまったら、先程の件で文句の1つくらい言ってやろう。
「イ……ル。」
確かに聞こえた、還から呼ばれる声。慌てて触れていた頬からサッと手を離すイーリス。
寝言で呼ばれただけなのに。心が、顔が、ほころんでいく。
還はといえば、いつもの枕と違って寝苦しいのか、リュックを頭の下からずらしてソファの座面に頭を置いた。
「あ……。確かあの部屋に枕が……。」
イーリスはとっさにその場を離れようとしたが、何かを思いついたのか、リュックをそっと床に下ろすと、自分がそこへ腰掛ける。
還の頭を魔法で静かに持ち上げ、ソファと頭の間に自分の体をすべりこませ、その膝にゆっくりと頭を下ろした。
「こうすれば、少しは楽に眠れるかしら……?」
再び穏やかな寝息をたて始める還の頭を、イーリスの細い指先が優しく撫でる。
草海にいた頃の還と交わした、──叶うことのなかった約束。
例え、この世界の還が覚えていなくても。
「……お目覚めのお手伝い。やっとできそうですわ、還様。」
まだ目覚めるには早い。それに……もう少しの時間、こうしていたい。
還の温もりを膝の上に感じながら、穏やかに碧眼を閉じるイーリス。
ようやく、長らく止まったままだった彼女の時間が、緩やかに流れ始めたのだった。
『第3章 新しい日常』
まどろんでいる意識の中の懐かしい感覚が、還を夢から目覚めさせていく。
……時計が時を刻む音。花のような香り。頭に感じる、温かくて柔らかな感触。
そして、還の顔を覗き込んで、優しく微笑んでいるイーリス。
視界がぼやけているのは眼鏡をかけていないせいだ。無意識に外してしまったのだろうか。
「◯△◯□◯△✕△□。……△□✕△△。」
「……イル? わからないんだよ、日本語で……?!」
──ちょっと待て。
イーリスは寝室で寝ているんじゃないのか? 頭の下の妙に柔らかくて温かい、魅惑的な感触はっ……!
自分がどういった状況でいるのか、ようやく理解した還。鏡を見なくても、感覚で顔が赤くなっていくのがわかる。
「膝!! だよな?! 知ってた!!」
「△□✕△△……?」
慌てて上体を起こす還。彼が今まで生きてきた中で、間違いなく最速の腹筋運動だった。
イーリスは起こされた還の上体をかわすように、覗き込んでいた自分の顔を素早く上げると、少し離れてしまった彼との距離を詰めて座り直す。……なにげに運動神経いいんじゃないだろうかこの子。
彼女は困り顔で小首を傾げて何かを考えているようだったが、突然閃いたように明るい表情を見せると、還に対して自分のおでこを指さし、ちょいちょいと手招きで彼を呼んでいる。
「イ、イル? お……おでこ? どうした? 痛むのか?」
寝起きで不意打ち的にくらったイーリスの膝のやわらかさに、未だ動揺を隠しきれない還。
ソファの上にあった足を床におろしそのまま腰掛けると、テーブルにあった眼鏡を掛け、平静を装いながら彼女が指差すおでこに顔を寄せていく。
イーリスの透き通るような碧眼に一瞬視線を奪われた、次の瞬間。
──こつん。
花のような香りと共に、優しく触れるお互いの額。その瞬間、淡い光が目の前に広がり、還は思わず目を閉じてしまった。
一体何が起こったのか、理解が追いついていない還をよそに、イーリスの嬉しそうな声が彼の耳に届く。
「還様。おはようございます、ですの。」
「イル、今のは……?」
「『語律共有』。これがないと、わたくしは還様とお話をする事ができませんの。一種の儀式、ですわね。」
碧眼を細めて微笑むイーリス。
言葉を交わせるのがよほど嬉しいのか、ソファに腰掛けたまま、足を交互に上げたり下げたり。
……しかし、『語律共有』を行わないとお互いに話すことができない、ということは。
還の脳裏によぎる、半端ない威力の“頭突き”。今思えば、どうやらあれも『語律共有』だったのだ。おでこ同士を触れさせるだけの行為に、なぜあれだけの高威力を持たせたのかは全くもって不明だが、本来はこんなに乙女チックな儀式だったとは。……しかし、男同士でもやっぱりこの手順なのだろうか。
おっさん同士の乙女チックな儀式を想像して無言になる還に、イーリスが『語律共有』に捕捉を加える。……無垢な視線が今の還には少々痛い。
「還様、『語律共有』の効果は一時的なものですの。これから毎朝、お付き合いくださいね?」
「言葉が通じないのは確かに不便だけど、毎朝か……。」
「……いや、ですの……?」
「そうじゃなくて……。イルはそれで大丈夫なのか?」
「……? や、やだ……。還様ったら。わたくしにそれを聞くんですの……?」
うん、おかしい。
何やら話の方向性が180度と言わないくらい、突拍子もない方向へ向かっている気がする。
イーリスが還に向ける視線は、何やらしっとりとした妙な熱を帯びており、恥ずかしそうに逸らしたかと思えば見つめてみたりと落ち着かない。どう言葉を返せばいいのか頭を悩ませる還に意を決したように近づくと、口元に手を添えて囁く。
「わたくしは、15分に1回くらいは語律共有しt」
「回数の話じゃなくて、魔力的な負担の話をしてるんだよ!」
イーリスの言葉を途中で遮って、無理やり話の方向を元の位置に捻じ曲げる還。
自分の言葉を途中で遮られたイーリスは、ぷうっと頬を膨らませ不機嫌そうにしていたが、翌々考えて還が自分のことを心配してくれているのだと分かると穏やかな表情を見せる。……やっぱチョロい。
「怪異との戦闘時に比べれば、簡単な魔法1回分の魔力なんて減っていないのと同義ですわ。それに……約束しましたもの。」
「約束……?」
還の頭をかすめる“カエリ”として白の草海にいた頃の自分の記憶。
「もしかして、それって“お目覚めのお手伝い”ってやつか?」
「……え…………?」
「ああいや、違ってたらいいんだ。悪かったな、変なこと聞いて。」
時計を見ると午前9時を過ぎようとしている。いつまでもソファの上で話をしていても仕方がない。今日から2日間の休日の間に、イーリス関連の諸問題を少しでも解決しておかなくてはいけないのだ。昨日の自分のせいで。
そろそろ朝食の準備を始めようと、ソファから立ち上がる還の部屋着の袖を、イーリスは慌てて両手で掴んでいた。
その顔には、不安と期待が入り混じった複雑な表情が浮かび、その目はすがるような視線で還を見つめている。
「還様が、なぜそれを……?」
「……?」
先程の冗談を言っていたイーリスとは違う雰囲気に気圧され、一瞬何を聞かれているのかを見失う還。イーリスはそんな還の様子に構わず更に問いただす。
「約束の話ですっ。朝はわたくしが、還様の“お目覚めのお手伝い”をしますって……。」
還の袖を握っている彼女の両手に、ぎゅっと力が込められる。
彼に向けられている表情は、期待の色が濃くなり、その碧眼は輝きの色で満たされていく。
「“カエリ”が寝坊した朝の事、イルは覚えてるんだろ?」
「わたくしの知る限り、還様が寝坊したのはその日だけですの。」
イーリスの花の咲いたような明るい笑顔を、一筋の光の線が伝い落ちた。
その目から涙が伝っても、笑顔の花は咲いたままだ。
還に向けられている笑顔を見て、ずっと彼の心につかえていた何かが、徐々に明らかになっていく。
還が前世“カエリ”だと知って以来、彼女の過剰過ぎる好意は“カエリ”に向けられている。
“カエリ”ではない自分が、受け取るべきではないものだ。
還と“カエリ”の境界が曖昧になっているのなら、結果的に傷つくのはこの少女だ。
──“音浦 還”は、イーリスが探し求めた魔法使い、“カエリ様”じゃない……。
「俺には、“カエリ”の記憶がないんだ。魔法も使えない。……強くもない。」
「転生していますもの。こればかりは……どうしようもない、ですわ。」
「イルはそれでも俺を……“カエリ”だと思うのか?」
「…………。わたくしが、今の還様に“草海にいた頃のカエリ様”を見ている、とでも?」
「え……?」
彼女は両手で握っていた袖から直接還の手を取ると、愛おしそうに自分の頬を寄せる。
「“同じ”ですの。」
「同じ?」
「はい。星の数より存在する異世界の中に、“あなた”という存在はたった一人だけ。」
「たった……一人。」
「転生は生まれ変わり。カエリ様から“今の還様”へ、存在が継承されたのですわ。」
「継承……。カエリから、“俺”に。」
「探しましたわ、還様。遅くなってしまいましたけど……、やっと約束を果たせますの。」
還の手に伝わるイーリスの頬の感触と温もり。
透き通るような碧眼を細め無垢に笑うその表情は、彼の心の中のつかえを次第に消し去り、温かい何かで満たしていく。彼女の顔に流れていた涙はいつの間にか消え、うっすらとその跡だけが残っていた。
頬に触れている手を離し、碧の目に残る涙の跡を部屋着の袖で拭うと、還はわざとおどけてイーリスに声をかけた。
「……で? 今朝は早速、約束を果たせたってわけなんだろうけど、あれは今後禁止。ダメ、ゼッタイ。」
「膝枕はお嫌い……? あっ、抱き枕になった方が良かったんですの?」
「違うだろ。なんでお目覚めのお手伝いがおやすみのお手伝いになってるんだよ……。」
「…………。ね、還様?」
「今度は何だ? 普通に起こしてくれれば……。」
「また……逢えましたの。」
朝日を受け、明るく輝く碧眼。ソファに座ったまま、穏やかに還を見上げるイーリス。
まっすぐ彼の視線を捉える碧の瞳に、膝枕の時とは違う恥ずかしさを感じて、還は目を逸らしてしまった。
リビングの時計は、午前9時を半分より少し回ったところだ。
朝食の準備を始めよう。きっと忙しい1日になる。
逸らしていた視線をイーリスに向けると、照れ隠しでニヤリとおどける還。
キッチンへ向かう彼の跡を、嬉しそうについていくイーリス。
「還様? 今日の朝食は何でしょう? わたくし、今から楽しみですの。」
「……やっぱ俺が作る前提なのか……。」
銀髪の魔法使いと、現世に転生した元魔法使いの新しい日常がゆっくりと幕を開けた。




