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異世界少女は突然に。

『第1章 出会いは衝撃(物理)とともに』


金曜日の夕方に飛び込んできた、無茶振りクライアントの依頼が完了した頃には、すでに日が暮れ、かなりの時間が経っていた。

空には満月が静かに輝き、地上を優しい光で照らす。

しんと静まり返った路地に響く1人分の足音。


「何で週末の夕方に、超絶特急案件を持ってくるんだよ…。ったく…。」


少し遠めの駐車場に車を止め、自宅へ向かう暗い路地を誰にと言うわけで無く愚痴を言いながら、何とも疲れ切った様子で肩を落とし歩く、黒縁の眼鏡が印象的な中年の男性。

体型はスラリとしており、スーツを着てビジネスリュックを背負っている。

彼の自宅兼事務所に飛び込んできた“そいつ”が行く先々で仕事を増やし、彼がその対応に追われるという、嬉しいんだか悲しいんだかよくわからない循環。ようやく解放され、自宅であろう薄暗いアパートの3階に帰ってきたのは午後10時を少し過ぎた頃だった。

とぼとぼと玄関前に到着すると、アルミ製の板に「音浦(おとうら)」と書かれた表札がかかっているドアをいつものように開錠する。


この部屋の主、音浦 (かえり)は、玄関の扉を開いた。


「ただいま…。」


両親を早くに亡くし、一人暮らしで配偶者もなし。

そういうわけで、彼が帰宅を告げても迎えてくれる家族はいない。

いつもと同じ薄暗い玄関に革靴を脱ぎ捨て奥へと進む。点けてすぐ消さなければならないのが億劫で、照明をつけないまま突き当りのリビングへ向かう。

しかしその日は玄関に入った瞬間から、微妙な違和感を感じていた。

ほのかに漂う香りが還の鼻腔をくすぐる。


「……? この匂い…。花?」


もともと匂いのついた消臭剤が苦手で、その類は必ず無臭のものを置いている。室内に花のような香りがほのかに漂うなんて事はありえないし、独り身なので誰かがそんな香りのする何かを置いた、なんて事も絶対にありえない。……断言したら悲しくなってきた。


どうにも拭えない違和感を胸に抱きながらも、還はリュックをソファに置こうとリビングへ足を踏み入れた。

その瞬間、目前に展開された光景に、心臓が早鐘のように警告の鼓動を刻む。


カーテンの隙間から差し込む月明かりが、リビングにある様々なものを青白く照らしている。

……ただし、今日の月明かりは、いつもならありえない別のものも照らし出していた。


──人影。自分以外の“誰か”。


「……っ!」


リビングの照明をつけなかった事を後悔したが、もう遅い。

予想外の展開に息を呑んで身構え、そのまま硬直してしまう還。

リュックは下ろそうとしていた手から滑り落ち、ドスッという重い音を立てて足元に転がる。


そこに立っているのは16、7歳ほどに見える少女。

胸元の碧のリボンが映える白のレトロワンピースに、同じく白のケープを纏い、腰まで伸びた銀色の髪は月明かりを受けて淡く穏やかな輝きを放つ。

その体は細く華奢で、髪の輝きも相まってどこか非現実的な雰囲気をまとっている。

少女の目は確かに還の姿を捉え、不安そうな表情で胸の前で手を握り、様子をうかがっているようだ。

その足元には、薄く輝く幾何学模様――まるで魔法陣のような不思議な図形が浮かんでいた。

呼吸をするかのように淡い光が揺らめき、そこからはほんのりと温かい風のようなものが吹き出し、対峙する二人の空間をかすかに揺らしていたが、光は瞬く間に消えてなくなった。


「……? ◯◯△△◯△…?」


「は…? え? 空き巣!? ちょっ…待っ…!!」


今まで聞いた事のないような言語を発しながら歩み寄る少女。

混乱と驚愕で言葉が出ず、硬直が解けない還に向かって静かにその距離を詰めてくる。

月明かりが少女の顔を照らした時、彼の目を一瞬奪ったもの。


あどけなさが残る整った顔立ちと──透き通るような碧眼。


しかし、今の状況は還にとって非常にマズい。

少女を下手に刺激して叫び声でも出されようものなら、ご近所さん達に「未成年の女の子をを自宅に連れ込んで“あんな事”や“こんな事”をしようとした」などとあらぬ疑いをかけられかねない。

そうなってしまうと、“帰って玄関の鍵を開けたら少女がリビングにいた”という事実も“変態オヤジの言い訳”で一蹴され、色んな意味で還の人生は終わり。管理人からは間違いなく、このアパートを叩き出されるだろう。折角フリーランスになって仕事も波に乗り出したのに、全てが気泡、霧散、無に帰すのだ。

何を盗られたかは不明だが、そんな物より今は何とかして外に出るのが先決のようだ。

少女と向き合ったまま、ジリジリと慎重に後退り。抜き足差し足忍び足…。自分の家から泥棒ステップで退散している還。

はたから見ると紛れもなく彼の方が不審者っぽい。今日は厄日か天中殺か。

何とも言えない不満が頭をかすめた瞬間、彼は今しがた手から滑り落ちたリュックを思い切り踏みつけ、盛大にバランスを崩してしまう。


「うわっ!!」


一瞬で天井が見えたかと思うと、後頭部を嫌と言うほど床に打ち付けた。

それはまるで某格ゲーのサマーソルトキックを失敗して、そのまま頭から落ちた様子を想像すれば完全に一致する。

自分がたてた派手な音が響くのと同時に、一瞬で目の前が暗くなり意識が遠のいていく。


「◯△△!! ◯◯△△◯△!」


やっぱり何を言っているのかわからない、少女の言葉。

意識が遠のく寸前に、ズレた眼鏡の端から見えたものは、銀の髪を揺らしながら慌てて還の側に座り込む少女の姿。

少女の髪が揺れるたび、ふわりと漂う花のような香りに包まれながら、還の意識はそのまま静かに暗闇へと落ちていった。




『第2章 マキシマムアタック』


「あの……っ! 大丈夫ですの!? どっ、どうしましょう……!」


月明かりだけの薄暗い部屋の中は物音一つせず、緊迫した少女の声だけが空気を揺らす。

少女が転移したのは、どうやら時間的には夜。しかも無人の部屋だったらしい。

召喚魔法で展開した魔法陣が、“能力者”を捉える事なく開きっぱなしになるなんて、今まで聞いた事もない。

“ささやき─いのり─えいしょう─ねんじろ!”の“ねんじろ!”の所で、“お腹すいた……”と思ってしまったのがいけなかったのか。

結局少女が逆転移して、能力者を探して連れ帰る事にしたのは良いのだが…。

帰宅してきた能力者であろう男性を怯えさせてしまった上に逃げられそうになり、自ら手を下したわけではないのだが、結果的に盛大に気絶させてしまうとは。

……しかし、なぜ召喚魔法はこの男性を“能力者”として選んだのだろうか。

先ほど目の前で繰り広げられた様子を見ても、なにか特別に秀でたものがあるとは思えない。人は見かけによらない、ということなのか。


「しっかりなさって! 目を開けてくださいましっ!」


少女はどうしていいかわからず、眼の前で気を失っている中年男性の側に座り込み、ゆさゆさと彼の身体を揺らしながら、必死に呼びかけていた。

男性は幸い出血などはしていないようだが、どうやったらそんな転倒の仕方をするのかわからないくらい、派手にひっくり返って頭を打っていた。

ひょっとすると内部で出血などしているかもしれない。

とにかく命に別状がないかどうかを確認しなくては。


「ごめんなさい。お怪我の具合を確かめるために、どうしても必要ですの……。頭に触れさせていただきますわね?」


気絶している男性から返事があるとは思えなかったが、一応断って男性の頭に手のひらを乗せた。

初期魔法(ノービススペル)「探知」が発動し、じんわりと手のひらにその感覚が広がる。

同時にそこから青白い光がぽぅっと灯り、しばらくして光はそのまま消えていく。

異常を探知した場合、赤や黄色が灯るのだが、今回の探知結果は“異常なし”。少女はほっと胸を撫で下ろした。


「よかった……。傷や異常もありませんわね。」


少女は男性の頭から手のひらを離すと、どこか自分の心に引っかかるものを感じていた。


この男性……。縁の太い眼鏡をかけているので、素顔を正確に判断できないのだが、まるで昔から知っていて何度も会っていたような、そんな不思議な既視感。

月明かりの中、少女の心に広がる懐かしい感覚は何なのか。

今までは能力者に対して、こういう感覚になる事はなかったのに……。


「まさか……。いいえ、気のせいですわ。」


心の中の感覚に戸惑いながらも、少女はこれから先のことについて考えを切り替えなければならなかった。


この世界の住人にはインパクトが強すぎた第一印象のせいで、未知の何かを見たような目で見られた挙げ句、このザマだ。いまだかつてあんな目で見られた事があっただろうか。いや、ない。ちょっとだけ見た目には自信があったのに、さすがに少々……というか、かなりヘコんでしまう。いっそこの男性が帰宅して眠った時間に転移させてくれればよかったのに……などと、自分の召喚魔法の失敗を棚に上げ、不満げな表情を見せる少女。


「苦労してやっと探し出した能力者ですもの。見過ごすわけにはいきませんわ。」


召喚魔法失敗で魔力が心もとない今、気絶している能力者を連れ、すぐに召喚魔法と同程度の魔力を消費する帰還用の魔法陣を展開する事は不可能。

どうしてもこの世界で魔力を回復させる必要があるのだが、……しかしこの異世界、とんでもなく魔力の回復が遅すぎる。

自然の精霊力(マナ)が微力すぎて、完全に魔力が回復するのは一体いつになるのか全く見当がつかない。

できれば当事者であるこの男性と交渉して、納得してもらった後に魔力回復まで滞在させてもらい一緒に帰還、という流れがベスト。


全く見知らぬ異世界の、しかも男性の家でひとつ屋根の下しばらく一緒に暮らす。普通に考えると、一番選んではいけない選択肢を迷いなく選んでしまうあたり、この少女の一般常識的な何かは、この世界の常識とかなりかけ離れているらしい。

かなり都合が良い展開を描いて結果を微塵も疑わない少女。自分が想像した展開を遂行するための手段を考え、実行することにした。


とにかく言葉。

異世界だから当然なのだが、この男性には言葉がまるで通じなかった。これについては男性が気絶している間に先手を打っておく事にしよう。

また未知の何かと認識されては、傷ついたばかりの心に追撃でぽっかりと風穴が空いてしまう。


──しかし。


少女が発動させようとしている魔法は、相手の記憶にある言語を一時的に拝借して話す事ができる魔法「語律共有(ごりつきょうゆう)」。便利ではあるのだがノービススペルであるにも関わらず、彼女にとって“ある意味”、かなりの上級魔法(アーキスペル)と言える。


目を閉じ深く息を整え、魔法発動の準備をする少女だったが、みるみるうちにその顔はおろか、銀髪の間からちょこんと見えている耳の先まで真っ赤になっていく。

気絶している男性の頬に両手で触れ、あとは“ある行為”を行い発動を意識するだけなのだが。


「~~~~っ!! 何で…ですのっ!」


少女は真っ赤な顔のまま再び目を開き、少しの怒りと恥ずかしさが混ざった表情を見せる。

吐き出した言葉は、ノービススペルのくせにやたらと“少女にとっては”高度な行為を求める魔法、「語律共有」に対しての不満だ。

…そんな調子で大丈夫なのか。


「大丈夫。問題ない…ですわ。」

「だっ…だって、魔法発動に必要な行為ですもの。」


自分に言い聞かせるように独り言を言っては、両手で触れている男性の顔をむにむにとつまんだり、左右の手のひらでむぎゅーっと押しつぶして変顔にしてみたり。

男性が目覚めてしまうと発動のタイミングを逃す事はわかっているのだが、少女自身、今まで生きてきた人生の中で「語律共有」を使う機会はなかったし、もちろん発動に必要な“行為”など初めての事だ。

こんな事なら、寺院にあった語律共有練習用ダミーヘッド「伝わる君」で練習しておくんだったと後悔していた。


──と、その時。


両手でむぎゅむぎゅしていた男性の頬に、わずかな力が入った。その力は首や肩へと伝わり、男性の覚醒が近い事を示している。

……時間がない。覚醒を許してしまうと、それこそ会話をするタイミングを永遠に失ってしまうだろう。

能力者を怯えさせて、気絶させ、話も通じず、どうにもならなくなってこの場所から撤退。魔力回復まで宛もなくこの世界を彷徨い、命からがら自分の世界に帰る、なんて事になってしまうと、一体何しに来たのかわからない。

自虐の念にかられている少女をよそに、男性の瞳がうっすらと開こうとしている。幸い身体を動かそうとはせず、横になったままだ。


……もう今しかない!

少女は両手で触れている男性の顔に、自らの顔を近づけていく。


「ごめんなさい! こうしないとお話できないんですのっ…!」


「◯△…。◯◯△□…っ!?」


ゴッ!!!!!


極度の焦燥と緊張は、少女自身のコントロールさえも満足にできない程だった。

“おでことおでこを接触させる”だけだったはずなのだが、本人さえ放心してしまうような威力の“頭突き”をブッパしてしまう。目の前で光が見えたが“目から火花”的なものなのか「語律共有」が発動したのかは全くもって不明。


──終わった。


絶対これ、“頭突き少女”とか“とんでもねぇ”と思われてしまったに違いない。

仮に『語律共有』が発動していても、ちゃんと話をしてくれるかどうかも怪しくなってしまった。

……情けなくて涙が出てきた。


困惑と絶望と悲哀が混ざって、よくわからない表情で目を白黒させている少女。

赤く染まったままの耳に、なにか言葉を発した男性の声が聞こえたような気がした。




『第3章 記憶は花の香りとともに』


どれくらい気絶していたんだろうか。

還は自分の頬に何かが触れている気がして目を覚ました。

うっすらと見えてくる透き通るような碧眼。

少女はその華奢な手のひらを還の頬に添え、何やら頬を赤らめながら何語かわからない言葉を発し、お互いの顔の距離を縮める。

…未成年の異性が至近距離にいる状況。


“もしもし、ポリスメン?”

“青少年保護育成条例違反”

“自営業男性が未成年の少女にわいせつ行為”

“逮捕”


一瞬で頭の中に構築される、一発で人生が終了しそうな直滑降ワークフロー。どうしてこうなった。


「◯◯△□✕□! ◯◯△✕◯△□△✕◯△□△◯✕□っ…!」


「何を…。おい待て…っ!?」


ゴッ!!!!!


少女が発した言葉も、その行動も理解できなかった。……というより、どうでも良くなった。

この空き巣少女は還が気絶した間に逃げなかったばかりか、その間もずっと彼の側にいたようだ。

そして彼が目覚めた瞬間、ちょっと勘違いしそうになるような“どきどきエモーション”発動後に、ヤンキーも度肝を抜かす程の頭突きを放ってきやがったのである。どうやったら、そんなちっちゃなおでこから超暴力的なパワーが繰り出されるのか。

衝撃と同時に目の前に光が見えた気がしたが、きっとこれが“目から火花が出る”という現象なんだろう。とんでもねぇなこの子。


起き上がるのも億劫になるくらいクラクラする頭。

空き巣少女改め頭突き少女に視線をやると、酷くぶつけた小さなおでこを両手の手のひらで“セルフよしよし”している。その碧眼にうっすらと涙が浮かんでいるように見えるのは、どうやら気のせいではないらしい。

眉は下がり悲しそうにおでこを撫で続けている少女。

そのちっちゃなおでこは、ぶつけたであろう場所が酷く赤みを帯びている。

そんな様子の少女を見ているうちに、還の心に段々“可哀想”という感情が芽生えてくる。アホの子も 見方を変えれば 可哀想。

そもそも、空き巣なら還が気絶している間にトンズラできたはずだ。

それにこんな細身の華奢な少女が、何の武器も持たずに自分の力だけで還に危害を加える、なんて事は到底考えにくいし、そもそも暴力で物事を解決するような感じには見えない。……めっちゃ細いし。

確かに食らった頭突きは痛かったが、どちらかといえば仕掛けた少女のダメージの方が目に見えて大きい事は、この現状を見れば明らかだ。


「やれやれ……。すっごい音がしたな。……大丈夫か?」


未だ悲しそうに目を伏せておでこを撫でている様子が可笑しくて、還は上体を起こしながら話しかけてみた。

今どき言葉の壁なんて、スマホの翻訳アプリが解決してくれるに違いない。

とにかく害がなさそうなら近所の交番に「迷子」として送り届けてしまえば良い。

そう考えれば何となく気が楽になってきた。

早速、少女の言葉を翻訳させようとスマホのアプリを起動した瞬間──。


「あぁ…! やっとお話できますの!」

『Ah..! I can finally talk to you!』


先程の悲しい表情はどこへやら。向日葵が咲いたようにぱぁっと明るくなる表情。

おでこは依然赤みを帯びているが、そんな事は遥か彼方へ吹き飛んだらしい。

そして少女の口から確かに聞こえた“日本語”。

少し遅れてスマホの翻訳アプリが、白々しいくらい明るい声で還に英語を投げつける。なんでやねん。


「あの……先程はごめんなさい。痛かった、ですわよね?」


還の隣にそっと腰を下ろしていた少女が、申し訳なさそうに手を伸ばす。

指先が向かうのは、前髪の隙間からのぞく彼の額──。

けれど、その手が触れるより早く還はわずかに身を引いた。反射的な動きだった。

宙に取り残された華奢な手が、少女の胸元へと戻っていく。

月の光を宿した碧眼が、少しだけしょんぼりと伏せられた。


「……俺は大丈夫だ。それよりm」

「でも、少し腫れていますわよ?」

「いや、それよりm」

「他に痛む場所がありますの?」

「大事なはなs」

「大事な場所…? どこですの? お手当てして差し上げましょうか?」

「人の話を遮るな! 一旦ナデナデから離れろよ! 色々危ないから!」


還のツッコミに、叱られた子犬のように身をすくめる少女。

しかし、彼の側から離れようとはせず、ちょこんとフローリングに腰を下ろしたままだ。

彼を見つめる真剣な表情から、何か考え込んでいるようにも見える。


「日本語が話せるなら、始めから……。あ~…。とにかく、だ。」


このままでは進捗を見ない現状に対して、時間だけが過ぎてしまう。

還は未だフラフラする頭を抱えながら立ち上がると、リビングのソファへと向かう事にした。

少女も立ち上がると、これまた子犬のようにトコトコと還の後に従う。

リビングの入口にある照明のスイッチを押すと、やっと見慣れた部屋の様子がはっきりと目に入った。

なぜだか少女は照明がついた瞬間ビクッと身を縮め、あたりを警戒するように視線を泳がせたが、自分の身に何も起こらない事を確認すると、還の様子をうかがっているようだ。

明るい場所で見る少女は、やはり日本人ではなかった。ただ、日本語を流暢に話しているところを見ると留学生なのだろうか。しかし、留学生がなんで空き巣なんて……。


3人掛けソファの中心に腰を下ろす還。

テーブルを挟んで対面にも同じものがある。これなら落ち着いて話もできるだろう。

彼は少女の警戒を解くように穏やかに話しかけた。


「聞きたい事がある。……できれば落ち着いて話してくれると助かるんだが。」

「はい。わたくしもお話したい事がありますの。」

「とりあえず、適当に座ってくれ。」


…確かに還は“適当に座れ”と言ったが、少女はなぜか彼の左隣に上品な佇まいで腰掛ける。

まさか隣に来るとは思わず、彼は少女から少し距離を取るように退く。

いとも簡単に還のパーソナルスペースに入り込んでくる少女に、外国人はこんなものなんだと割り切る事にした。


「まず、君は一体誰なんだ? ……どうしてここに?」


還の言葉を聞いた少女の表情が幾分明るくなる。

少々前のめりに身を乗り出すと、開いていた還との距離が少し縮まった。

花のような香りが再び還の意識を刺激する。

…少女のパーソナルスペースも、もう少し仕事をしてほしい。

そんな彼の心境など気にもせず、少女は自己紹介を始めた。


「わたくしは、イーリス・イル・イールと申します。」

「やっぱり外国人なんだな。……で、なぜ、この部屋に?」

「能力者であるあなたを、お迎えに上がりましたの。」

「は? 能力者? イーリス・イル・イール……。……っ!!!!!」


少女の名前を口に出した瞬間、猛烈な頭痛が還を襲う。

先程の後頭部やおでこの痛みなど比にならないくらいの痛み。刃物か何かで脳をえぐられているかのような感覚。

心臓の鼓動に合わせ、それは容赦なく還に襲いかかる。


「どうなさったの?! どこか痛みますの?! しっかり……」


イーリスと名乗った少女の声が響き、白く染まっていく視界。

頭痛は止まる気配もなく脳をえぐり続けている。

ああ、これ…多分ダメなやつだ。

色々頭にダメージを受けたのが悪かったのだろうか。

イーリスの声はすでに聞こえなくなり、視界も完全に白に染まる。

還がぼんやりと死を覚悟したその時。


先程の痛みは嘘のように止み、目の前に壮大な景色が広がっていく。

最初に目に飛び込んできたのは空を覆うほど枝を伸ばした、とてつもなく大きい大樹。

見渡す限り白と黒以外に色はなく、先程の大樹でさえ本来の植物にあるはずの色はなかった。

空も雲も山も、はたまた地面も草も花も。

まるで白黒写真のように存在している。

ふと見ると、大樹の根本に誰かが腰掛けていた。目を凝らすと先程イーリスと名乗った少女に瓜二つだ。

風に揺れる腰まである銀髪。色のない世界でその碧眼は唯一鮮やかな色を持ち、明るい色を放っている。

還の視線に気づいた少女は立ち上がり、両手を思い切り伸ばしブンブンと手を振った。

跳ねるように駆け出すと、あっという間に彼の目前に到達する。


「カエリ様? やっとお目覚めですの? わたくし、ずーっとお待ちしておりましたの!」


そう言うと満面の笑みを浮かべる少女。

還の身体に華奢な腕を回すと、ぎゅっと抱きしめる。

そして、ふわりと広がるあの花のような香り。

懐かしい感覚が還の心を支配した時、景色は見慣れたものに変わり色を取り戻す。


…目の前にあるのは見慣れたリビングと、真剣なイーリスの顔。

今見た光景は何だったのか。三途の川というには、あまりにも聞いていたものと違いすぎる。


「気が付きましたの?! …もうっ! もうっ!! わたくし、本気で心配したんですのよ?!」

「夢……を見ていた。白と黒の光景に、空が見えないほど枝を伸ばした大樹と…君がいたんだ。」

「……えっ……?」

「夢の中の君は、俺を見てこう言った。『カエリ様。やっとお目覚めですの? ずっとお待ちしておりました』って……。」

「!!!」


そこまで聞いたイーリスの動作は、今までのどの動作よりも速かった。

還の眼鏡を文字通り掴むと、引き剥がすように取り去る。

彼の顔に両手で触れ真剣に見つめる顔つきが、やがて満面の笑みとなり、その透き通る碧眼からは大粒の涙が溢れ出す。


「ああ…。やっと見つけた……! やっと逢えたっ……!」

「…? 何を言って…って!?」

「髪型が変わっていて、眼鏡をかけていらしたからっ……気づくのが遅れましたのっ……!」


還の身体は、飛びついたイーリスによって抱きしめられていた。

彼女は泣きながら一生懸命言葉を発しているようだが、全て嗚咽に変わってしまう。

ただ抱きしめられ呆然とイーリスを見守る還。

胸に広がる、夢の中で感じた懐かしい感覚。“頭突き少女”ではなく、“以前から知っていた”と確信できる何か。

この感覚は、一体どこから溢れ出てくるのか。

とにかくイーリスが落ち着くのを待って話をしよう。

…いや、泣き止むのかこれ。

何とか落ち着かせようと彼女の頭を撫でる還。

花のような香りと、銀髪のさらりとした心地よい感覚が手のひらを伝っていく。


結局、イーリスが落ち着いて話ができるようになったのは、日付が変わってしばらくした頃だった。




『第4章 食事は満面の笑みで』


「……というわけ、なんですの。」


落ち着いた表情で語り終えたイーリス。

泣き腫らした目が少々痛々しいが、透き通るような碧眼は還の姿を優しく映している。

一方の還はと言えば、眠気覚ましのために用意した緑茶を一口含み、あれこれと考えを巡らせていた。


──内容を要約すれば、こういう事だ。


イーリスは“異世界”の住人で、その、色のない異世界──“白の草海(そうかい)”とやらで、魂の浄化を司る“浄化の木”を守る「守り人」。

魔法も使えるらしく、最初に出会った時に見えた魔法陣のようなもの──能力者を感知し“捕える”召喚魔法は、彼女が使った魔法らしい。……拉致ではないのかと思ったりもしたが、とりあえず今は聞かないでおこう。

その後、還が垣間見た光景や、そこでイーリスと思われる少女が話した内容が、彼女自身の持つ記憶と寸分たがわず一致。

何とかここまでは理解した。


問題はこの先。


曰く、還はその前世でイーリスとともに守り人として“怪異”なるものと戦っていたらしいが、ある大きな災厄によって“白の草海”から姿を消す。

災厄の後イーリスを含む守り人達はあらゆる手段を駆使し、姿を消した還を探索したが見つけられず、異世界に転生したのではないか、という憶測のまま消息不明。

半ば諦めていた矢先、転移先…還の自宅で再会を果たし現在に至る。


「……ふむ。」


還はまとまらない思考を必死で整理しながら、低く頷いた。


「…還様?」

「君は初めに、“俺を迎えに来た”と言っていなかったか?」

「はい、その通りですわ。守り人になる力を持つ“能力者”を迎えに来たつもりでしたのに…。」

「大きな厄災の後、消息不明だった“カエリ”……異世界に転生した俺を偶然見つけた、と。」

「こういうのを棚からぼた餅、というのですよね? この世界では。」


異世界人のイーリスが、どうやってこの短時間で日本語を話せるようになったのかを聞きそびれていた還。

異世界から来た彼女の口から“棚ぼた”が出てくるとは…。

それこそ事実は小説よりも奇なりと言ったところなんだろうが、時刻はすでに深夜2時過ぎ。

異世界人だ魔法だ転生だと非現実的な事を言われても、正直、頭は一向に働こうとしない。

眠気に勝てず目を閉じては、イーリスに何度か頬を突かれて目を覚ましたほどだ。


「……続きは明日にしないか、イーリス。君もt」

「イル……ですの。」

「………うん?」

「ですからっ! 以前の還様は、わたくしの事をそう呼んでたんですのっ!」


真実を知っても反応の薄い還に、少しふてくされた顔を見せるイーリス。

…ちょっと面倒くさいぞこの子。

そもそも前世での彼女との関係はどういったものだったのか。愛称で呼ぶほど親しかった、という事らしいが…。

腹も減ったし、何より眠くて仕方がない還。そう呼んでいた、と言うのだから呼んであげれば機嫌も良くなるだろうと、半ば強引に言葉を並べ立てる。


「イル? 今日はもう遅い。食事を作るから食べて休め。行く宛がないなら、個室を貸すから続きは明日にしよう。」

「…は、はいっ?! わたくし、ここにいていいんですの?! …え、えへへ~。“イル”。いい響き…。」


今度はなんだか頬を赤らめながら手をモジモジ、身体をクネクネと落ち着きがない。

…チョロい。こんなにチョロくて世の中渡っていけるのかチョロイル。


「……イル。」

「?! な、何でしょう。還様?」

「俺は、愛称で呼ぶほど君と親しかったのか?」

「それはもう。他の守り人さん達から冷やかされるくらい、いつも一緒でしたし……。その、お、お……。」

「……? お?」

「お風呂だって一緒に入るような仲…………だったのですわ。」

「最後のは嘘だな? 恥ずかしさに負けるくらいなら言わなきゃいいのに。」


……嘘を見破られそうになった時、視線を外し口笛を吹いて誤魔化そうとするのは、異世界人でも共通らしい。

しかも全く吹けておらず、尖らせた口からプヒューだのシューだのと空気が漏れている音しかしない。

同じ頭でも、打った所とは別の場所が痛くなってきた還。

いろいろな事が未解決のままだが、明日の自分がなんとかしてくれるだろう。頼んだ明日の自分。


目を離した隙に、再びモジモジクネクネしながら先程の会話を反芻している彼女をよそに、還はかなり遅くなってしまった食事の準備を始める。

そろそろ彼の活動限界も近い。

本当は胃に何かが入ったまま就寝するのは避けたいが、昼食以降何も口にしていない空腹感のまま眠りにつく事は不可能のように思えた。

行動が決まってしまえば、毎日こなしている手順でテキパキと食事が完成していく。


…やがてキッチンに漂う食事の香り。

最後に早炊きで炊いたご飯をよそってテーブルへ並べると、未知の品々にイーリスの興味は尽きない。

いつの間にかちゃっかり還の正面の席に陣取ると、好奇心でその碧眼を輝かせながら手当たり次第彼に質問を投げかける。


「ね、還様? この黄色くてくるんと巻かれてて、ふわふわなのは何ですの?」

「卵焼き、だな。」

「では、この白くてキラキラした粒の集まりは?」

「白ご飯。」

「これは、きのこのスープ…でいいのかしら?」

「味噌汁だな。このきのこは“なめこ”。」

「ミソシル? ナメコ…??」


よほど異世界の食事が珍しいのか、手にとって眺めたり匂いを嗅いだりしながら、嬉しそうに笑顔を見せるイーリス。

還はそんな彼女のそばに、箸、ナイフにフォーク、スプーンを周到に準備していく。

異世界人の彼女が何を使って食事をするのか知る由もないが、これだけあれば何かしら使えるものを使って食べられるはずだ。

料理を一通り観察し終わって満足したのか、彼女は穏やかな表情で還を見ると、目の前に出された料理にチラチラと視線を移しながら問いかけた。


「あの、還様? それでわたくしはどれをいただけば…。」

「何言ってるんだ? 全部イルの食事だぞ。」

「へっ…??」


イーリスは目を丸くし料理をひとつひとつ確認したかと思うと、嬉しそうに還に視線を戻す。


「これっ…! 全部わたくしがいただいてもいいんですの?!」

「口に合わないものは、無理して食べなくても…。」

「いいえ! 還様が作ってくださったものが、口に合わないわけありませんわ!」

「そうか? 慌てて食べると消化に悪いk」

「いただきます! ですわ~!」


よほどお腹が空いていたのか、早速目前の食事に手を付けるイーリス。

しかも意外な事に、何のためらいもなく箸を手に取ると、日本人顔負けなくらい器用に使って食を進める。


熱々の白ご飯を、はふはふと湯気を立てながら口にすると、卵焼きを頬張り、味わいながら噛み締め胃に収めていく。

間髪入れず口をつけた味噌汁では、中に漂うなめこの食感に一瞬驚きの表情を見せたが、一口目、二口目と夢中で食べ進め、そのまま完食。

目の色を輝かせながら再び白ご飯の器に持ち替え、残りの卵焼きに箸を伸ばしている。

白の草海とやらにも箸を使って食事をする文化があるのだろうか。

……前前前世くらいは日本人だったんじゃないかこの子。

目の前の料理を笑顔で喫食するイーリスを見て、還はどこか懐かしさを感じていた。

一通り彼女の食事の様子を見ると、お茶の準備をしながら自らも食事に手を付けた。


「還様? この“味噌汁”というスープ、とても優しい味がしますわね。身体に染み入る感じがしますの。」

「まさか、イルが味噌汁を気に入るとは思わなかった。」

「なんとなく、力が湧く感覚がいたしますのよ?」

「それが本当ならユ◯ケルとかタフ◯ンは商売上がったりだろ……。」


食事を終えたイーリスは、緑茶の入った湯飲みを両手で持って美味しそうに飲み干すと、楽しそうにその碧眼を細めて笑う。

時間にして30分ほどだっただろうか。

普段何気なく食べていた食事も、話し相手がいるだけでこうも違うものなのか。

笑顔で食事の感想を話すイーリスと交わす言葉は、還の心を不思議な感覚で満たしていく。

──どこか温かく、懐かしい…。

久しぶりに感じた感覚だった。


食器を片付けた還がリビングへ戻ると、イーリスはソファに座ったまま、うつらうつらと夢の世界へ向かって船を漕いでいる。

満腹で安心したのか、その表情はとても穏やかだ。

しかし、さすがに女の子をソファで寝かせ自分は寝室で寝るというわけにはいかない。彼女が夢の世界へ到着する前に寝室に移動してもらわなければ。


「おい、イル? 寝るならここじゃダメだ。ちゃんと部屋があるからそこで…。」

「還様…? もう眠くて動けません…の。わたくし…ここ…で……。」


イーリスは最後まで話し終わる事なくソファにころんと転がり、スヤスヤと穏やかな寝息を立て始めてしまう。


「イル? おい、イル! ここで寝ると風邪をひくだろ。」

「……お味噌汁ならぁ……まだ入りますぅ……。」


肩を揺らして起こそうとする還に、寝言で味噌汁のおかわりを要求するイーリス。

…あれだけ食べてまだ入るのかお前。

還はイーリスの肩を揺さぶるだけではどうにもならない事を痛感すると、仕方なく彼女を抱えるため、その華奢な体と足に腕を回し、起こさないように静かに抱え上げる。

その腕にかかる負荷が想像以上に軽い事に驚く還。

女の子で細身という事もあるだろうが、それを考慮しても少々軽すぎるのではないか。

歩く先を見ていた視線は無意識に、穏やかな寝顔の彼女へ向けられていた。


「………軽いな、イル。こんな細い身体で、怪異とやらと戦ってるのか…。」


寝息を立てて眠っているイーリスが返事をする事はない。

白の草海という別世界での彼女の役割を思い出し、この少女の置かれている現状を考えると、一刻も早くその白の草海とやらへ戻らなければならないのではないか。

…彼女が答えられる状況にない今、還が何を考えていても話が進展するとは思えない。

続きを聞くのは明日でも大丈夫だろう。

寝室のドアを開け、還が使っているベッドにイーリスを横たえる。

なんとなく気づいてはいたが、やっぱり土足だった。

彼女が履いていた皮のブーツを、留め金を外して脱がす。

足元の床にでも置いておけば、目が覚めた時に気づくだろう。

…室内で靴を履かないように注意しておかなくては。


「還様…。ずっと…探して…。」


寝言を言いながら寝返りを打つイーリスに薄手の毛布を掛けて自分の部屋着を手に取ると、彼女を起こさないようにそっとベッドから離れる。


「おやすみ、イル。」


そう言って寝室を出る還。

リビングに戻ると部屋着に着替え、ソファに横になった。

床に転がったままのリュックを拾い、枕の代わりにする。

イーリスには風邪をひくと言ったものの、特に寒くもないしこのまま眠っても大丈夫だろう。


何年分かのイベントが一気に押し寄せたような日だった。

還を“迎えに来た”と言ったイーリス。

別世界の“白の草海”、“浄化の木の守り人”。

そして、そのイーリスと行動を共にしていた前世の還。


静かになったリビングに時計の針が動く音だけが響く。

時刻は午前4時を少し過ぎていた。


「俺を迎えに来た…か。」


還との再会に涙して喜ぶイーリスの顔が脳裏に浮かぶ。

静かに時を刻む時計の音で、還も遅い眠りにつくのだった。

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